第二章 迷時数子
*
「あ〜。先輩〜ぃ。休憩ですか〜」
私が社内の自販前でトロピカルジュース(ナタデココ入り)を一気飲みしていると、迷時数子(まよいじ・かずこ)の間延びした声が聞こえてきた。
うん。この一杯が何とも言えずうまい!
「先輩〜。聞いてくださいよぅ〜。朝〜ぁ、会社に来たら〜課長が仕事〜山ほど持って来て〜」
でもやっぱり、どうしてもナタデココが缶の中に残っちゃうんだよね。
「『これ今日のうちにね』って〜言うんですよぉ〜。元から山ほど〜仕事溜まってるのに〜ぃ」
コーンポタージュもそうなんだけど。この缶に残る粒を見事に食べきる名案はないかなぁ。
「それで〜課長は〜暇そうにデスクで〜新聞読んでるんですよぉ〜。あのデブハゲオヤジ臭、あったまくる〜」
そう、この缶に残る粒が非効率的なのだ。経済的に鑑みてもこのロスは無視出来はしない。解決法が発見出来ればノーベル経済学賞も夢ではないよね。
「先輩〜ぃ。聞いてます〜?」
「No,I don't. つまり和訳すると『はい、私は聞いていません』となって、ノーなのにイエスになる不思議」
後輩の愚痴を聞くほど、私の休憩タイムは安くはないのです。
「ですよね〜。先輩が〜人の話〜、聞くわけな〜いですよね〜」
それは事実だけど、その言い方はちょっちむかつく。迷時数子のくせに。
数子は私の一年後に入社した後輩ちゃんだ。どういうわけか彼女が入社した当初から「先輩〜ぃ。先輩〜ぃ」と苛立たしい声で懐かれてしまっている。まったくもって不本意だ。会社では指定の制服を着ているのでそれほどでもないが、私服はふりふりレースを好んで着ているので、横にいるだけで鬱陶しい。悪人ではないので放置しているのだけど、いつか彼女をゴミ箱に捨てに行きそうな気がする私自身が恐い。
「受付嬢の私がどうやって事務を手伝えと?」
「世の中には〜サービス残業といぅ〜、それはそれはありがた〜い言葉が〜あるんですよ〜」
「私の辞書にはない」
「あれ〜。印刷ミスですか〜」
「いやいや、そもそも仕様に載ってません」
「じゃぁ〜。不具合ですね〜。早速リコ〜ルの手続き申請しましょ〜ぅ。そして〜私と一緒に〜めくるめく残業ライフを〜ぉ☆」
妙な抑揚に言葉を乗せて数子が言う。まるで安物の歌劇みたい。いつもこんな感じだから、数子と喋ると妙に疲れるのだ。
「やだ」
そんな数子のリズムは私が容赦なくぶった切る。私は週に40時間しか働かないと決めているのです。
「先輩〜、可愛い後輩が〜こんなに〜必死に助けを求めているのに〜、それを〜無視するんですか〜」
いや、だって職制上も問題があるし。本気で私に手伝わしたければ、課長を通さないとね☆ まぁ、その課長にイジメられているらしいけど。
「ふっはっは。庶務二課になんてとばされた己が身を呪うがいい」
「えぇ〜。新入社員が〜配属先なんて〜選べないですよ〜」
「そりゃ、入社式で寝てたら目をつけられるわよ」
「だって〜、社長の話〜、長くて〜おもしろくなくて〜その上、オチまでないんですよぉ〜」
気持ちはわかる。それは私も通った道だから。でも、社長の目の前で爆睡はまずいでしょ。私は心頭を滅却して現実逃避に浸っていたから、なんとか切り抜けたけど。
「本当に〜手伝ってくれな〜いんですか〜?」
「本気と書いて本気と読む。その心は手伝いません」
「それじゃ〜ぁ、先輩が〜小学生を〜誘拐監禁してるって〜、言いふらしますよ〜」
小学生? それはもしかしなくても我が家に転がり込んできた九段坂恋歌のことですか? ちょっと待て〜。あんたは口が軽すぎて信用ならんから、恋歌のことは言ってないのになぜ知っている!
「つ、つかぬことをお伺いしますが、数子殿」
「はい〜?」
「その超ウルトラバイオレット情報はいずこから入手されもうした?」
「企画課の〜山園さんです〜。この間、お食事会で〜教えてもらいました〜」
ほぅ。あのバカ喋ったか。山園一樹(やまぞの・かずき)は、私と同期入社のバカだ。どうしてバカかというと、二年前の私たちの入社式当日に私を口説いてきた大バカだ。
鬱陶しかったんでグーで殴ったら、今度は「姉御、姉御」と私を呼んで、勝手に私の舎弟になってきた。入社早々、私に変な噂がたったら困るので、念を入りにシバいてハイヒールの踵でグリグリしてやったら喜んでた。実にわかりやすい変態バカだ。
とりあえず恋歌のことを数子に漏らした罰として、来週末にセッティングさせた合コンで女性全員から無視の刑にしてやろう。コンパで一人寂しくコース料理を食い尽くすがいい。いい気味だ。
「先輩〜。本当に〜小学生を〜監禁してるんですか〜?」
数子がもっともな質問をした。何と答えたらいいものか、私もさすがに困ってしまう。
「あれ〜ぇ、先輩〜?」
「状況証拠はそろってるわね……」
というか、恋歌はあの金塊をどこから持って来たのだろう。やっぱり焦臭い。
「犯罪ですね〜」
「いいこと、数子。世の中にはやっていいことと、やってはいけないことがあるの。わかるわよね?」
私は数子の両肩を両手でしっかりつかんで、ぐいぐい振り回した。
「わ〜ぁ、わ〜、わかり〜ますよ〜」
「警察に通報するのとサービス残業はやってはダメだから厳守するように」
もう一度念を押して、彼女を放してあげた。それでも数子の頭はまだぐるぐる回っている。
「は〜い、わかりました〜。つまり〜私は先輩〜ぃの弱味を〜握り続けて〜脅迫しまくれば〜いいんですね〜」
この娘、わかりすぎてる!
*
「それで、その数子さんとやらが何ですって?」
「つまり、迷時数子があんたに会って、小学生の女の子を愛でたいと言ってるの」
「私は小学生ではありませんよ。無職ヒキコモリのカリスマニートです。伊達に居候はしていません」
その日の夕食時。小さいコタツを挟んで恋歌と向かい合わせで食事をしながら、昼に会社で数子とした会話の内容を話した。
最終的に、数子は恋歌に会いたいと言い出したのだ。けど、その理由はよくわからなかった。恋歌と会って何がしたいのだろう?
確かに恋歌は珍しい人物だ。帰る所がないと言う家出少女で、子供なのに書類上は成人で、謎の金塊を持ってたり戸籍を違法売買するし、極めつけは私の高校時代の友人の名前を名乗って本名すら不詳の少女。物珍しいにもほどがある。
数子が会いたがるのは、動物園の立ち上がるパンダじゃないのにパンダという名前の珍獣を見に行くのと同じ感覚なのかもしれない。
「私は山園何某(なにがし)の方が気になるんだけど?」
「ダメ、あんな変態バカとかかわったらバカが感染拡大で侵食汚染しちゃう」
それに恋歌みたいな少女に会わせたら、山園がホントに恋歌に手を出しかねない。書類上成人の恋歌は更に危険なのだ。
「バカこそおちょくり甲斐があるのに」
「私をおちょくるように?」
「はい♪」
恋歌は背景にピンクの花輪でも背負いそうな爽やかな笑みで答える。でも、恋歌におちょくられていることを自覚している私には、そんな攻撃効きませんよ〜だ。
「で、結局、数子と会うの?」
食事をしながらで行儀が悪いけど話は続く。自分で作っておいてなんだけど、この小芋の煮っ転がしがおいしくて箸が止まらない。
「嫌です」
「どうして?」
「ヒキコモリの私に、人に会えだなんて残虐非道です。それは吸血鬼に陽の日向に出ろというのと同じですよ」
「あんた、昼には毎日出かけてるんでしょ? このデイウォーカーが」
「人物観察は好きだけど、人に見られるのは嫌いなんです」
「あっ、そう」
私は話はそれまでと、デザートの杏仁豆腐に手を伸ばす。だけど、取ろうとしていた器が恋歌に奪われた。
「何すんのよ」
「それは私のセリフです。そこはしつこく私を説得するところですよ」
「だって、私は別に二人が会わなくても困らないし」
「その数子って人が警察に通報したらどうするの?」
「どうもしない。恋歌が親元に帰って終わり?」
「未成年者略取、監禁で逮捕されたら困るでしょ?」
「あれ? 恋歌って未成年だっけ? たしか二十四歳だった気がする」
「はっ! なんたる罠! こんな巧みな誘導尋問をあなたがするなんて!」
してない。してない。
「じゃあ、監禁で逮捕されてしまいますよ」
「え〜、あんた普通に出かけてるじゃん。それでは監禁の構成要件に該当しません」
ふははは、法学部卒を甘く見るな。一応、卒業したんだぞ。本当に一応だけど。
「それでも正義を振りかざすのが警察と検察というものです。彼らが共謀してあなたを罰せようとするかもしれません」
子供のくせに難しいことを。よく検察なんて知ってるな。NHKで法廷物のドラマでもやってたか?
「何、恋歌? もしかして数子に会いたいの?」
「全然会いたくない」
なんだ私をおちょくって遊んでただけか。恋歌らしい。
「というわけで、あんたは恋歌に振られました」
またまた会社の休憩時間なると私に寄って来た数子に、恋歌のお断りの言葉を伝えた。
「…………」
まさか断られるとは思ってなかったのだろう。数子は放心状態で携帯電話を取り出した。
「もしもし〜、警察ですか〜」
「だぁぁぁーっ! 何、速攻で通報してる!」
私は数子の携帯電話を取り上げて、本当に一一〇番に繋がっていた電話を切った。
「交渉には〜対話と圧力が必要だって〜、エライ人が〜言ってました〜」
「まず対話しなさい! 圧力はそれから!」
数子は手のひらをポンと打つ。いや、数子のゆっくりした動きだと『ポコっ』の方が正しいかもしれない。
「なるほど〜」
「私じゃなくて恋歌本人が嫌がったんだから仕方がないじゃない」
「それじゃ〜圧力の出番ですね〜」
「待て待て。早まるな。カホウは寝て待てと言うでしょ」
「寝てて家宝が〜転がり込んで来るとは〜思えませ〜ん。事実〜私の実家も〜家宝なんてありませ〜ん」
「ホントに待て! あんた、カホウが果報と知って言ってるでしょ! それは私のカードだから専売特許を申し立てる!」
「え〜 先輩のケチん〜ぼ〜」
「ふっふっふ。私は太っ腹ではありません。こう見えてもウェストのくびれには自信があります」
数子の視線は私のヒップからウェストと上がり、そして胸で止まった。
「思ったな! 今、思ったでしょ!」
私は数子の首を締めつける。頸動脈をぐりぐりして遊んだりもする。
「だっ〜て〜」
私に揺り動かされて数子の声は波打っている。
「どうせ私はAカップですよ! 悪いか! 悪いのか! あんたのコレはどうやって育てた!」
「先輩は〜それがいいんだって〜山園さんが〜言ってましたよ〜」
「…………数子。一時間ほど待ってなさい」
「先輩〜。休憩時間は〜もう終わりますよ〜」
「企画課は四階だったわよね?」
「先輩〜ぃ。社内で暴力は〜控えてください〜ぃ」
「数子、覚えておきなさい。セクハラへの報復攻撃は国際条約で認められている自衛権なのよ。国会の承認も必要ないの。裁くのは私のゲンコツだっ!」
私は休憩室を飛び出した。
「せ〜んぱい〜ぃ。頑張って〜〜」
*
その日も定時になると、私は速攻で着替えを済まして会社を出ようとした。
「先輩〜ぃ、待ってくださ〜ぃ」
会社を出たところで迷時数子が追って来た。ホント毎度毎度ご苦労なことだ。私もいつまでつきまとわれればいいんだろう。
「どうして数子がいるの? まだ五時よ。残業しなきゃダメじゃない」
「え〜ん。先輩がいじめる〜」
数子が律儀に嘘泣きをしてみせる。私の周りにはこんなネタノリのいい人間しかいないのかしら。
「いじめではありません。事実として存在する現実を言ってるの」
「現実は〜逃避するために〜あるって〜、先輩が教えて〜くれたんじゃ〜ないですか〜」
「うむ。現実とは逃避するもの。妄想とはパラダイス。これ現代社会を生きる秘訣なり」
「先輩の逃避は〜ハンパないですからね〜」
「ふふふふ、現実逃避アマ三級の私にかかれば、会社の業務の一つや二つ、バッチリ定時帰りよ。というわけで、数子。お疲れ様。じゃあね」
私は数子に手を振ってさよならする。
「は〜い。先輩〜ぃ、お疲れ様です〜。なんて言って〜逃がしませんよ〜」
ちっ。バレたか。
「私の帰宅を邪魔するとは、あなたは何者のつもり!?」
「は〜い。先輩の〜かわいい後輩の〜迷時数子で〜す〜」
数子は元気よく手を挙げて答えた。
「ブッブー。不正解」
「え〜ん。そんな〜。どうせ〜先輩のことだから〜 私は可愛いくないって〜言うんですね〜」
「…………」
「あ〜。当たった〜」
いやぁ。別に数子がブスだってわけじゃないんだけどね。いつもトロいくせに。妙に察しがいいところが可愛くない。
「くそぅ。数子のくせに。覚えてろ〜」
私は尻尾を巻いて逃げ出す。
「先輩〜ぃ。捨て台詞を〜吐きながら〜帰ろ〜とするのやめて〜」
「もう、しつこいわねぇ。何か用なの?」
私は遂に根負けして数子に聞いた。
「先輩〜ぃ、新歓コンパに〜行きませんか〜?」
「やだ」
私はお決まりのセリフを無意識に言っていた。
新歓コンパとは、もちろん今年の新入社員と懇談するために開かれる飲み会のことだ。この時期の新入社員は毎日のように飲み会に連れ出されて、二日酔いで死にそうになるのが日本社会の慣わしらしい。そんな新入社員を晒しものにして遊ぶ趣味は私にはない。
「え〜。先輩〜、去年は〜来てくれたじゃ〜ないですか〜」
そりゃあ、社命だったからね。確かに数子が新入社員だった去年は行ったさ。
去年、入社二年目だった私は強制参加だった。でも今年は数子たちが二年目。三年目の私を巻き込むな。
「私〜。去年〜入社したてで〜何もわかんない〜田舎者だったのに〜、先輩〜ぃ優しく〜してくれたじゃ〜ないですか〜」
新人に優しくして、後々仕事やらせるのは社会人の常識です。それに誰が田舎者だって? 大田区出身のくせに。それなら八王子出身の私はどうなる!
「面倒臭い。後は若い者に任せますから」
そう言って去ろうとする私の腕を、数子が引き留める。
「お見合いじゃ〜ないんですから〜。先輩が〜来てくれたら〜みんな喜びますし〜」
私はあんたたちの見せ物ではありません。勝手に喜ばれても困ります。
「どうせ三年目は私しか声かけてないんでしょ? 私だけいたら場違いよ」
「はい〜。もちろ〜ん先輩だけですよ〜。他の先輩は〜いりませんから〜」
さすがにそれは断言するな後輩。事実だとしても。
「先輩さえ〜いてくれたら〜、二年目すらいりませ〜ん」
「私と飲みたいだけか!」
「もちろんで〜す♪」
数子の無邪気な笑顔が無性にむかつく!
「でも〜、新入社員に〜先輩の紹介をしないと〜、会社には〜侵しては〜いけない〜ルールがあるんだって〜わからせないと〜いけないじゃ〜ないですか〜」
だったらなぜに私なのよ? あのぼんくら社長でも連れて行けばいいじゃない。
「あのね。私、帰って夕飯作らないといけないの」
私には私の都合ってものがあります。
「監禁少女さんがいるからですか〜?」
「だから『監禁』言うな!」
恋歌は向こうから押しかけて来たんだから。
「じゃ〜あ、その少女さんも連れて来たらいいじゃないですか〜」
九段坂恋歌を? 飲み会に? いくらなんでもその発言は非常識だぞ。
「あんたね。子供を酒の席に連れて来いと言うの?」
「ヨーロッパじゃ〜、子供もワイン飲みますよ〜」
「ここは日本だった気がするけど?」
「無礼講で〜す!」
いやいや、言葉の使い方間違ってるから。
「そうは言っても、恋歌は絶対に来ないから」
「絶対ですか〜? どうして〜わかるんですか〜? 聞いてみないと〜わかりませんよ〜」
「あんた個人に会うのも嫌がった奴が、飲み会に来るはずがない」
「わかりました〜。その子には〜夕食を〜抜いてもらいましょ〜。だから〜先輩〜ぃ行きましょ〜う」
何げにひどいな。数子は誰に対しても結構容赦ない。私に一番容赦ないけど。
「そうもいかないでしょ」
「先輩〜ぃ優しいんですね〜。自分の子供でもないのに〜」
確かに、私が九段坂恋歌の面倒を見る義理はない。むしろ、私は迷惑を被っている。それなのに放っておけないのは、優しいというか。何なんだろう、私と恋歌の関係って。
「それで新人の歓迎会、断ってきたんですか?」
「まぁ、元から行く気なかったし」
部屋に帰って早速成り行きを話すと、恋歌に鼻で笑われた。
「あなたが行けば、みんな喜んだでしょうに。数子さんとやらの気持ちも考えてあげなさい」
子供に説教される私の気持ちも考えて欲しい。
「別に私が行っても、何にもならないでしょ」
「まったく、鈍感なんですから。でも、それがあなたの良い所でもあるんですよね」
ん? 恋歌に誉められてるのか、けなされてるのかわかんないぞ。
「じゃあ、どうしろって言うのよ? 数子の言う通り、私が帰って来なかったら、恋歌はどうするのよ」
「そのときは、独り寂しく電灯もつけずに、部屋の隅で三角座りして、テレビの天気予報をぼーっと、お腹を空かして眺めています。そして明日も全国的に晴れになるでしょう」
なんかこれ見よがしに構って欲しそうに聞こえるんだけど?
「だったら、恋歌も歓迎会に行く?」
「お酒飲んでいい?」
「ダメ」
「え〜、私これでも成人ですよ」
「書類上でしょ。店の人に年齢確認されたらどうするの?」
「免許証を見せます」
「免許? そんなのいつ取った!」
「やだなぁ、九段坂恋歌の免許証ですよ」
何? それはもしかして、三ヶ月前に死んだあの九段坂恋歌のこと?
「どうしてそんなの持ってるの!」
とは言ってみたものの、それよりあの九段坂恋歌が運転免許を取っていた方に驚いている私がいる。あの根暗で人付き合いの苦手な恋歌が、教習所に通っているところなんて想像すら出来ない。
「そんなのどこで拾った!?」
「九段坂恋歌が死んだ所で」
恋歌の言葉に、私はブチ切れる。
「それは冗談? それともマジ気? その件については、ちょっと冗談通じないよ、私」
私の真剣な声に怖じ気づいたのか、恋歌は小さくなっていく。それでも恋歌は、冗談とは言わなかった。
「……ありがとう。私のことでそんなに怒ってくれて……」
そう呟くと、その日、恋歌は何も口を開かなくなった。翌日にはケロっとしてたけど。
*
会社の休憩室の自販前で、私がお金を入れたまま、タピオカ入りココナッツミルクにするか、特製甘さ×5倍おしるこにするかで悩んでいると、どこからともなく現れた数子がブラックコーヒーのボタンを押しやがった。
とっても優しい私は、コーヒーの飲みたいらしい迷時数子に缶コーヒーを20本おごってあげた。私がにこやかに勧めると、嬉しかったのだろう。泣きながら全部飲み干した。今日もいいことした。
「先輩〜ぃ。私〜もう一生〜コーヒー飲みませ〜ん」
「じゃあ、明日からは飲むプリンにしようか」
「そんな〜、先輩じゃ〜あるまいし〜」
何? 私と同じ物が飲めんとな?
「私は〜烏龍茶以外のお茶がいいです〜」
「どうして烏龍茶はダメなのよ?」
烏龍茶が嫌いな人ってあんまり聞いたことがない。お茶の中では、かなり飲みやすい部類にはいると思う。
「だって〜烏龍茶には烏(カラス)が入ってるんですよ〜。そんなの飲めませ〜ん」
なんだ、その『ウグイスパンにウグイス入ってる理論』は? それならフランスパンにはフランス入ってるのか?
「その論理から言うと、烏龍茶には龍(ドラゴン)も入ってるのよね?」
「やだな〜先輩〜。龍なんて〜想像上の生き物ですよ〜。ファンタジーです〜」
どうしてそこで急に現実的になる? 私をおちょくってるのか?
「数子、前から聞きたかったんだけど」
なんか疲れるので、私は話題を変えた。
「は〜い。何ですか〜?」
「私が休憩室に来ると、いっつも数子も現れるんだけど、どうして?」
私は以前から気になっていた疑問を聞く。
「先輩とお茶したいからで〜す」
「いえ、それはいいんだけど。私、一階の受付にいて、あんたの部署は地下フロアよ。どうやって私が休憩に来るタイミングがわかるのよ?」
確かにウチの会社は休憩時間が大体決まっているが、それを絶対守る必要はない。特に私は受付嬢なので同僚と交代で休憩する。だから休憩時間は不規則だ。休憩室は二階にあって、休憩するために数子の部署の前を通るというわけでもない。なのに私が休憩すると、数子はいつも現れる。
「愛のなせる技、みたいな〜」
「ちゃかさないで」
「う〜。先輩がいじめる〜」
むしろ、私がいじめられている気がする。
「実際の所、どうやって休憩を私と合わせてるのよ?」
「そんな〜、先輩の〜一挙手一投足を〜察知するのは〜この会社の〜必須技術ですよ〜」
なんだそれ? 私は台風か何かか? 自然災害か? いつから監視対象になった?
「先輩〜ぃ、自覚なさすぎで〜す」
「自覚? じゃあ私はどうすればいいのよ?」
私が逆に聞くと、数子はキョトンとした顔をした。
「……え〜っと。う〜ん。あれ〜?」
数子は頭を捻って考え込む。
「あ〜〜。先輩は今のままが一番で〜す」
結局放置か! 私は、数子が私の何を指摘したのかまったくわからない。
「それじゃ〜、私〜仕事に戻りま〜す」
「待ちなさい! 私が何だっていうのよ!」
「仕事の書類が〜白い巨塔のよ〜に、私を待ってるんです〜」
いや、そりゃ知っているけど。私が足りない自覚が何なのか、はぐらかしたまま消えて行くのはやめなさい。
迷時数子がいなくなった休憩室。騒がしいはずの社内なのに、たった一人になると寂しいものだ。
一人でいる寂しさ。昼はずっと一人のはずの九段坂恋歌は、ずっとこの寂しさを感じているのだろうか。
「今日も定時で帰るか……」
私はそう呟いて、仕事に戻った。