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 チクチクと追い立てるような時計の秒針とパソコンの排気音、
 そして次々と入力されるキーボードのタッチ音が、
 聞く人を眠りに誘う子守歌の如き協奏曲を奏でている。

 日中に片付けられた阿須賀リサーチ事務所の中で、所長の阿須賀は一人残業をこなしていた。
 既に外は闇に包まれ、ガラス越しに見えるネオンの明かりが室内を煌びやかに染め上げている。
 怪しく光るガラス窓を背に、男の一人の背中が浮かび上がっていた。

 高らかにエンターキーを叩くと、阿須賀はマグカップを無意識にたぐり寄せる。
 今日七杯目のコーヒーは冷たく渋みを増していた。

「やっぱり片付いた方が、仕事がしやすいですね」

 阿須賀は自分以外に誰もいない事務所を、夜景でも見るかのようにぼんやりと見回した。
 昨日までワイドショーに出てくるゴミ屋敷のようにゴミで溢れかえっていた事務所は、
 それが夢幻であったかのようにシステマティックなオフィスへと変貌を遂げていた。

 喜田川は拾い物だった。
 事務所が軌道に乗り、さすがに阿須賀一人では手が足りなくなって求人広告を出したのだが、ただ一人、応募してきた喜田川が、なかなかに優秀な女性であった。
 文句を言いつつもよく働いてくれるし、阿須賀に放つ苦言も至極もっともな主張ばかり。
 今日のことにしても確かに片付いた仕事場というのはすがすがしいものだ。

 しかしながら、喜田川がいる限り自分で片付ける気なんて起こらないだろう。
 ただ単にゴミ掃除をするだけなら誰でも出来る。それこそシニアワーカーに任せてもいい仕事だ。
 しかし、喜田川は資料の分類や配置が絶妙で、阿須賀が欲しい資料ファイルが手間無く探すことが出来る。
 それに調査の仕事を任せても、確実にこなしてくる。
 阿須賀リサーチ事務所の一戦力と数えてもいいと阿須賀は思っている。
 特に整理の類は喜田川に一任しており、この事務所は喜田川なしに維持することが不可能になっている。
 彼女が休んだこの一週間でそれが痛いほど身に染みた。

 そんな彼女に、出来れば給料に色を付けて出してやりたいと阿須賀も思うが、それはこれから締め日までの依頼次第だ。
 先ほど来た依頼を計算に入れても、若干売上が足りていなかった。
 今月は小口の依頼がそれなりの数、来ているのだが、実入りのいい大口の依頼が一つもないのだ。

 まぁ、それはなるようになるだろう。
 とりあえず、今作っている打ち合わせの為の事前資料をまとめなくてはならない。
 阿須賀は一休憩と止めていた手をキーボードに戻した。

 再び、黙々とこなす文章入力の音だけが室内を包み込む。
 阿須賀はそういう空気が嫌いではなかった。誰もいないオフィスでは、妙に集中力を増す。
 大学の研究室でもそういう傾向はあった。
 特に深夜の実験棟の静けさといったら、肝試しでもしたくなるような深淵がある。
 そんな中で一人作業をするのは、現世を切り捨てた悟りに近い没頭を得ることが出来るのだ。

 白い画面に踊る文字ばかりを見つめていた阿須賀だったが、なんとはなしに携帯電話が鳴る予感が過ぎる。
 その予感通りに携帯電話のLEDが発色する。
 阿須賀は着信音が鳴る前に折りたたみ式の携帯電話を手早く開いていた。
 事務所の電話でなくプライベートの方だった。

 携帯電話が鳴るのが直前にわかる。それは未来予知とか、そんな超能力じみたことではないのを阿須賀は知っている。
 携帯電話が通信電波をキャッチして、待ち受けモードから着信モードに移行するときの器機の僅かな変化や、着信音の初期に存在する意識的には何も聞こえない無音区間を身体が感知しているのだ。
 人間の感覚とはそれほど鋭いものなのだ。
 工業製品でもコンマ何ミリという精度の高いものは職人が手作業で作っているのは常識的な話だ。

 携帯電話のディスプレイに発信者の名前が表示される。

「都地(つじ)さんか……」

 これで今月の売上も確保出来るか。そう思いつつ、阿須賀は電話に出た。

『は〜い。阿須賀く〜ん。元気してる〜』

 携帯から聞こえてきた声は、いつもの通りに無責任に馬鹿明るい声だった。

「都地さんはお元気そうで」

 電話の主は都地安楽(つじ・あらき)。東京のテレビ局でプロデューサーをやっている。
 情報系番組制作の為に、度々仕事を回してくれる阿須賀にとっては有り難い人だった。

 何せ、阿須賀リサーチ事務所の年収の三分の一は都地経由の依頼だった。
 それ故、付き合いも密で、プライベートの携帯番号も都地に教えてあるのだ。
 そういえば、最近、彼が事務所の電話にかけてきた覚えが阿須賀にはない。
 恐らく彼のアドレス帳には阿須賀リサーチ事務所という項目すら、既に削除されているのだろう。都地はそういう人間だった。

 気軽に電話をかけてきてくれるのはありがたい話だ。
 依頼があるにせよ、ないにせよ、都地との繋がりは阿須賀とっては心強いものだった。
 ただ、都地がテレビ局プロデューサーという忙しい身の上だと知っているので、阿須賀から連絡をとることはあまりなかった。

「この前の特番見ましたよ。視聴率も結構いいんじゃないですか?」

『そうなんだよ〜。ありがとね〜。これも阿須賀くんのお陰だよ〜。それでね。阿須賀くん、このところ暇?』

 まるで飲み会にでも誘うようなノリだが、それは都地が阿須賀に依頼をするときの決まり文句だった。
 本当に暇か暇でないか関係ない。依頼となるとあくまでビジネスの話で、
 阿須賀がどんなにスケジュールが詰まっていようが、都地の依頼に微塵も考慮されることはないのだ。

「ええ、今週は無理ですが来週からのスケジュールは真っ白ですよ」

『それじゃ〜さ〜。アレやらない?』

 アレ。その言葉に阿須賀は答えに詰まった。アレが何を指すのかが理解出来なかったのではない。
 アレが何を指すのかを的確に読みとって、阿須賀はいい返事をしたくなかったのだ。

「……都地さん。何度言ったら分かるんですか」

 阿須賀は手元に引き寄せていたメモ帳をペンで不機嫌にノックすると、素直に拒否の言葉を発した。

『やっぱりダメか〜。ダメもとで言ってみたんだけどな〜』

「何度頼まれても駄目なものは駄目です。私は未来予知に関する依頼は受けないと決めてるんですから」

 そう、義田秋仁の依頼が最初で最後。阿須賀はそう決めたのだ。
 理由はいくつかある。阿須賀にとって義田の一件は嫌な思い出でもあるし、『未来予知』というキーワードを聞くだけで、あの焦臭い事件に近付いてしまう、そんな気にもなる。

 しかし最大の理由は『単なる勘』だ。
 阿須賀の第六感が『未来予知調査の依頼を受けてはならない』そう囁いている。

 科学調査という業界に身を置くものとして、その理由はあまりにも非科学的に聞こえるかもしれない。
 しかしながら、脳科学の専門家も『直感』というものをして『脳が即座に確信した予想はほぼ正しい』と言っている。
 阿須賀はその直感を信じているのだ。

 そんな阿須賀に、なぜかしら都地が拘ったように未来予知のリサーチを依頼してくるのだ。
 もちろん阿須賀はその全てを断っていた。

『そこをなんとかお願いだよ〜。最近さ〜、局に『予言書の特集して』っていうリクエスト多くてさ〜。
 阿須賀くんが調べてくれるのが一番早くて正確なんだよね〜。
 そんな片意地張ってると、他に仕事回しちゃうよ』

「未来予知の調査でしたら、どうぞ他に回してください。私は何度言われてもやりません」

 はっきりと阿須賀は断言した。
 意地とかそういうことではなく、それは決定事項なのだ。

『は〜。阿須賀くんも頑固だね〜。
 わかったよ〜。今回は諦めるよ〜。
 だったらさぁ、都市伝説の特集やりたいからさぁ、そっちのあたりどう?』

「怪談系ですか?」

「そうそう、そんな感じ。
 噂の出所とか、各地での内容の違いとか、お願い出来る?
 あと過去の怪談との比較とか」

「ええ、いいですよ」

 科学調査の事務所で怪談の調査というのも不似合いだと思うかもしれないが、
 噂話の伝達や怪談を聞いた人物がとる行動は、集団心理学に繋がる。
 そういったことを専門に研究する研究者もいるぐらいだ。
 阿須賀も事務所を開いて以来、幾度となくこなしている得意分野だった。

「やったね。それじゃあ、詳細はアシにメールで送らせるから、お願いね〜」

「わかりました。ご期待通りの資料にしてみせますよ」

『それじゃ〜ね〜 そうそう。阿須賀くん、今度関東に来たら飲もうね〜』

 そう言うと都地は阿須賀の返事を待つことなく電話を切った。
 『今度飲もう』は都地の口癖のようなもで、本当に約束をするものではない。
 いわゆる、社交辞令という奴だ。

 携帯電話をデスクに戻した阿須賀は思いにふけるように宙を見上げる。

「都市伝説か……」

 阿須賀は呟きと共に息を吐いた。
 怪談と都市伝説に明確な区切りはない。話が出来たのが古いか新しいか、そんな僅かな違いだ。
 人間というものはどうしても噂話が好きらしく、いつの時代もその類の話が絶えることはない。

 特に最近、都市伝説がまたブームになりつつあるらしい。
 テレビ局もそれに便乗するのだろう。そういう流行というのは、数年、数十年の間隔でサイクルする物だ。

 今度は一体どういう都市伝説が流行っているのだろう。
 調査人である阿須賀にも、ささやかな好奇心が疼き出す。

 そういえば、都地からだけではなく別口からも阿須賀リサーチ事務所への予言書に関する調査依頼が増えている気がする。
 無論、阿須賀はそれらを断っている。ただ、増加傾向にあることが気になった。

 ノストラダムスが流行ってもう十年が経つ。
 未来予知も流行がサイクルしているのだろうか。
 阿須賀は独り心地に思うのだった。



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