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その小説が書かれた当時、西家はそれを一度読んでいるはずだった。
しかし数年の時が経ち、どんな内容だったのか、記憶はすっかり消え失せていた。
以前読んだときは、よく出来た小説だと感じたことはなんとなく覚えている。
しかしどうだ。今読んでいる物は、文章力の欠片も見当たらない素人の文章だ。
修辞法(レトリック)など全く考慮することも出来ず、ストーリーをなぞるように出来事をただ連ねただけの箇条書き。
どちらかといえば芝居の台本のようにも見える。
登場人物がどのようなことをするのか書き連ねただけのもの。
柳沢の書いた物はお世辞にも小説とは言えぬ散々なものだった。
これをよく出来たものと感じた自分自身が情けない。
これも若さ故の過ちか……。 西家は自らの過去の感性を恥じた。
そんな不出来な文章の連なりの小説だったが、西家は読むのをやめようとは思わなかった。
別に小説を読んで楽しむのが目的ではない。浦谷がなぜ、今更こんな小説のことを言及したのか。
それを知る為にわざわざ実家まで足を運んだのだ。
なんとなく違和感はあった。
登場人物の名前がどこかで聞いたような名前ばかり。
なんてことはない。この小説の登場人物は柳沢の知り合いの名前を一文字二文字もじっただけ。
注意して読めば、それが誰の名前を元にしたものなのか、柳沢を小学生の頃から友人をしている西家には直ぐに分かった。
どうやら柳沢は実際に身の回りにいる人物をモデルとして小説に登場させていたのだ。
しかしモデルとなっているのは名前だけではない。
性格や設定まで実際の人物に似せて書かれているのだ。
それはまるで自伝的小説、こういう小説を私小説と呼んだ気がする。
そんな考えが及んだが、文学に疎い西家には小説の形式の分類など、どうでもいいことだった。
早く小説を読んでしまいたい西家は次々にページをめくっていく。
目だけが並んだ文章を追い求め、忙しなく上下する。
そうして数分の時が経ち、いつの間にか、西家の手の平にはじわりと脂汗で濡れていた。
小学校の同級生だった柳沢が遺した小説。
西家は今自身が読んでいる物の異常性を感じ始めていた。
そして手が震えそうな緊張と共に、また一枚ページをめくる。
なんとなくそんな予感はあった。
浦谷の言葉。実際の人物をモデルとした小説。
この小説には、そんなことが書いてあるだろうという西家の嫌な予感は、現実の物となる。
「ははははははははははっはっは……」
目に映った小説の内容が、あまりに馬鹿馬鹿し過ぎて西家は笑ってしまう。
しかしその笑いは次第に引きつって、息が漏れるだけのものへと変わっていった。
そして次に現れたのは怒りの感情だった。
「何だよこれ……。何なんだよっ!」
怒りままに、安っぽい紙の小説を床に叩きつける。
「どうして、アキが死ぬんだよ! アキが! アキが! どうして!」
アキ。それは死んだ義田秋仁の愛称だ。
彼の名を何度も上げて西家は小説を踏みつける。
「どうして! どうして! どうしてこの小説のアキはビルから突き落とされて死ぬんだよ!」
西家の声は既に叫びと呼んでいいほどに、感情だけで上げられたものだった。
西家は勢いよく自らの足の下で無惨にくたびれた小説を拾い上げた。
そして再びページをめくる。該当ページを見付け、視線を走らせる。
その紙面には士井をモデルとした登場人物が生き埋めにされ死んだシーンが書かれていた。
やっと分かった。なぜ浦谷がこの小説のことを聞いたのか。浦谷もこの小説を読んだのだ。
そして気付いた。小説の登場人物が殺された方法と同じ方法でそのモデルとなった人物が死んでいる。
そして浦谷はこうも聞いた『現れたか?』と
誰が現れた? そんなの決まってる。
今回の事件の犯人。この小説を見て、この小説通りに犯行を始めた凶悪犯。
そいつが義田と士井を殺したのだ。西家はそう結論付けた。
ふと、もう一つ浦谷が言っていたことを思い出して、西家は慌てて小説のページをめくっていく。
浦谷は、西家も浦谷自身も死ぬと言った。それも順番を指定して。
恐らくつまり、この小説で西家も浦谷も順番に殺されているに違いない。
そう考えた西家だったが、その目に飛び込んできたのは予想外の物だった。
「……白紙? 書いてない。途中から何も書いてない!」
柳沢の小説は士井が死んだところまでしか書かれておらず、その後は延々と白紙のページが並んでいるだけだった。
「書いてない……。未完成のまま、ヤナは死んだ?」
自らの口から漏れた言葉は西家の忘れかけた微かな記憶によって否定された。
西家はこの小説が未完成だった覚えはない。
恐らく、今、手にしているのは制作段階の試読として柳沢から渡されたものだ。
完成版はまた別にある。そんな気がする。
昔の記憶はどうにも曖昧で、はっきりしないのが歯がゆかった。
しかし、浦谷の言動を鑑みると、浦谷がこの小説の完成版、又はこれよりは書き進んだバージョンの原稿を目にしていると考えるのが自然だった。
西家は家探しで散らかった自分の部屋をぐるりと見回した。
この未完成の小説を探し出すのに、納戸となりつつあった部屋を全てひっくり返した。
この部屋に完成版の小説がまだ眠っているという可能性は少ないだろう。
「もう一度、浦谷と会って聞くか……」
確かにそれが手っ取り早い。
しかし、警察から追われている浦谷に会うなんて、そうそう出来ることではない。
第一、浦谷は携帯電話の電源を切っているらしく、連絡の付けようがなかった。
「クソっ! ヤナが生きていれば!」
そう、書いた本人である柳沢が生きていれば、本人に小説の続きはどうなるのか聞けばいいのだ。
それなのに、もう柳沢はどこにもいない。
「……でも、これだって充分ヒントになる情報だよな」
西家は手にした小説に視線を落とした。
話の続きが分かれば、これから西家がどのように襲われるのか、そしてその対抗策も立てやすくなる。
だからこそ小説の続きは重要であるが、この未完成の小説だって、義田と士井の事件に関する重要な証拠だった。
小説はミステリー仕立てに書いてあるので、この途中までしかない小説では、犯人が具体的にどうのように殺したのか、詳しく書かれていない。
しかし、それを考えるヒントになりそうなことは途中までだって書いてあるはずだ。
「アキと士井ちゃんを殺した犯人が、小説の内容を真似て犯行を行っているなら、出来るだけ小説通りにしようとするんだろうな……」
ならば、この未完成の部分だけでも、よく読み解き、検討する価値はある。
「警察に届けた方がいいんだろうか……?」
もしかすると、警察がまだ掴んでいない情報がこの未完の小説の中にあるかもしれない。
西家は独り息を呑んだ。
いつの間にか、頭に上っていた血も冷め、冷静な判断力が西家に戻っていた。
一つ、気になることがあるのだ。
この柳沢の書いた小説は自作のコピー誌。これを手に出来る人物はこの小説に出てくる登場人物のモデルと同じく、柳沢に身近な人間しかいないだろう。
例えば「6-2」ような、柳沢に近しい人間だけなのだ。
犯人は西家の身近にいる人物である可能性を、西家は疑わなくてはならなかった。