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その声は無意味に馬鹿でかく、そして無遠慮に刺々しかった。
「真湖さん、ちょっと待ちなさい」
一日の授業が終了し、教室を出ようとした私を引き留めたのは、クラスメイトの新垣美砂でした。
今日のお昼に私と綾瀬さんのやりとりに割り込んで来た彼女が、再び私に絡んでくるというのです。
悪い予感がしてなりませんが、私のクラスの中心人物である新垣さんを無視するわけにもいきません。
「何か用?」
私は嫌々ながら新垣さんの方を振り返る。
彼女がわざわざ私なんかに声をかけたのです。用件は絶対に面倒事でしょう。
見れば、新垣さんは綺麗な顔を強ばらせ、妙に不機嫌なご様子。
明らかに私に苛立ちを覚えているように見えます。
「『何か』とは何よ。今日もサボる気なの?」
勢いのある新垣さんの声にクラス中の視線が私達に集まってくる。
私、注目されるの嫌いなのに……。
一体何事かと、作業を始めようとしていたクラスメイト達が手を止める。
十一月も半分が過ぎ、もう文化祭まで一週間を切っていた。
どこのクラスでも放課後は文化祭の準備に追われている。
私のクラスだって例外ではありません。男子は看板などの装飾作り、女子は衣装の仕立てを担当しています。
ただ頴田君だけは生徒会を手伝っていますので、そっちが優先。
クラスの出し物準備は免除されて、すでに生徒会室に行ってしまいました。
「……そう。新垣さんは私に手伝ってほしいの?」
私の質問は新垣さんの逆鱗にでも触れたのでしょう。
新垣さんのつり上がった目は更に恐い目つきに変わる。
「何よ、偉そうに! 文化祭の準備はクラスみんなでするものよ。なのにあんたは毎日サボってるじゃない!」
サボると言われては、私も引き下がるわけにはいきません。
「確かに作業には参加していないけど、別にサボっているわけじゃないから……」
「バカなこと言わないで!」
新垣さんは甲高い声を上げる。
耳が痛いからやめてほしい。
それに私は馬鹿だけど、新垣さんに言われたくはありません。
新垣さんだってそんなに頭いいように見えないです。
「わかった……。何をすればいいの? 新垣さん達と一緒に衣装作りをすればいいの? 自慢じゃないけど、私、裁縫は全くダメだから」
今のご時世、裁縫の得意な女子ってのも数は少ない。
私はそれに漏れず裁縫は不得意です。
どうも針を使うというのがしっくり来ないのです。
針を打たれるのは病院で慣れてるんだけど。
「下手でもなんでも、いいからやりなさいよ」
そう言って新垣さんは手に持っていた衣装を私に差し出した。
丁寧に待ち針と仮縫いで止めた布地が目に入る。
噂に聞いた通り新垣さんは裁縫が得意なようです。
まったく自分の得意分野だからって張り切って。
「そう……。私がやったら効率が悪いでしょ? 新垣さんがやったら一時間で出来る物も、私がやったら一週間はかかるし。それに血とかで汚したら悪いから控えていたんだけど」
私の正論に新垣さんの頬はつり上がる。
どうやら私の意見はお気に召さないようです。
「物は言い様ね。そんな言い訳はやめてよ」
怒気を含んだ新垣さんの声が教室に響き渡る。
静閑を決め込んでいたクラスメイト達も、そろそろ限界と判断したのでしょう。
私達の回りに数人の女子が集まって来た。
「ちょっと、美砂。やめときなよ」
「そうよ。途中で倒れられたりしたら面倒だよ」
私につかみかかる勢いの新垣さんを他の女子が止める。
新垣さんの『なかよしグループ』のメンバーである彼女達は、私に冷ややかな目を向けている。
私が彼女達に嫌われてるのは今に始まったことではありません。
「でも、真湖だけ何もしないなんて……」
友人に止められて新垣さんはトーンダウンしましたが、もちろん納得なんてしていない。
新垣さんの正義に私は反しているのでしょう。彼女に引く理由なんてありません。
しかし、友人達の制止を振り切ってまで私をどうこうしようという確固たる信念もないのです。
私と新垣さん達は、しばらく気まずいにらみ合いをする形となってしまった。
助け船は意外な所から来ました。
意外と言ってはさすがに失礼かもしれません。
ただ、こういう場合に私と関わろうとするのは、今までに一度もありませんでしたから。
「真湖さんには当日頑張ってもらうってことで、準備はいいじゃないかな?」
横から口を挟んだのは綾瀬さん。
確かに彼女は私に時々話しかけてくる。
ですがそれも二日に一度ぐらいの頻度です。
私は綾瀬さんと仲がいいなんて思ったことは一度もありません。
事実、私が新垣さんに咎められることが今までにも数回ありましたが、そのとき綾瀬さんは静観するだけでした。
それに、今日のお昼に私は彼女を泣かせてしまったのです。
あと一週間は彼女と喋ることはないと思ってました。
だから綾瀬さんが私達の仲裁に入るだなんて思ってもみませんでした。
今日のお昼の件が影響しているとしか思えません。
ん? ……ちょっと待ってください。当日頑張るですって?
まさか綾瀬さんは私にこんな衣装を着ろと言うんですか?
「私がウェイトレスをするの?」
私は自分を指差して驚きの声を上げた。
「何言ってるの真湖さん。この衣装は真湖さんの為にあるようなものじゃない。きっと似合うわよ」
止めてください綾瀬さん。 そんな世の幼女趣味の人を煽るような真似は。
確かに小学生のような体型で黒く長い髪を垂らした私は、
普段からヒラヒラレース系の服が似合いそうとか言われて迷惑しているのですよ。
そんな私にウェイトレスの服を着せてどうするんですか。
それなら巨乳の綾瀬さんの方が似合うに決まってます。
うちの喫茶店は、絶対に綾瀬さん目的の男子で繁盛するでしょう。
「綾瀬さん、私がウェイトレスなんかしたら迷惑かけるよ。それでもいいの?」
どんなデザインか知りませんが、ウェイトレスの格好なんて恥ずかしくてしたくない。
そういう思いはあります。しかし、別にウェイトレスという仕事自体を嫌っているわけではありません。
私の思考を占めるのは、私が何かをやれば、回りに絶対迷惑をかけるということです。
「今でも十分に迷惑かけてるでしょ?」
新垣さんが嫌みったらしく言う。
「……そうね。知らないんだから。配膳中に血とか吐いても」
「へ〜。おもしろそうね。流血喫茶かしら?」
綾瀬さんが変なことを言う。
この娘も頭のネジが一、二本はずれてるんじゃないのかしら?
「綾瀬さん! そんなの冗談じゃなわ!」
新垣さんもそれには同意見のようで、私に食ってかかったテンションで声を上げる。
どうやら新垣さんが一番、良識派のようです。
「……あなた達、ケンカしてたんじゃないの?」
新垣さんは今日のお昼休みの件を言っているのでしょう。
まぁ見る人が見ればケンカに見えたと思います。
「ケンカだなんて、そんなことないよね、真湖さん?」
「えぇ、私はケンカはしたつもりないけど」
私も綾瀬さんに同意する。
綾瀬さんに屈託のない笑みで問いかけられれば、私はそれに苦笑で答えるしかありません。
「はぁ、もうどうでもいいわ……。真湖さん、帰りたければ帰れば」
そう言って、新垣さんは自分達の作業グループに戻っていった。
綾瀬さんに横やりを入れられて新垣さんもやる気が失せたのでしょう。
私の相手をするなんて無駄な体力を使うだけなんだから、それで正解です。
新垣さんが引いたの見て、綾瀬さんも自分の持ち場に戻ろうとしていた。私はそれを呼び止めた。
「何、真湖さん?」
「どうして私を助けたの?」
「ふふ、別に助けてないわよ。真湖さんのウェイトレス姿楽しみにしてるから。今日の仕返し」
この娘も質が悪い。私は綾瀬さんへの認識を改めた。
綾瀬さんは天然の入ったぶりっ子系かと思ってたけど、悪質な天然系でした。
私は絶対、ウェイトレスなんてやらないんだから。
「私に合うサイズの服なんてないでしょう? 私はフリーサイズじゃブカブカですから」
だから婦人服売り場で洋服を探すのに苦労するんです。
子供服売り場には、いくらでもあるんですけどね。
「ふふふ、真湖さんの服は新垣さんが作ってるわよ。さっき真湖さんに渡そうとしていたのがそうじゃないかな? もう仮縫いも終わってるみたいだし」
「彼女が私の分も作ってるの?」
それこそ意外でした。
いくら裁縫の得意な新垣さんでも、私の分まで作る理由は見あたりません。
「新垣さんも真湖さんのウェイトレス姿が見たいんじゃない?」
綾瀬さんはおどけるように言う。
それが事実だったら鳥肌ものです。
どうして私が彼女達の着せ替え人形にならないといけないのでしょうか。
「まさか。……とりあえず、今日はもう帰るから」
私はそう言うと、さっさと教室を出る。
別に今日はどうしても早く帰らないといけない用事があったわけではありません。
でも、クラス中から針のむしろで居続けられるほど、私の心臓は強くないんです。
私は夕日の赤を素直に綺麗だと思う。
雲から始まり、頭上を染め上げる斜陽の赤。
そして世界の全てを赤にする。
本当に綺麗。私の吐く血の色とは大違い。
徒歩通学の私は、一人田畑の広がる霧ヶ屋〈きりがや〉の町を歩いていた。
今日も今日とて、屋上で生徒会室の音を聞いていましたが、
文化祭が来週と迫れば生徒会の面々も大忙しで、生徒会室もドタバタしていました。
そんな忙しない状況に聞き耳を立てても私の方が落ち着きません。
しばらく屋上で時間を潰していましたが今日はさっさと下校です。
頴田君に帰りの挨拶をしたかったけど、今週の生徒会の下校がどうなるか、さっぱりわかりませんし。
「なんだかなぁ」
私は道端に転がる石を蹴る。
アスファルトに跳ね上がった小石は、転々とホップステップジャンプ。
側道から土手を飛び越えて、用水路に音を立てて落ちてしまう。
どうにも今日は冴えない一日でした。
お昼以外、体調は悪くなく、今日は目眩も血を吐くこともありませんでした。
それはよかったのですけど、逆に私と頴田君のと接点がなかったってことです。
私は手にする通学鞄を持ち直す。
学校指定の皮鞄は光沢が失われ、シワが目立ち始めている。
そのシワを見るたび私は溜息を吐く。
どこからどう見たって一年生の鞄に見えません。
一年生の教室にあって、そのくたびれた様子は一目で私が留年生であると物語っている。
まぁ、そんなことを気にするのも学校内だけの話で、こんな通行人のいない通学路では意味のないことです。
この霧ヶ屋は右を見れば畑、左を見れば田んぼと、程々に田舎臭い土地柄です。
一昔前の合併ラッシュの折に二松〈にまつ〉市に吸収された霧ヶ屋町。
田畑と牛舎を除けば税金の無駄遣いとしか思えない公共施設しかない。そんな寂れた町です。
私の通う霧ヶ屋高等学校もそんな霧ヶ屋の片隅にある。
校名からして地名からとったそのまんまのもの、非常にわかりやすくていい。
田舎らしく敷地は無意味に広く、定員割に怯えるごくごく普通の高校です。
急に私の前方から黒い排気ガスをまき散らしてダンプカーが現れる。
交通量の少ない田舎道と、たかをくくっているのでしょう。
法定速度を遙かに過ぎたスピードで私の横を過ぎていく。
「ゲホっ」
私は乾いた咳をした。
排気ガスの臭いに私の体が反応したのだ。
こんな場所にダンプカーなんて、どうせまた公共工事でもやっているのでしょう。
ここ数十年、霧ヶ屋は再開発の波が押し寄せている。
新しい駅やら住宅街やらを無理矢理作っているのです。
そんな再開発の中でも一番大きな計画が前岡〈まえおか〉ニュータウンです。
霧ヶ屋の南部にあった山を切り崩して新たに街を作ったのです。
霧ヶ屋ニュータウンと名付ければいいものの、前岡ニュータウンなんて名前を付けたから、さあ大変。
おかげで霧ヶ屋のど真ん中に『新前岡〈しんまえおか〉駅』が出来てしまい、
更には前岡ニュータウンには駅がないときてるんです。
元々『前岡』と呼ばれていた地区はもっと西、前岡盆地の西端だったのに。
そう、この霧ヶ屋と前岡がある盆地が前岡盆地だなんて名前なのが原因なんです。
盆地がそんな名前だから、地元のことをろくに知らないどこぞの偉いさんが霧ヶ屋の山に作られた街に、
前岡ニュータウンなんて名前を付けたんです。
もう、わかっていない人がワケのわかんないことしないでほしい。
ちなみに新前岡駅の一つ手前、霧ヶ屋駅で下車すると、前岡盆地の入り口、何もない山裾に出てしまう。
あそこは廃坑しかない駅で、素人が知らずに降りて泣きを見たって話をよく耳にします。
そんな霧ヶ屋の土地で移動するにはバスの一択。
どこに行くにもバスに乗らなくては始まりません。
つまりは霧ヶ屋高校で徒歩通学の私は少数派。
更に友達がいない私は一人寂しく下校するしかないのです。
徒歩で通える地元民の私だけど、家から学校までは歩いて三十分ほど。
体の小さい私が歩いてそれぐらいだから、近いといえば近いのでしょう。
お彼岸もとっくに過ぎ去り、日は益々短くなっている。
周りを山で囲まれた盆地という地形も手伝って、
早くに学校を出た今日も家に帰り着く頃には、太陽は山の端に隠れているでしょう。
コトコトと、遠くで電車の音が聞こえる。
なんて平和なんでしょう。
霧ヶ屋には田舎独特のゆっくりした時間が流れている。
もちろん私もそんな悠久の空気の恩恵に与っている。
体が弱く無理の利かない私は、都会の忙しない生活に耐えられないでしょう。
今のところ私は上京したいとか、そういう幻想に取り憑かれていませんので、今の田舎ぐらしにも不満はありません。
田舎と言っても電車に小一時間揺られれば、都市部に出ることも出来ます。
それに近頃はネット販売とかも普及していますから、こんな田舎でも手に入らないものはありませんし。
たぶん、私は一生この町で過ごすのでしょう。
ただ、その一生が後何年なのか、私は希望的観測はしないことにしている。
残りの寿命を指折り数えるより、今を生きることに全力を尽くす。そう決めているのです。
その生き方が立派だとか、格好いいとか、口が裂けても言えません。
私にはそれしかないのです。
それ以外の選択肢がないのです。
そして私は迷います。
私はやると決めたらやるしかないにの迷うのです。
私の心にはネガティブな思いがずっと付きまとう。
人間だから迷うのは当たり前だとは思うけど、迷ったり悩んだり、辛いんです。
『たかが高校生の小娘の悩みなんて』って馬鹿にする人がいるかもしれません。
でも、たかが高校生にしてみれば、それは生きること自体の悩みなんです。
高校生だって悩みます。中学生には中学生の悩みが、小学生にだって悩みはあるんです。
大人はそれをわかってくれない。
自分達だって子供の時は悩みぐらいあっただろうに……。
一陣の風が吹き荒れる。
私の長い髪が顔に絡みついてうざったい。
「ざぶい……」
そういえば、もう十一月も中旬。気温は日々下がっている。
晴れ渡る空は天高く、霧ヶ屋の山はひっそりと私を見守ってる。
田園を吹き抜ける風に、私の体は冬の訪れを感じ取っていた。