2
まるで体の水分が全て空気に入れ替わったみたいな気味悪い浮遊感に吐き気がした。
目を開いても、そこに写るものが遙か遠くに感じられて、古いぼやけた画面のテレビを見るみたいに現実味が全くなかった。
今、目の前で忙しなく作業する看護師にしても、自らが世話になっているはずなのに他人事のように思えてしまう。
カートに医療用の器具を満載して作業に追われているのは北出田嘉宏(きたでた・かひろ)とかいう名前の男性看護師だった。
背も高く体格のいい彼なら力仕事も多い看護師という職も似合っているように思えた。
「西家さん、血圧を測りましょう」
そう言われても、西家は腕を差し出す気力もなかった。
声をかけても全く動く気配のない西家の腕を北出田は有無を言わさず腕を引っ張り出して血圧計を巻き付けた。
看護師の仕事が西家の看護だと分かっていても、西家は放っておいて欲しかった。
独りにして欲しかった。
天王寺駅での一件からもう三日がたった。
腹部を刺された西家はそのまま入院させられた。
傷の方はそれほど深くなく、ときおり脈打つように痛むだけだ。
そう、痛みなんて今の西家にとって些細なことであった。
西家は独り歯噛みする。
西家の心を占めるのは、駅での出来事。
浦谷が西家を襲ったこと。
西家が浦谷を突き飛ばしたこと。
そして浦谷が死んだこと。
西家は浦谷を殺そうだなんて思っていなかった。
西家が浦谷を突き飛ばしたのは無意識の行動だったし、浦谷が軌道に落ちたもの偶然だった。
しかし、誰がなんと言うと、結果的に西家が殺したということに代わりはない。
「西家さん、そんな力んだら血圧計れないじゃないですか」
北出田は呆れたように言う。西家はもう二日もこんな調子だった。
完全に寝込んでしまって、誰にも会いたくないとさえ思う。
しかし、それは単なる逃げに違いない。
それに警察からの事情聴取もあり、伏せっているわけにもいかなかった。
西家は心をどこかに置き忘れたかのように上の空ながら、事件の経緯を刑事たちに説明した。
刑事たちも西家の意気消沈ぶりを感じ取り、気を使っているようだった。
西家は大きな溜息を吐く。
息を吐いたって、なんの解決にもならない。それが無意味に悲しかった。
そんな様子の西家に北出田看護師は無言の視線を送る。
病院関係者の間でも人を殺した患者として西家は噂になっているのかもしれない。
測脈を終えた北出田はそそくさと病室を後にする。
それとは入れ違いにスーツ姿の男が病室に入ってきた。
「失礼します」
少し面長の男で、身なりのいい服装をしていた。
どこかで見たような顔をしている。なのに初対面だと西家の記憶が告げていた。
なんてことはない。テレビによく出てくる野球選手に似ているだけだった。
スーツには似合わないカジュアルなメガネが警察関係者とは思えない。
そんな男が、にやけた笑みを浮かべて病室に入ってきたことを西家は訝しげに思う。
「……どちら様ですか?」
西家の声には力がない。
精神的に打ち拉がれた今の西家にはそれ以上の声を出す気力はない。
しかし、その男に覇気のない西家を気にした様子はなかった。
「初めまして。弁護士の阪朽一俊(さかくち・かずとし)です」
「弁護士さん?」
西家は、男の差し出した名刺を手に取った。
そこには確かに法律事務所の弁護士であることが表記されていた。
「ええ、西家さんのお母様からのご依頼で参りました。この度はどえらいことになったそうで」
「ええ、まぁ」
阪朽の言い様に西家は顔をしかめる。
だが阪朽はそれに気付かなかったように話を続けた。
「大概の事情は聞いてます。人一人、亡くなってますので、警察の方もどう動くがわかりませんからねえ。
目撃者も大勢いるみたいですから正当防衛で不起訴になる可能性の方が高いとは思いますけど、
防御行為の法益権衡を検察が問題にしてくるようでしたら、裁判になる可能性がありますので」
「法益権衡?」
「つまり、過剰防衛で殺人罪に問われるかもしれんということです」
「殺人……」
心臓が飛びはなるように早鐘を打つ。
西家は改めて、他人の口から浦谷を殺したという事実を突き付けられた。
「もちろん、その場合でも刑法三十六条で刑の軽減は規定されていますので有罪でも執行猶予は可能でしょう。
ですが、私がやるからには無罪主張でいきましょう」
阪朽弁護士はやる気満々の様子で笑顔を振りまいていた。
それが逆に落ち込んでいる西家には痛々しかった。
「はぁ」
と、西家はやる気のない返事するのが精一杯だった。
「はは、そうですね。いきなりそんな話するのもなんですね。
とりあえず今日は弁護契約の確認だけにしましょか。
以後のことは警察の出方を見て追々」
そう言うと阪朽弁護士は鞄から一枚の紙を取り出した。
「すいませんね。こういう手続きはどうしても必要ですので」
それに続いて、阪朽は契約についての注意事項を口早に説明した。
それは極々当たり前のことの確認だったが、西家は全く聞く気がなく、それらを聞き流して契約書に署名した。
西家が機械的に契約したことに、阪朽は何も言わなかった。
「それでは、帰らせてもらいます。
警察の取り調べがあるときは、名刺の電話番号に連絡ください。
それ以外の相談でも何でもかけてもらってOKです。それが私の仕事ですから」
何をそんなに急ぐ必要があるのだろう。そんな疑問が浮かぶほど阪朽は手早く帰っていった。
一瞬、弁護士を騙る詐欺か何かかもしれない、という疑念も過ぎったが、どうでもよかった。
西家の心は完全に捨鉢になっていた。
阪朽が帰った後の病室は静かだった。
西家の腕に刺さる点滴が、ポツ、ポツ、と雫を落とすだけ。
静かな病室では、思い出さないようにいくら念じても、あの時のことが頭を過ぎる。
包丁を振りかぶる浦谷、その浦谷を突き飛ばした瞬間の彼の顔。
電車に轢かれた浦谷によって出来た血だまり。
線路の砂利に消えていくそれを、ただ見つめることしか出来ない自分。
思い出しただけで手が震えだす。
三日経っても、録画したリプレイ画像のように鮮明に思い出す。
いや、三日経ったからといって消えるようなものではない。
この記憶は一生忘れることは出来ないだろう。
それは西家が一生背負っていく罪なのだ。
目尻に熱いものがこみ上げてくる。
西家はそれを止めようとは思わなかった。
人間というものは、こんな思いに耐えられるようには出来ていない。
せめて涙でも流さなくては、西家は胸苦しさで死んでしまうだろう。
「浦谷……」
自分が殺してしまった友人の名が口から漏れる。
まるで偽善だ。死んでしまったことを悲しむ自分に吐き気がする。
殺したのは誰だ。他ならぬ自分自身。
自分さえいなければ……。そんな消えることのない苦悩が西家の体を蝕んでいた。
ベッドのシーツを握り締めていた。
捻じ切れんばかりに歪んだシーツはまるで西家の心のようだった。
どうすればいい? どうすれば俺は救われる? 西家は心中懇願する。
しかしそれに答えてくれる者がいるはずはない。
胃が痛い。頭が痛い。
刺された腹なんかよりもずっと痛い。
この苦悩から解き放って欲しかった。
「フットサルしたいな……」
不意に口にしてしまった。
大好きだったフットサル。毎週のようにしても飽きなかった。
仕事に追われ疎遠になっていたとはいえ、フットサルは西家の生活の中心であった。
それもこれも、全てが過去形だ。
フットサルクラブ「FC6-2」の前身だった「6-2」のメンバーはもう西家ただ一人。
柳沢はとっくの昔に死んだ。
義田と士井も死んだ。
そして浦谷は西家が殺した。
「ぅえぇ……」
西家は嗚咽(おえつ)を漏らす。
胃が飛び上がり、酷く不味い液体が口内にむせ返る。
殺した。俺が殺した。浦谷を殺した。友人を殺した。人を殺した。
殺した、殺した殺した殺した殺した殺した殺シた殺シタ殺シタ殺死タコロ死タコロ死死死シシシ……。
その思考はすでに西家のものではない。
何かに取り憑かれたように、独りでに廻り続ける永久機関。
脳が虫に食われ綻んでいくかのような錯覚に陥る。
「はぁ、はぁ、はぁ」
西家の荒い息が病室という空間に満たされる。
いくら息を吸ったところで、苦しみから解放されず、このまま苦悩の海で溺死するのではないかと思えてくる。
これなら浦谷に殺された方がましだった。
その考えも西家の弱さ。
死を選ぶのは現実逃避以外の何物でもないことに、西家自身は気付けないでいた。