『風に吹かれて』
なだらかに続く坂。坂の上から見下ろせば、街の全てが一望出来る。道々の形。建屋の配置。街の色。街の声。眼下に望めば、太陽の強い日差しに照らされた街を体一杯に感じられる。
薄桃色したレンガ造りの歩道を坂の下りに任せ、僕は自転車で一気に駆け下りる。またがった自転車の金属フレームからは軋みが伝わってくるが気にしない。辺りを包む暑苦しい真夏の空気も、耳の横を過ぎる頃には心地よい風になっていた。
「ふぁっほ〜」
下り坂の爽快な加速に、口からは自然と無意味な声が漏れていた。
僕の住むこの街は『坂の街』と言っていい。山裾から伸びた稜線が、そのまま海岸まで続く緩傾斜に街はある。どこに向かうにも坂がつきまとうこの街は、本当は住みよい所とはいえないだろう。それでも数多くの人が移り住み、案外栄えた都市となっていた。
それなのに、八月の昼下がりという時間帯にもかかわらず、街にはほとんど人影はなかった。特に主要道路沿いの開けた地区では、まるで砂漠の真ん中にある古代遺跡の岩城となったみたいにコンクリートの建物が寂しく建ち並んでいる。
「そっか、みんな宿題してるんか」
交差点へのアプローチ。赤い信号にブレーキをかけながら、僕はぽつりと呟いた。
そうだ。夏休みはもうすぐ終わる。こんな暑い最中に外へと出るのは子供ぐらいで、その子供たちは今頃、家の中で夏休みの宿題に右往左往しているはずだ。
かく言う僕も宿題はまだ終わっていない。けれど、もうする気もない。宿題は白紙のままで九月一日を迎えるだろう。
交差点を渡ると、古い路面電車の線路のレールでハンドルが波打った。当然のように自転車も大きく揺さ振られ、僕の体にも大きな振動が伝わってくる。
バランスを崩してしまいそうな揺れに、僕の口元はにやけてしまった。嫌でも駅に止まっている路面電車のカラフルな車両が目に入ってしまうからだ。
そうすると、不意に思い出してしまうのだ。幼い頃にバアさんに連れられて出かけたことを。
あの頃は駄々ばっかりこねて、バアさんを困らせていた。中学生になった今なら、どうしてあんなにわがままばかり言っていたのか、自分が嫌になる。
それなのに、バアさんは嬉しそうに僕のわがままに付き合ってくれた。だから僕はそんなバアさんにお返しをしたい。いっぱいお返しをしたいと思っていた。そう思っていたのにバアさんは昨年死んでしまった。
バアさんの葬儀、その最後の別れのときに心の中で、ごめんねと言ったけど、僕の中には後悔しか残らなかった。そんな女々しい自分が嫌いで、時々どうしようもなく奥歯を噛みしめる。自分の無力さに必死に耐えることがある。
それなのに、路面電車の存在を感じると口元が自然と緩むのは、思い出というのはどうしようもなく懐かしくて、僕にとって、とてもかけがえのないものなのだろう。
街を延々と縦に貫く長い坂が終わると、急に街がにぎやかになる。少なかった人通りも増えてくる。僕は人目を避けるように細い路地に入り、遠回りにはなるが川沿いの道に出た。
微かに潮の香りが鼻先を過ぎる。川の流れは緩やかで、穏やかな空気が漂っていた。あまり潮臭いのは好きではないけど、海まで来たという実感がひしひしと湧いてくる。なんだか嬉しい気持ちに包まれ、潮風を辿るようにペダルにぐっと力をいれた。
車通りのない堤防道は、黒いアスファルトがうねりながら延び続け、僕の進行を阻むものはない。その上を滑るように、僕の自転車は風を切ってかける、かける。
全力で自転車をこぐ僕の隣には、ずっとキラキラひかる水面がいる。堤防から見下ろす川が、自転車が進むのと同じ速さで流れていく。併走する水面を引き離してやろうと、またペダルをこぐ足に力をいれる。ぐい、ぐいと踏み込む度に自転車は、前に前にと、迫り出していった。
なのに、流れを止めることなく首を伸ばす川は、引き離すどころかずっと僕の前にいる。それでも負けるか、そんな気持ちでペダルをこぎ続ける。
黒いアスファルトを刻むタイヤの音だけが聞こえる。はぁはぁと荒げる息だけが聞こえる。そして止まることのない僕の鼓動。
何も考えないでいい。考える必要のない一時。そんな時間が愛おしい。
全力疾走のしっぺ返しが足に襲いかかって来ても、僕はスピードを緩めたりはしない。逆に立ちこぎに切り替えてラストスパート。体を左右に振りながら、どこまででも、いつまででも走ってやると心に決めた。
そして視界が開ける。
「海ぃぃーっ!」
思わず口に出ていた。思いの限りに叫んでやった。
四角ばった防波堤とアーチを描く橋が、遙か遠景の水平線と並んで、積み木のように折り重なる。太陽がさんさんと降りそそぐ海は、船の起こしたさざ波のグラデーションで光り輝いていた。
やっとのことで滑走を終えた自転車を乗り捨てて、僕は海を臨む。景色だけでなく、耳で、肌で海を感じることが出来た。
そんなに綺麗な海じゃない。工場地帯があるこんな街の海が綺麗なはずがない。そんなことぐらい知っていた。だけど今日は海が見たかった。無性に見たかった。
そしたらどうだ。この海のどこが汚い。どこもかしこも輝いている。寄せる波が壮大に歌っている。
やっぱり海だ。これも海だ。南国の透き通ったディープブルーも、冬の荒々しい厳海も、この海とどこかでつながっている。どの海と比べても遜色ない海がこの街にはある。少なくとも僕はそう思う。水質だなんだなんてクソ食らえだ。
光に揺れる海を見ていると、僕の手は無意識に携帯電話のカメラを構えていた。
違う。そうじゃない。僕はそっとカメラを下ろす。
僕はこの風景を撮りに来たんじゃない。思い出を写真に残すために来たんじゃない。僕はただ見たかったんだ、この街の海を。
しばらく、海をじっと見ていた。一時として同じ色のない海は、いつまで見ていても飽きはしない。
遙か遠くにある臨海の工場。そこから出る白い煙が風に流されても、僕はどうするわけでもなく、海をただ眺め続けた。
広々とした海と空に挟まれて、僕の心は青い色に吸い込まれそうになる。体の力が抜けて、何も考えられなくなる。何も考えられないはずなのに、僕の心には、今までのことや、これからのこと、様々なことが過ぎっていく。
人生の終わりには走馬燈というものを見るという。今、僕の脳裏を過ぎ去っているのも、それに近いものなのかもしれない。ただ、僕の人生はまだ終わる予定は入っていない。
「海、行けんかった……」
目の前に海があるのに、僕の口から漏れたその言葉は少し奇妙に感じられる。でも、僕の言っている海は目の前にある海とは別の海。中学校の友達と泳ぎに行くと、夏休み前に約束していた。結局、行かず仕舞いで夏は終わる。
ユウイチ、怒ってるかな? いや、絶対に怒っている。ユウイチは約束を破られるのが大嫌いだから。
ユウイチとは小学校からの友達だ。むしろ、同じクラスばかりになる腐れ縁。ずっと一緒だからうざったい。そんな関係だからこそ、あいつが怒っている様がありありと想像出来る。
海鳥がカァと鳴く。顔を上げてみれば、その姿はどこにもない。代わりに頂点を過ぎた太陽が僕を見下ろしていた。
「次、行かんと」
その声と共に、無造作に止めてあった自転車に駆け寄って再びまたがった。そして元来た道を戻っていく。折角、坂を下ってここまで来たのに、また坂を上がって行くことになる。それは覚悟の上で、ここを今日、最初の場所に選んだのだ。
さっきは全力で走った道を、今度はゆっくりと帰っていく。先程は一瞬で通り過ぎた色んなものが目に入ってくる。川で群れを作る魚たち。学校が休みでもいつもの如く機械音をあげる町工場。アスファルトが作る薄陽炎。
それは普通の夏休み。今まで何回も経験した夏休みと変わらない。ほんと何も変わらない。
この街は変わらない。これこそが僕の知っている街の姿だ。
先程は思いのままに下った坂道を、今度は必死に上っていく。誰がこんな坂ばかりの街を作ったのか、愚痴の一つも言いたくなる。だから今日ぐらい言ってやる。
「クソッタレ!」
そんな汚い言葉に応えてくれるのは、遠くから聞こえてくるクマゼミの声ぐらい。
そのセミの声に誘われて、僕は公園へと足を伸ばした。喜々として広がる青葉のテントの下に身を滑らせて自転車を止める。
大型とは言えないが、小さくもない公園。冬には落ち葉をまき散らす木々が、真夏の陽光を受け、これでもかというほど枝葉を伸ばしている。
公園を囲む生け垣の下では、僕と同じく涼をとっているのだろう、猫がじっとこちらを見ていた。
よく見れば黒猫に三毛猫、その他諸々、あちこちに野良猫たちがやる気なさげにだれている。こんな暑さなのに動き回っている僕を奇妙なものでも見るように観察した後は、猫たちも思い思いに昼寝に戻っていった。
僕は深い息吹で体に溜まった二酸化炭素を吐き出す。それでも滴る汗は止まらない。だけど嫌な汗ではなかった。
じりじりとした太陽光線が作る日陰は、夏の唯一の救いってものだ。そこはセミたちのシンフォニーステージ。本当に全周囲。全ての方向、遠くから近くから、セミの鳴き声が聞こえる。
というか、うるさ過ぎる。さすがに夏の公園だ。セミがたくさんいるこの公園は、昔から遊び場として僕たちの御用達となっていた。もちろん小学生の頃はセミ捕りに明け暮れた。だからといって公園をセミに占拠されるのは、人間様としては手放しでは喜べない。
それでも、上を見上げて目を細める木漏れ日の澄んだ光は悪くないと思う。クマゼミばかりの大音量の中でミンミンゼミの声を探すのも乙なもの。
しかし今はクマゼミの声しか聞こえず、少しげんなりしてしまう。すると、ジジジッ、とセミの声が草陰の中から聞こえてきた。
目を落とせば、雑草に紛れて一匹のセミがいた。いや、セミが落ちていた。弱々しい鳴き声。恐らくもう余命いくばくもない死にかけのセミだろう。腹を表に向け、足をわなわなと動かし続けている。
ただでさえ成虫のセミは短命だ。一度力尽きれば、もう助かることはない。
僕はそのどうしようもない運命に苛まれたセミに同情は出来なかった。同情してはいけないのだと自分に言い聞かせる。それなのに、そのセミから目を背けることは出来なかった。
しばらくは聞き苦しいほど弱った声で鳴いていたそのセミも、いつの間にか動かなくなっていた。
なんとなくの後味の悪さに、僕は自転車を押して、ゆっくりとその場を離れた。
公園を突っ切って、入ってきたのと逆側の出口に着いた頃には嫌な気分も和らいで、休憩充分。ハンドルを握る手に力がこもる。
「次はどこ行こかな?」
それは自分への問いかけ。僕には行くべき場所がまだまだたくさんある。
*
こんな太陽がぎらぎらと睨みを利かせる真夏に、最高の場所はと問われたなら、どんな答えが返って来るだろうか。
夏といえば海。夏といえば山。その辺りが模範解答なのかもしれない。でも、圧倒的多数はこう言うだろう、『クーラーの効いた部屋』と。
僕もそれには大賛成。特にデパートの中なんか極上だ。既に秋物を並べ始めている気の早い洋服売り場なんて、完全に夏を忘れさせてくれる。
けれど、デパートを訪れても、この日の僕は洋服売り場に用がない。そんなフロアには目もくれず、最上階にまっしぐら。
これ以上、上がりようのないエスカレータを降りると、目の前に騒がしい空間が広がる。あちこちから折り重なった電子音で落ち着きがない空間。このデパートの最上階にはゲームセンターがあった。地元の学生が学校帰りに寄って、見回りをしている先生に注意されるということを繰り返すスポットとして有名である。
僕もたまには寄って、そのたまに先生に見つかったりする間の悪い人間だ。でも個人的に騒がしいゲームセンターはあまり好きじゃなくて、それよりもお気に入りの場所がこのフロアにはある。
来たついでにと、ゲーム機を一台一台覗きながら、やはり遊ぶ気のない僕は、ゲームセンターを通り抜けていく。
そして現れるのは、ゲームセンターの喧噪を背景に、ぽつりと寂しくたたずむベンチが一つ。最も奥まった場所にあるので利用者は極端に少なかった。
このどこからどう見てもただのベンチに見える、本当にただのベンチが僕のお気に入り。正確にはベンチの更に向こうにあるガラス窓がそうだ。壁一面にガラスがはめられたそれは、デパートの最上階という立地も相まって、なかなかの情景を見せてくれる。
目を凝らせば県境の山々まで見渡せるにもかかわらず、展望スポットとしては全くのマイナーで、時たまゲームセンターに遊びに来た子供がはしゃいでいるぐらい。僕も昔はその一人だった。
ただ、純粋に展望を楽しむには少し高さが足りず、視界の大半は駅前にある雑居ビルのネオン広告が占めてしまう。それはこのデパートも駅前を中心とした古くからある商業区の一端を担ってきた証拠だと思う。近年、郊外に巨大なショッピングモールも作られたけど、そっちには一度行ったきりで、僕はいまいち好きになれなかった。
僕はベンチに両膝をつき、窓から真下を覗き込んだ。窓に触る両の手には、じっとりと外気の暑さが伝わってくる。そして遙か下には交差点のスクランブルが見える。そこには豆粒のような人の影がうじゃうじゃ。
「ふふふ、人がゴミのようだ。……なんて言うんはワンパターンやな」
僕はお約束の一言を自虐的に笑う。でも実際には、そんな気持ちは欠片もない。人の行き交う交差点を見ていると、この街を動かす活力みたいなものを感じることが出来る。
今は、その活力を少しだけでいい。分けてもらいたい気分だった。
僕は大きな溜息を吐いていた。この場所から、こうして景色を見下ろしたのはいつぶりだろう。初めてこの場所に来たのは、恐らく幼稚園の頃だったと思う。中学生になってからはこうして街を見下ろすことはしなくなっていた。
それなのに、ここを今日立ち寄る場所に選んだということは、この場所が僕にとって何らかの意味があることを示しているのだろう。
単に見晴らしがいいでは説明がつかないその意味を、僕は言葉として言い表せそうにはない。ただ、こうして窓から街を見つめていると、ぎゅっと胸が締めつけられた。
見下ろす交差点の信号が変わる。すると今度は自動車の流れが始まる。それを見て、僕は急にある衝動にかられた。
ただ一所に留まるなんて勿体ない。僕もあの交差点と同じように、常に流れたい。常に進みたい。いつもうじうじしている僕だからこそ、こんな日は着の身着のまま自由に過ごしたい。まだまだ行きたい場所は残っているのだから。
そんな衝動にかられて、僕は折角立ち寄ったデパートをさっさと後にする。
また夏の粘っこい外気に出迎えられて、デパートの裏手に停めていた自転車を取りに行ってびっくり。
ついさっき停めたばかりの自転車は、僕と同じく違法駐輪の軍勢に埋められていた。たった数十分、デパートにいただけなのに、目も当てられない。
「なんで誰も、ちゃんと駐輪所に停めへんのや」
自分を棚に上げて、そんな言葉が口をついて出る。
それでも僕は、慣れた手つきで自転車を掘り起こし、先程デパートから見下ろしていた交差点に向かった。
信号は赤。歩道には行儀良く並ぶ信号待ちの群衆が出来ていた。そこに僕も我が物顔で入り込んで行った。
そして信号が変わる。皆、我先にとスクランブル交差点に踊り出して行く。僕も負けずに自転車をこぎ始める。
交差点に人の波は実際の海の波より荒々しい。さっき見下ろしていた場所に、今度は自分がいる。それがなんだか不思議に感じられた。
「えっ?」
我ながら間抜けな声が口から漏れた。急いで片足を地面に着き、自転車を止める。
交差点の中に覚えのある人影を見た。そんな気がしたのだ。人込みで混雑した交差点で振り返る。しかし遅かった。視界を掠めた人影は、行き交う人の流れに消え去っていた。
こんな交差点の真ん中で止まっている訳にもいかず、僕は仕方がなくその場を離れることにした。
交差点ですれ違ったと思ったのは、小学校の同級生だった女の子だ。彼女は私立の中学校に行ってしまい、僕たち地元の公立中学校に進んだ者とは別れ別れになってしまった。
ただ、先程見かけた気がするのは僕の気のせいかもしれない。次の目的地である川向こうの跨線橋に自転車を走らせながら、僕はそんなことを考えていた。
今日、彼女に会えたらいいな。そんな期待が、僕の頭のどこかにあったのかもしれない。
学校が違って、もう会うことのなくなった彼女は僕にとって特別な存在だった。まことに恥ずかしながら初恋という奴だ。でもそれは甘い恋愛というのとは少し異なる。一言で表すなら、『憧れ』という言葉が一番しっくりくる。
とはいっても、彼女は男子の誰からも好かれるタイプではなかった。頭も良くてスポーツも出来るけど、どちらかというと友達を多く作らない性格の女の子で、少し人を拒絶する嫌いがあった。そんなところが、逆に惹かれてしまう。僕も困った人種をしている。
会うことのなくなった今だから、冷静に言えるのかもしれないが、僕が彼女を本当に好きだったのか疑わしい。本当に好きだったら、何としてでも彼女に近づきたい。そういう風に思うものだと思う。だけど、僕は彼女に近づくことは出来なかった。いや、ただ単に拒絶されるのが恐かったのかもしれない。僕はずっと遠くから彼女を見ているだけだった。
彼女が僕たちとは別の中学校に行くと知っていたのにもかかわらず、僕は当然のように、彼女への思いを秘めたまま卒業式を迎えてしまった。小学生の初恋なんて、そんなものだと思う。
しかし、僕が彼女に特別な感情を抱いているのには、もう一つ理由がある。
これは小学校を卒業し、中学校に入ってから知ったことだが、僕の友達であるユウイチも、彼女のことが好きだったらしい。そんなこと、小学生の頃にはおくびにも出さなかったから、ほんとびっくりだ。そのことをユウイチ本人から聞かされたときは、心臓が飛び出すかと思った。
そして聞かされたのはそれだけではない。ユウイチは卒業式のその日に、彼女に告白したらしい。
結果は「興味がない」とかなんとかで、ユウイチもあえなく敗退。それも小学生らしいエピソードと言えばそうだ。
ただ、同じ人を好きになっても、告白したのと、しなかったのでは大違いだ。僕とユウイチの間には大きな隔たりがある。
隔たりというのは大げさかもしれない。僕はユウイチの行動力を尊敬しているのだ、うらやましいぐらいに。
僕が出来なかったことが出来たユウイチ。振られたことを話してくれたユウイチ。僕は、彼女を好きだったことすらユウイチに言っていない。
告白する勇気のあったユウイチに、僕は恥ずかしくて何も言えない。多分、もう一生、言えないと思う。
同じ人を好きになったのに、ユウイチは僕に出来ないことが出来る。似ているようで似ていない。それが、僕とユウイチが親友として今までやって来られた一つの理由だと思う。
そんなことが頭を過ぎり、僕の心はざわざわと騒ぎ出す。
心の平静を保とうと、僕は首を大きく振った。そしたら、あることを思いついてしまい、僕は次の目的地に向かう自転車を加速させる。
坂の街であるこの都市の傾斜を嫌うように、等高線みたいに横断している山の手の線路。海岸に沿って作られた路面電車と並び、この都市の重要な交通網だ。その電車の軌道を越えて住民が行き来するために、小振りな跨線橋がいくつも造られていた。そのうちの一つに僕は辿り着いた。
タイミングのいいことに、というより早すぎる。丁度、くたびれた金属光沢をさせる電車が跨線橋の下に向かって来ていた。僕は大急ぎで跨線橋の階段を駆け上がる。それと同時に、電車は橋の下に飛び込んだ。
真下から体を震わせる電車の騒音。その中で僕は大声で叫んでいた。
どんなに耳のいい者でも、僕の声は聞こえなかっただろう。それぐらいの大きな騒音の中で、僕は初恋の人への告白の言葉を叫んでいた。
実際にはすることがなかった告白。その思いのたけをぶちまけた。
電車が通り過ぎた後のその場には、僕が息を切らせてたたずんでいるだけだった。自転車、階段、叫び声と、三段階の酸素消費で頭がくらくらする。
普段なら恥ずかしくて口に出来ない言葉を、大声で叫んだ僕の気分は健やかに晴れ渡っていた。
「でも……」
僕はそれ以上、口に出来ない。電車の騒音でかき消され、誰の耳にも届かないとわかっているのに、告白の言葉に、彼女の名前を添えることは出来なかった。それが僕の限界。
僕はユウイチに勝てそうにない。
ユウイチは、本当に心の底から尊敬しているし、大事な親友だ。けれど、僕はユウイチのことが妬ましいぐらいにうらやんでいる。
こんな僕は今、ユウイチに合わす顔がない。
*
軽快にペダルをこげば、サドルからは地面の感触がしっかりと伝わってくる。
僕の自転車の旅は順調に進み、目的地を次々と回っていった。
夏休みの度に通った図書館に、フナ釣りに行った貯め池、学校帰りに毎日のように寄ったゲーム屋などなど。どこもかしこも自転車で回るだけなんて勿体ない。でも今日は時間がないから本当に眺めるだけで、僕は街の中を忙しく駆け回る。
それはまるで山野を探し歩くクロスカントリーのようで、僕は純粋に街を巡ることを楽しんでいる。さて、次のチェックポイントはどこにある? そんなウキウキした気持ちに満たされていた。
こうして自転車を走らせていると思い出すことがある。
僕は運動音痴で小学三年まで自転車に補助輪をつけていた。補助輪がなければ、ふらふらとハンドルをとられて転けてしまう。いくら練習しても、バランス感覚はなかなか身に付かなかった。体中にすり傷を作りながら、悔しくて、日が暮れるまで毎日のように必死に練習をした。
そんな僕の情けない姿を見て、近所のみんなは笑っていたっけ。落ちていく夕日さえ、僕を笑っている気がして、あのときは悔しさに目を潤ませてばかりだった。
でもただ一人、ユウイチだけは笑わなかった。ユウイチだけは笑うこともなく、下手に慰めることもなく。僕が練習しているのを、じっと見守ってくれた。
その頃だろうか、ユウイチと特に仲がよくなったのは。それまでは近所の友達の一人だったのに、いつの間にか親友と言われても違和感を覚えなくなっていた。
別に、特に何か切っ掛けがあったわけじゃない。馬があったと言えばそれまでだ。でも、僕はそんな仲のいい友達が初めてだったので、なんとなく気を許してしまうのが恐かった覚えがある。
いつだったか、僕が自転車の練習をしていたときのことをユウイチに聞いたことがある。どうして僕の惨めな姿を見て笑わなかったのか、不思議でならなかったのだ。
そしたらあいつは
「自転車の練習は転ぶもんやろ」
と、それが当然だといわんばかりに答えた。
自分も乗れなかった頃は転んだから、人のことを笑えないって言うんだ。でもユウイチが自転車に乗れなかった頃って幼稚園のときだから、小三まで乗れなかった僕とは大違いなのに。
そのとき気づいた。僕も少し変わり者だけど、ユウイチも僕に負けず変わり者なんだって。
それからついでに、あのとき見ているだけで、どうして自転車の乗り方を教えてくれなかったのかも聞いた。それには
「自分でも自転車にどないして乗ってんのか、ようわからん。わからんもんは教えられん」
とか。ユウイチらしいアバウトな考え方だった。まぁ、おおざっぱな性格のユウイチは人に物を教えるのには向いてないから、僕に教えようとしなかったのは正解だろう。たぶん、自転車に乗れなかった僕がユウイチに教わっても、混乱するだけだったと思う。
今では何の問題もなく自転車に乗れる僕は、熱されたアスファルトの上を走り続ける。何日も転げまくった成果は確実に僕のものとなっていた。
昔話に思いを馳せていた僕は、ふと我に返って天を仰ぎ見る。相変わらずの晴天。ずっと坂を上ったり下りたりしている僕はちょっとへばり気味だ。昔からの運動音痴は、中学生になったからといって解消されるほど世の中甘くない。
日射病に熱中症。そんな言葉が頭を過ぎる。夕立でも降ればいいのに。と勝手なことを思っても、空を見る限りそうは問屋が卸してくれそうにない。
しかし街の所々では、誰かが打ち水をしたのだろう。地面が濡れている箇所があった。打ち水は、気温は下がるのはいいのだが、ただでさえ高い湿度も跳ね上げてくれるので、空気が体にまとわりつくようで、少し不快に感じてしまう。
それでも次の目的地に向かい軽快に走っていた僕は、ふらりと自転車を止めた。
「あれ? ここ、なくなってる……」
僕の視線の先には黄色と黒のけばけばしい工事フェンスが並んでいた。住宅地のど真ん中で、キックベースでも出来そうなほど広い空間が更地となっていた。
「建て売りか、マンションが出来るんかな……」
実際、ここに何が立つのか知らないが、そこはかとなくマンションが建つ。そんな印象を受ける。こんな住宅地に商業施設が建つことはまずないだろう。
「ここ、何あったんやったっけ」
どうにも思い出せない。昔から幾度もなく通った道なのに、更地になる前に何が建っていたのか、僕は思い出せなかった。
改めて辺りを見回せば、ちらほらと記憶にない新しい建物が目立つ。この辺りは古い民家が多くあった場所だ。それが徐々に取り壊され、再開発が進んでいるのだろう。それを寂しく感じる。
そりゃ、古い建物はいつかは取り壊されて、新しく作り替えられる。それは当たり前のことで、形ある物はいつかは潰れるってどこかの誰かが言っていたのは、この世の真理だと思う。
でも自分の知っている街並みが変わっていくのは、酷く寂しいと感じるのも人間の本質だろう。あと十年もしたら、この街から僕の知っている街並みは完全に消えてしまうのではないかと、考えるだけでやるせない。
しばらく空虚な空き地を前にして、僕は黙り込んだままだった。いくら考えても、元建っていた物が思い出せない僕の記憶力が情けない。
今日自転車で見て回って、変わらないと感じた街。しかし実体には、街は新しく生まれ変わっていく。それはこれからもずっとこの街があるということの証明だ。なくなってしまうのは、僕の記憶にある街ってだけでのこと。それはそれでやっぱり気分がいいことではなかった。
僕は空き地に吹くわびしい風を感じながら、その場を後にした。
僕は何の為に、こうして街を見て回っているのだろうか。自分の知っている街がいつかはなくなる。それを目の当たりにして、今日、僕がしていることへの自信が少し揺らいでしまう。
それでも僕は意味があると確信している。今日、見て回って感じた街は、どんなにこの街が変わってしまっても、僕の記憶に残るだろう。
この街は僕の街だ。いつか僕が死ぬまで、ずっと僕の心にこの街が残っていると信じているから。
*
「ふぁっ。冷てぇ」
喉を過ぎる炭酸の刺激に誘われ、僕は息を吐き出した。
あちこち回った自転車の旅、それも終盤に差しかかり、さすがに喉が渇いた。手頃な自動販売機を見つけて、水分補給の真っ最中。一日、自転車をこぎ続けて、体は心地良い疲労感を感じていた。
そこは住宅地の中に取り残されたように点在する田んぼの一つ。こんな街中でも、未だに畑や田んぼは残っているもんだ。地元に緑があるのはいいが、マンションと田畑が隣接しているのを見ると、違和感を覚えるのも確か。自販の背景が田んぼってのも、シュールと言わざるを得ない。
炭酸のペットボトルを片手に、自転車にまたがったままハンドルに肘を預ける。それはまるで憂鬱に黄昏れるよう。
ふと、道脇の畦が目についた。坂道から棚田のように段になって低く作られた畦道には、雑草が深く茂って見るからに何かいそう。昔はよく、畦を越えて田んぼに入って怒られたものだ。田んぼの中にこれでもかってほどいるカブトエビを捕ろうしただけなのに、こっぴどく怒られた。
ちょっと稲が二、三株ぐらい倒れただけなのに、鬼の首をとったみたいに怒鳴り散らされて、泣いて家に帰ったのを覚えている。
さすがに中学生になった今では、僕はそんな遊びをすることはない。今でもその辺のチビガキたちはそんなことをして怒られたりしているのだろうか。
昔を思い出して失笑した僕。恥ずかしい一人笑いが誰かに見られたんじゃないかと、周りに目を配った。でも僕を見るものは誰もいない。静かな田んぼが広がるだけで、あたりは田んぼの泥臭ささしか存在しない。見ているとしたら、鳥脅しの目ん玉だけだ。
そのキラキラとした飾りの目が大きく波打った。稲穂を揺らす風が吹き抜ける。稲先の凹みが、目の前から逃げるように田んぼ全体へと広がっていった。風のせせらぎが夕日を誘い、青々とした田んぼは一瞬で色を変える。
秋になれば黄金色の実を付けるだろう、まだ青い稲畑が明るく輝いて見える。今日一日、頭上を照らし続けた太陽も家々の軒先に隠れようとしている。
僕は時計を見るために携帯電話を取り出した。見れば無視し続けた着信履歴が何件も溜まっていた。
母さんに、ユウイチ。二人の着信が繰り返し入っていた。それでも、僕はそれを無視することにした。元々、今日出かけるとはそういうことなんだと覚悟していた。だから、今、二人に電話をかけ直す気は湧いてこない。
「そろそろ時間やね。締めくくりは……、やっぱり学校かな」
ペットボトルに残っていた清涼飲料水を飲み干して、ゴミ箱へとボトルへと放り投げた。それは見事にストライク。綺麗に放物線を描けたことで気分も乗ってきた。
これから夏休みに学校へ向かうと考えると、少しの興奮を覚える。そりゃ、夏休み中だって登校日ぐらいはあるが、こんな何もない休みの日に学校へと向かうことは滅多にない。いや、初めてかもしれない。
僕は学校へと自転車を走らせる。斜陽が僕の顔を横から照らして、眩しさに目を細める。だけど、嫌な感じのしない日の光りだった。夕刻の太陽は、昼間みたいにげんなりする紫外線を吐き出さない。風も熱風から温風程度に変わっていた。
爽快に自転車をこげば、五分と経たずに、道沿いに白亜の建物が見えてきた。その通用門からは、ちらりちらりと下校の生徒が現れる。皆、体操服を着て、そこかしこに健康的な汚れを付けている。一目で運動部とわかる生徒たち。
休日の学校というものは、もっと静かで誰もいないものだと思っていた。でも、実際には人気の絶えない明るい雰囲気だった。
僕の通う中学校は坂の中腹にある住宅地の更にど真ん中にある。つまりはこの街の中央。少し坂を下りれば商業地区も近いが、わざわざ坂を上がってくるのは住民だけ。それだけに、地域に密着しているという思いが学校関係者にはあるらしい。
門が閉まったままの正門前に自転車を乗り付けて、僕は学校を囲う壁に足をかけた。そして気合いの声と共に壁に登る。普段なら教師に怒られる行動だけど、休みの今なら誰も文句を言わないだろう。僕は二メートルはある壁に悠然と腰掛けた。
そうするとグランドが一望出来る。校舎もよく見える。まだバスケ部が練習しているらしい体育館も、誰が手入れしているかも知らない花壇も。僕が通う学校がよく見渡せた。
今日ここに来たらこうすると決めていた。学校全体が視界に収まるこの壁の上に座ってじっと学校を見ると決めていた。海を見たように、街を見たように、学校もじっと、ただじっと見ると決めていた。
日が沈もうとしているのに、金属バットの音を鳴らして野球部はまだ頑張っている。もう部活が終わったのか、他にいくつかの部がグランドの隅でたむろしていた。みんな何を話しているのだろう。
残り少ない夏休みのこと? 新学期からのこと?
僕は彼らから目を背けるように、校舎の方に視線を移した。さすがに校舎に並ぶ教室の中には人の気配はない。それでも、ガラス窓からちらりと見える教室の中は、壁一面に掲示の紙が貼られ、普段の学校の雰囲気が感じられる。
僕の教室は三階の一番端。今座っている壁の上からだとちょっと遠い。あそこは正門から遠くて、遅刻寸前に駆け込むと、先生が出席をとるまでに間に合わないことがある学校の中でも嫌な配置だった。一学期も幾度となく遅刻しかけたもんだ。
「お前、そんなとこで何やってんの?」
急に声をかけられた。びっくりして反射的に振り向くと、壁の上でバランスを崩して落ちかけた。慌てて体を立て直して、今度はしっかりと振り返る。
「落ちっぞ」
「落ちっかよ」
そう返して苦笑いした。僕に声をかけてきたのは中学で同じクラスのカズだった。確かテニス部だ。その記憶通りに、カズは体操服にラケットを背負っていた。部活終わりの帰りなんだろう。
「何やっとん?」
再びカズが聞いてきた。
何と答えたものか、少し答えに窮した。
「……見てんよ、学校」
「は? 学校なんか見て、どないするん?」
「どないもせいへんよ。見てるだけや」
「えぁっ……」
何かに気づいたのか、カズが素っ頓狂な声を上げた。その表情に僕は事情を察してしまう。
「聞いたん?」
僕はそう短く聞いた。
「……うちのおかんが、そんなこと言っとった」
「そう……」
どうせ、そこかしこで僕の母さんが話して回っているんだろう。あの人はほんとお喋りだから。
「いつなん?」
「明日」
「明日? お前、マジ何してんねん」
驚きと少しの焦れったさをあらわにして、カズは声を荒げた。
「わかっとるよ。だから学校見に来たんやよ」
僕がそう言うと、カズは苦々しい顔をした。
「……そうか、じゃあゆっくり見とき」
「なんや、淡泊やな」
「そりゃ、こっちの台詞や。じゃあな、頑張れな」
「カズこそ。頑張れな」
簡素な挨拶を互いに交わし、カズは去っていった。
カズとはあまり仲がよくなかったから、こんなものだろう。クラスメイトとはいえ、こんな距離感もありだと僕は思っている。これはこれで面倒臭くなくていい。
カズに言われたからでもないが、僕はしばらくゆっくりと学校を見続けた。そして、そっと目を閉じた。
どこからか電車の音が聞こえる。学校からも部活の喧噪が消え始め、しっとりとした静けさが包み始めていた。グランドが風音を鳴らし、校舎がそれを受け止める。
「うん、終わりかな」
なんとなく納得が行った。今日はあちこち回ったけど、これで終了、終わりです。
踏ん切りというのは、自分の心でつけるものだと感じた。自分が納得したから、どうしようもなく足掻いていた今日が終わってもいい。
静かに目を開けると、僕の背中にある太陽が遠くのビルの間に落ちたのだろう。空一面が橙に染まり、空に立つ入道雲が赤紫に色づいていた。その幻想的な色使いに息を呑んだ。
最後を締めくくる、いい夕焼けを見せてもらった。僕は誇らしい気持ちで、座していた壁から飛び降りた。
今日一日、付き合ってくれた相棒の自転車。こいつに礼を言うつもりで優しく走らせた。
家に着いた頃には辺りは暗くなっていた。団地に並ぶ部屋部屋には明かりが灯り、チェス盤のように明暗を分けていた。もちろん、僕の家には煌々と明かりがついている。
「ただいま」
僕が帰宅の挨拶をすると、ぱたぱたとスリッパの忙しない足音を立てて母さんが台所から出てきた。
「カケル、どこに行ってたん? ユウくん、来てたんやで」
エプロンで手を拭きながら、母さんは怒り苛ついた口調で言った。今日出かけたからって怒られる筋合いはないと思う、
「そう」
「そう、ってあんた。ユウくん、わざわざ来てくれて、待っててくれたんやで」
「もう、帰ったんやろ?」
ユウイチが家に来るような予感はあった。小学校からの付き合いだ。あいつの行動パターンぐらい、だいたい読める。
「帰ってもろたんや。あんた何にも言わんで出て行って、帰ってけいへんのやから。今からでもいいから、ユウくんにちゃんと電話しいや」
「知らん。ほっとけ!」
つい、声と荒げてしまった。母さんは目を見開いて、言葉に詰まっていた。
僕は逃げるように自分の部屋に駆け込んだ。すぐにドアを閉め、鍵をかける。
ドアの向こうから母さんが何か叫いていたけど、僕は意固地になって、返事すらしなかった。
部屋の電気もつけず、僕はベッドに寝転がっていた。
見上げる暗い天井。一体、僕はこの天井を何回見上げてきたのだろう。そんな数を数えることに意味はない。それが何回だって意味はない。でも、ずっとこの天井を見上げて僕は育ってきたんだ。
コンコン、とドアが叩かれた。たぶん母さんじゃない。母さんはノックなんてほとんどしない。僕は少し警戒しながら返事をした。
「……はい」
「起きてたんか、寝てるかと思った」
ドア越しに聞こえて来たのは予想通り父さんの声だった。億劫だけど、僕は重い体を起こしてベッドから下りるとドアの鍵を開けに行った。だが、鍵の金属音がしても父さんはドアを開けなかった。少し焦れったくなり、仕方がなく僕がドアノブに手をかけた。
廊下の明かりが暗い室内に差し込む。それが無性に眩しかった。
「今日、残業なかったん?」
「今日ぐらいはな。母さんとケンカしたんか?」
「あんなん、ケンカやないよ」
それは本心だった。あの程度のこと、ケンカとは言わない。僕がちょっと過剰に反応しただけで、母さんが気にすることじゃない。
「そうか。ご飯、食べへんのか?」
「後で」
「わかった。明日は早いさかい、準備しときや」
「もうだいたい出来とるよ。後は明日の朝やるから」
父さんは僕の言葉に頷くと、それ以上は何も言わず、居間に戻っていった。
父さんも母さんも、僕を心配してくれているに違いない。自分でもナーバスになっているのぐらいわかっている。僕が一人でわがままをやっていることは自覚していた。
でも、ちょっとぐらいのわがままは許されると思う。何も僕ばっかりが悪いわけじゃないし、やるべきことはやっている。
夕飯を食べ、風呂で自転車で走り回った汗を流した僕は、直ぐに床についた。
ユウイチへの電話はわざとしなかった。
*
夜が明ければ朝が来る。朝の来ない夜はないとは言うが、本当にそうなんだと妙に納得してしまう。目が覚めれば当然、朝だった。
目覚めが悪くなかったのが、むしろ恨めしい気がする。実に爽やかに起きてしまった。何だか納得いかない。昨日早く寝てしまったのが、逆に失敗に思えてきた。
それでも、その朝はだらだらとする暇はなかった。父さんも母さんも忙しそうに準備に追われていた。僕が二人を手伝ってもまだ足りない。それこそ猫の手も借りたくなるって奴だ。
インターホンが鳴ったのは九時を過ぎた頃。
「は〜〜い」
と気の抜ける声で母さんが玄関にかけていく。しばらく玄関で話し声が聞こえた後、業者の人と一緒に戻ってきた。
「カケル。ここはええから、ユウくんのとこ行ってきいや。昨日、電話もしてないんやろ」
「別にええよ」
「行ってきい」
母さんの強い言葉。母さんの二つの瞳は、しっかりと僕を見つめ、離さなかった。
「……行ってくる」
僕の返事を聞いて、母さんはにっこりと笑った。
ユウイチの家に行くと決めたからには、急がないといけない。そこからは更に慌ただしかった。手早く用事を済ませると、僕は家を飛び出した。
勢いよく飛び出して、転びそうになる。つま先を数回、地面に小突いて、靴をはき直す。
まだ太陽は天高く昇りきってはいない。しかし、盛夏の吸い込まれそうな青い空が広がっていた。今日も晴れ。実に絵に描いたような夏休み日和だ。にじむ汗を忘れて僕は走っていた。
そわそわする気持ちを抑えようと深い呼吸で団地の中を駆け抜ける。
一つ、二つ、三つ、と僕の住む集合住宅と同じデザインの建物を通り越して四つ目の建物に飛び込む。そして階段を二段飛ばしで駆け上がる。
もう通い慣れた道筋。四○二の標識を前に、僕は辿り着く。
目をつぶってでも来ることが出来そうなユウイチの家。そこを前にして、僕は荒げた息を整えた。
まるで祈るような気持ちでインターホンに手を伸ばした。
場違いに思えるほど軽い電子音が鳴る。
じっと耳を澄ませて待ってみても、何も聞こえてこない。僕の心臓だけがドキドキ思考を邪魔立てする。
もう一度インターホンを押す。今度はさっきよりも強く押す。インターホンのボタンに強弱なんてないけど、ぎゅっと指に力を込めた。
でも結果は同じ。部屋の中から反応はない。ユウイチの家には誰もいないのだ。
そう言えば今日は平日だ。ユウイチの両親は共働きだし、ユウイチは僕と同じ一人っ子。ユウイチが出かければユウイチの家は留守になる。ユウイチはどこかに出かけてしまったんだ。
急いで携帯電話の着信履歴をめくる。幾度となく無視してきたユウイチの番号に発信する。けれど、コール音が鳴ってもユウイチは出る様子はなかった。仕舞いには留守番電話に切り替わった。
昨日、電話をかけなかったのが悔やまれる。昨日ユウイチが来るのを予想してわざと出かけるなんてバカなことをした。そんなことを思っても後の祭りだ。
「……ごめん」
自然とそんな言葉が口から漏れていた。
僕は力無い足取りで辺りを探した。ユウイチの行きそうな場所をいくつか見て回ったが、どこにもその姿はなかった。何度も電話とメールを繰り返したが、虚しい結果しか残らなかった。
小一時間歩き回った末、僕は家に戻った。もう時間も限界だった。
僕が落胆した様子で帰って来たので、両親は何も言わなかった。たぶん察してくれたんだと思う。
そして、それから半時間もしないうちに出立の時間がきた。業者のトラックは一足先に出発し、僕ら一家三人も車に乗り込んだ。
「カケル、もう少しなら時間、大丈夫やで」
運転席の父さんが言った。バックミラー越しに僕を見る視線が疎ましかったので、僕は顔を背け後部座席で丸まった。
僕が返事もしなかったので、父さんは溜息を一つ吐いてから車にエンジンをかけた。その僅かな振動が僕のお尻にも伝わってきた。
滑るように車が走り出す。後ろ髪を引かれる思いが急に込み上げてきた。咄嗟に振り返って、離れゆく景色を食い入るように見てしまう。
手を伸ばせばまだ届くんじゃないか。まだ、この街の景色は僕のものなんじゃないか。そんな気がするのは僕の錯覚で、車が進む度にずんずんと景色は遠ざかっていく。
するとどうだろう。その景色が急に遠ざかるのを止める。ぎゅっと体を引っ張られる慣性を感じ、頭が揺らされた。
唐突にブレーキを踏んだ父さんの方を見るが、赤信号だったというわけではなさそうだ。そこはまだ住宅街の細い路地。交差点ですらない。
「何?」
僕が上げた声に応えたのは母さんの方。母さんは何も言わず細い人差し指で車の外を指差した。
「ユウイチ……」
母さんが指したその先には、ユウイチが静かに立っていた。
僕が車のウィンドを開けると、ユウイチが居心地悪そうに視線を外しながら近寄ってきた。
「……おっす」
僕が無理にいつもの挨拶をすると、やっとユウイチが僕の方を見た。
「昨日、何してたん?」
「秘密、いいこと」
自転車で街のあちこちを見て回ったのが『いいこと』かどうかはわからない。けれど、それなりに楽しかった。決して無駄じゃなかったと思う。
「ウソくせぇ」
何気ないやりとり。それでやっとユウイチの顔から硬さがとれた。たぶん僕の顔も一緒。
「晴れてよかったやん」
「別に雨でも同じやって」
「いや、やっぱ気分ちゃうって」
お互いそんな意味もない言葉しか出てこない。僕も何を話していいのかわからない。今日、会いに行ったけど、どんな話をしたらいいのか考えてもいなかった。土壇場となると、何も気の利いたことを思いつかなかった。
「カケル」
はっきりとした口調で、ユウイチが僕の名を呼んだ。僕はその声が最後になりそうで無性に恐かった。
「この前、アイスおごったやろ」
「アイス?」
一体、ユウイチが何を言い出すのだろう。考えてみれば、確かにそんなこともあった。
たかがアイスで何だっていうんだ。小学生じゃあるまいし、その程度がなんだっていうんだ。
「あれ、貸しだからな」
「貸し……」
何を言われているのか理解出来ない僕は唸るようにその言葉をオウム返しするしかない。
「貸しは返せよ」
ユウイチがにやっと笑う。やっとユウイチが何を言いたいのかわかった。そこまで言ってもらわないとわからなかった僕は、なんて情けないんだろう。
「絶対返せよ」
ユウイチの言葉は力強かった。それ以上言われると、僕は駄目になりそうだった。
「うっせい」
そう悪態を吐いて、僕はまた顔を伏せてしまった。
助手席で話を聞いていた母さんは苦笑していた。父さんも優しい目で見守っていてくれた。
「じゃあ、元気で」
最後の言葉だ。
ユウイチと最後の言葉だ。
「……お前もな」
僕はそう言うのが精一杯だった。
僕の様子を見かねたのだろう。ユウイチはゆっくりと車から離れていった。
僕はユウイチとのお別れを、顔を伏せたまま、目を背けたままでしか行えなかった。それが本当に情けなくて、僕は悔しくて、悲しくて。こんな僕なんか、ユウイチの友達である資格はないとさえ思ってしまう。
僕が再び顔を上げたときには、いつの間にか車は再び走り出していた。
「カケル、悪いな。父さんの仕事のせいで」
ハンドルを握りながら、父さんは小さな声で言った。
「別に……」
父さんのせいだなんて思っていない。仕方がないことだってことぐらいわからない歳じゃない。
僕はもうそんな子供じゃないんだ。僕は、僕は……。
「カケル。もうユウくん見えんよ。我慢せんで泣いていいんよ」
そんな優しい言葉をかけてくれる母さんが鬱陶しく感じられた。
「泣いてへん」
僕は顔を上げて、車窓にじっと目をやった。
見慣れたはずのこの街の風景が歪んで見えた。
了