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肌寒い冷気が街全体を満たしていた。
天は黒い水を限りなく薄めるように徐々に白上がり、暁のグラデーションが東の空に輝き始めている。
吹き荒れていた木枯らしは凪のように一時の静けさ見せていた。
真冬の夜明け一歩前。
気温が最も下がる優しくない時間帯に街を行くのは、たった一つの人影だった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
一定のリズムで有紗が白い息を吐く。
宙に広がる息は、下っている坂道を遡るように流され、背負っている潤の顔を掠めて煙(けむ)になっていく。
「なんで女の私が、男の潤を背負って帰らないといけないのよ、もう。
肩も痛いし、足も笑うし、肋骨も響くし。どうして私がこんな目にあわないといけないのよ」
「大丈夫?」
頭の真後ろから声が聞こえた。
「…………。柚山潤」
「はい?」
「うが〜」
有紗は急に伸び上がっる。潤は有紗の背から滑り落ちて、背中から放り出された。
見事にひっくり返った潤は、無様な声をあげて尻餅をつく。
「アンタねぇ。起きてるならいつまで負ぶさってるのよ!」
「気がついたら背負われたんだよ。……まぁ、楽だったし」
「女に背負われて楽ですって! そんなのダメ人間よ! アンタそれでも男なの?」
「男とか女とかどうでもいいだろ。
よくわかんないけど、僕を背負うのが嫌なら放っておいたらいいじゃないか」
「誰が嫌って言ったの……」
「へ?」
「何でもないわよ。さぁ、帰るわよ」
有紗はかがみ込んで潤に手を差し出した。
有紗の左目が赤く濁っていた。よくみれば顔も手も、すり傷や打撲の後がそこかしこにある。
「目、どうしたんだよ。それ?」
「え? えぇ、ちょっとやっちゃった」
明らかに有紗の左目は見えておらず、有紗は右目を正面にするように潤と顔を見合わせた。
体中に傷があるのに潤が起きているとわかった途端に泣き言一つ言わない有紗が痛々しかった。
「またどうせ、無茶したんだろ? どうして僕にそんなに構うんだよ」
潤にはその無茶が潤の為に行われたんだと、なんとなくわかっていた。
「どうしてって?」
問われた有紗は手を差し出したまま、潤からそっと視線を外す。
「……約束したでしょ。一緒に帰るって」
そっとかき上げた有紗の金髪が朝日を浴びてキラキラと輝いてみせる。
いつ見ても有紗は綺麗だ。
傷だらけになっても、目が血で濁っても、その美しさはかわらない。
いつもは小憎たらしいのに、頬を赤らめている有紗は何だか愛おしく思えた。
なんだ。有紗ってこんなにも可愛いかったんだ。
柚山潤は、彼女にそっと微笑んで見せた。
了