第六.五章「夢にまでみた約束」
わたしは逃げていた。
何から逃げていたのか、よく覚えていない。
アイツらからか、自分の境遇か。
とにかく、わたしは逃げたかった。
わたしを追ってくる人たちは、本気でわたしを捕らえようとはしていなかった。
またか。そんな諦めと、役目としてわたしを捕らえるという業務を行うだけ。
どんなに逃げても、わたしは逃れられない。
そんな事実を抱えながら、わたしは逃げていた。
素足で走った足が痛い。
無理に走った体が重い。
それでも私は止まりたいなんて思わなかった。
「パパ、ママ、助けて……」
思わず、わたしはそんな言葉を吐いていた。
もう死んでしまったママが、こんな所に来てしまったわたしを助けられるはずがないし、パパはわたしをここにつれてきた張本人だった。
結局どんなに逃げても、わたしはココから逃げられない。
そうわかっているのに、じっと耐えるなんてできなかった。
どれだけ走っただろう。わたしはある部屋に逃げ込んでいた。
ほとんどの部屋に鍵がかかってあるのに、その部屋には鍵がかかっていなかった。
それだけ人の出入りがあるのだろうから、この部屋にいてもそのうちに見つかってしまう。
そうわかってはいても、わたしはどこかに逃げ込まずにはいられなかった。
その部屋は暗くて静かで、不思議と落ち着いた。
まるでプールの底に沈んだ時みたいに、静かで時が止まったような気分になれた。
ゆっくりとしたリズムを保って、空気が流れる音が鳴るだけの静かな部屋。
わたしはその部屋で泣いていた。ボサボサに乱れた黒髪の頭を抱え、うずくまって泣いていた。
見つかるだろうなんて恐怖はなかった。
どうせいつかは見つかってしまうんだ。見つかって連れ戻されて、またアノ部屋に閉じ込められる。
それは当然のことだった。わたしにそれ以外の未来はどこにもなかった。
泣き疲れて顔を上げたわたしの目に、暗闇に灯る光が映る。
機器の放つ作り物の光。そんなの珍しくもない。ココにはそこかしこにある器具だった。
わたしの目を引いたのは、その器具につながれた男の子だった。
わたしと同じぐらいの男の子。
口から鼻から、頭中から管やコードに繋がれて死んだ目をしている男の子がベッドに寝かされていた。
死んだ目……。
そう、死ぬんだ。この子、死ぬんだ。
こうして死んでいった子をわたしは何人も見ていた。
そしてわたしも、そう遠くない未来に……。
わたしの瞳からまた涙が流れ出してきた。
男の子が寝かされたベッドに顔を埋めて、必死に涙を堪えようとした。
でもダメだった。
嫌だ、死にたくない。
死にたくないよ。
帰りたいよ。家に帰りたいよ。
誰でもいい、私を助けて!
「帰りたいよ……」
わたしは泣きながらそう呟いていた。
「かえ、り……たい……の……」
わたしはその声に顔を上げた。
ベッドに横たわった男の子の口が、小刻みに震えながらゆっくりと動いていた。
「か……えりた、い……の?」
男の子がもう一度、わたしに問いかける。
かすれた声。相変わらず男の子の目に力はない。
どこを見ているのかさえもわからない。たぶん目が見えていないと思う。
この部屋が薄暗いことすら気付いてないのかもしれない。
「うん。君も帰りたいでしょ?」
わたしもこの男の子も同じだ。
ここに連れてこられて死ぬのを待っているだけ。
家にはもう一生帰れない。
わたし知ってる。ここがどんな場所なのか……。
「ぼく……ジュン」
「ジュン? 君の名前?」
男の子はゆっくりと首を縦に振った。
それに引っ張られて頭に繋がれたコードが仰々しい音を立てていた。
「き、みは……」
「わたし、まさびしありさ」
「……あ、り……さ」
「うん」
「……かえ、れ……る、よ」
「えっ?」
この子は何を言ってるのだろう?
どんなに逃げたってここからは出られない。わたしたちにそんな未来があるはずがない。
「や……く、そく」
「約束?」
「ここ、か……ら……だして、あ、げ……る」
男の子の虚ろな目が宙を漂った。
やっぱり、この子はもう駄目だ。ここがどんな場所なのか、自分がどんな状態なのかもわからなくなっている。
死が直ぐそこまで迫っているわたしと同じ運命を持った男の子。
そんな子が、泣きじゃくるわたしを励まそうとしているのだ。
この子にわたしがしてあげられることは一つしかなかった。
「一緒に、一緒に出よ。君もここから出て帰ろ」
「いっ……し、ょ?」
「うん、わたしと一緒に」
男の子のもう表情を作ることのできないはずの顔が笑った気がした。
「もう……すぐ、だ……から」
「何?」
「も……う、すぐ……カレ……が、……から……」
そう弱々しく言うと、男の子は死んだように動かなくなった。