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新町の駅前は二松市とは思えないほどの賑わいを見せる。
摩天楼と言うにはほど遠いですが、ビルが密集する様子は他県にだって負けない繁華街です。
私達地元の人間は単に「新町」と呼びますが、本当は二松新町という地名。
市庁舎のある二松元町と合わせてこの二松市の中心地です。
霧ヶ屋や前岡の住人がウィンドショッピングをしようと思えば電車に揺られて新町に出てくるしかありません。
だから週末になれば今の私達のようにこぞって街に繰り出すのです。
私は私の少し前を行く頴田君の表情を見ようとする。
でも、頴田君に顔を見ていることがバレるのは気恥ずかしい。
頴田君は何を考えているのでしょう?
どうして私の買い物に付き合ってくれるのでしょう?
私には頴田君が付いてきてくれた理由がわからず混乱していました。
もちろん、私は頴田君と一緒にいれてすごく嬉しい。
頴田君が横にいるだけで頭がポーッとなっちゃうぐらい。
頴田君に変な子と思われないのなら、この街中で踊ったっていい。
体全身でこの気持ちを表現したいぐらいの気分なんです。
「真湖?」
「は、はぃ」
突然、頴田君に呼ばれて私の声は裏返る。
「で、どこで何を買うんだ?」
「えっ……、あ、の……。頴田君」
私は頴田君の質問には答えず。逆に頴田君に呼びかける。
「ん?」
「あの……。頴田君は、新町に……よ、用事あった、の?」
私は恐る恐るに聞く。
頴田君の答えは予想出来ました。
でも、聞かずにはいられなかった。
「いや、別に……」
私は頴田君の答えに胸を撫で下ろす。
頴田君は厚意で私に付き合ってくれている。
榛道駅でもう帰ろうとしていた頴田君は、わざわざ逆方面の新町にまで付き添ってくれた。
頴田君の厚意は私に対する好意じゃないことぐらいわかってる。
それでも私は嬉しかった。
「それで真湖は、これからどこに行くつもりなんだ?」
頴田君はもう一度私に問う。
「えっとね……。あの……」
私の頭はフル回転。
無論、今日の行き先ぐらい、家を出る前から決めている。
いつ血を吐き出し倒れるかもわからない私です。
行く当てもなくふらふらと買い物なんか出来ません。
行き先を決め、移動は最短経路。迅速に買い物を終えたら、さっさと帰宅する。
それが私の買い物スタイルです。
私はあまりファッションとか流行とかに縁がない。
今までの人生で着飾ってどこかに出かけるなんて経験出来なかった。
友達のいない私は学校の教室で一緒にファッション雑誌を見て、きゃーきゃー騒いだこともない。
もちろん私だって女の子です。かわいい洋服を着たいという衝動はあります。
だけど結局、防寒性とか血が付いたときに洗いやすいとか、機能面を重視して買い物してしまう。
だから今日だって安物の量販店とデパートのバーゲンにしか行く予定にしていなかったのです。
でも、頴田君に行き先を聞かれて、私は正直に答えるのを躊躇った。
やっぱり頴田君もオシャレな女の子が好きなのかな?
もっとスタイリッシュなお店を言った方がいいのかな?
そんな打算が私の頭を駆けめぐる。
口ごもったまま、私が何も言わないので頴田君は首を捻る。
あああああ、どうしよ。どうしよ。ああ〜。もう私の頭は大混乱。
「あ、あ、あのね……。に、にまつシティにね……」
「あぁ、あっちか」
そう言って頴田君は『にまつシティ』に足を向ける。
にまつシティとは、新町にあるショッピングモールみたいなもの。
新町の商業地区の中心地で、どんな店でもある無難な答えです。
はぁ、危なかったぁ。私は心中で呟く。
冷静になって考えてみれば、私はブランドの店もブティックの類も全然知りません。
私は出来もしない見栄を張ろうとしていたのです。
私は頴田君と並んで歩くために足を速める。
すると頴田君は自然と歩く速さを落として私に合わせてくれる。
いつもの頴田君だ。いつも保健室に連れて行ってくれる頴田君。
その頴田君と学校以外の場所で一緒にいる。
その事実がわなわなと私の心を揺さぶっている。
嬉しい。嬉しいんだけど、私が今までに経験したことのある普通の嬉しいとは全然違う。
嬉しいって、どうしたらいいのかわからない。
悲しい時は泣けばいい。苛立ったときは怒ればいい。
でも本当に嬉しいときって、どうしたらいいの?
もしかして、これが『舞い上がってる』っていうことでしょうか?
「いつも一人で買い物に来るのか? 誰かいないの?」
頴田君の質問はもっともです。
私のような体の持ち主が一人で遠出の買い物に出かけるなんてナンセンス。
私も、いつもいつも一人で買い物に来るわけではありません。
ただ、今日も父は休日出勤。それに高校生にもなって、父に買い物に付き添ってもらうのは恥ずかしかった。
「……友達とか、いないから」
「そうか……」
頴田君に友達のいない寂しい子と思われてしまいました。
しかし、それは事実ですし、頴田君だってわかっていたことでしょう。
私が学校で誰かと仲良くしているところなんて、見たことないでしょうから。
別に友達がいないことなんて気にしてません。
頴田君も交友関係が狭いからというだけで差別するような人でもありません。
ただ、私の恐れていることは、私なんかの近くにいることで頴田君が他の人から色眼鏡で見られることです。
今も、私と頴田君が一緒に歩いているのを見て人はどう思うんでしょう?
……か、か、彼女とか、頴田君の彼女とか、そんな風に見られるてたりして。
で、でも、でも、別に手を繋いで歩いてるわけじゃないし……。
手を繋ぐ? 私と頴田君が手を繋ぐ?
そんなの、そんなの、うひゃ!
やだ、あり得ない!
違う! 嫌じゃないんです!
いやいやいや、私は何を言っているのでしょう。
ちょっと落ち着け、私。
冷静になるのです。
あり得ないんですから、頴田君と私が恋人みたいに手を繋ぐなんて、本当にあり得ないんですから。
私と頴田君はそういう関係じゃない。
私に望めるのは、私が体調を崩して頴田君に手を引っ張ってもらうことぐらい。
そこに恋愛感情なんてあるはずがないんです。
それに私のようなドチビが頴田君と一緒に歩いてたって、どうせ兄と妹に見られるのが関の山。
夢見るのは勝手ですが、妄想は脳内に留めるのがマナーというものです。
私は横目に頴田君の顔を見上げる。
いつものように何を考えているのか窺い知れない表情。
横に私がいてもいなくても、頴田君は変わらない。
頴田君は人によって態度を変えない。
横に私がいても嫌な顔一つしない。
そんな頴田君だからこそ、私は好きになった。
そんな頴田君の顔を変えたいんです。
頴田君が彼女にしか見せない顔を私が見たいんです。
「……何?」
うお、目が合いました。頴田君と目が合っちゃいました。
いつの間にか私はじっと頴田君の顔を見つめていました。
これじゃ、絶対変な子と思われました。
「な、なななんな、なんでもない、です」
急に大きな声を上げた私に、道行く人は一斉に振り返る。
それも一瞬のことで、辺りは直ぐに元通りの流れを取り戻す。
「真湖って、いっつも焦ってるよな?」
頴田君の手厳しい言葉。
確かにそうなんだけど、それは頴田君の前だけなんです。
「人と喋るのが苦手なのか? 教室でもあんまり喋ってるところ見ないし」
うおお、そう思われていたんですか?
いえいえ別に人と喋ることは嫌いではありません。
ただ喋るのは疲れるという話で、私は肺から息を吐き出して発声するというのが億劫なのです。
それに比べて頭の中ではいつも饒舌で、ぺらぺらと、ああだこうだ妄想しているのです。
その辺は普通の女の子と何ら変わりありません。
「その……。別に、苦手じゃない、です」
言っている内容の割に私の滑舌は悪く、自信が全く感じられない小さな声。
それじゃあ何の説得力もありません。
「ふ〜ん」
私の返事に納得などしてないでしょうに、頴田君は相づちを返してくれます。
全く、私は何をしているのでしょう?
折角、頴田君と二人っきりで街にいるのです。
これは絶好の機会なんです。頴田君との仲を進展させるチャンスなんです。
それなのに私達の会話は冴えません。
それもこれも全て私が原因。
私がもっと頴田君と普通にお喋り出来たら……。
家での頴田君のこと、頴田君は何が好きなのか、頴田君の趣味は何なのか。
色んなことを頴田君の口から直接聞けるチャンスなのに、私は返事をするのが精一杯。
奥手な女の子と思ってもらえればまだマシですが、私にしてみれば、単に度胸がないだけのおマヌケな状態です。
こんな一世一代のチャンスを生かせなければ、いつ死んでもおかしくない私の人生、何にも出来ないってことになります。
私には果報を寝て待つ時間がないんですよ。それなのに……。
既に目の前に、にまつシティの丸まったデザインの建物が迫っている。
この後どうしよう?
行き先を聞かれて、つい答えてしまったけど、私は何も考えていなかった。
家を出るときは「寒くなってきたから、暖かい服ならなんでもいい」なんて考えていました。
でも、頴田君が買い物に付き合ってくれているのです。
なんとかしないといけません。もっと、で、で、デートっぽく。
そう考えた瞬間、私の顔が紅頬するのが自分でもわかる。
私は顔を伏せて、頴田君に顔を見られないようにする。
意識すればするほど、顔が熱っぽくなっていく。
自動扉をくぐると、建物内からワッと暖気が滑り出してくる。
にまつシティ内は人、人、人。
休日の商業街は例の如く人で溢れている。
行き交う人を見れば男女二人連れが多い。
明らかにカップルだとわかる人達が否応にも目に入る。
普段ならそれを見て、ひねた考えの一つでも思い浮かぶ所ですが、今日はそんな余裕はありません。
『どうにかして頴田君と仲良くなる』その思いが私の思考を空回りさせる。
「今日は何を買うんだ?」
あ〜。そういえば頴田君に詳しく説明をしていませんでした。
「あの……。服を、ね……」
「じゃあ、地下か」
ちょ、ちょ、ちょっと待ってください。
そんなブティック街なんか、私……。
さっきは不相応に背伸びをしてみようか、なんて馬鹿な考えが過ぎりましたが、やっぱり無理なんですよ。
私はそんなファッショナブルになんてなれません。
私にはブティックより白亜の病棟がお似合いな人間なんですよ。
それに手持ちのお金も心許ない。
私はアルバイトもしたことがありません。
自由になるお金なんて微々たるもの。
私の買える服は安物だけなんです。
「あ、あ、あ、あのね。今日は、バーゲンに……」
「ああ、じゃあ四階だな」
私の挙動不審な態度にも、頴田君は気にした様子なくエスカレータに向かいます。
私の考えすぎで、頴田君はオシャレな女の子がいいとか、そんな俗物的考えはないのかもしれません。
さすが頴田君です。たかが着ている物で人を判断するような愚かな人達とは違います。
私は頴田君の後ろに従って付いて行く。
さっきから私と頴田君の間には、つまらない会話しかありません。
もっと普段の頴田君のことを知りたい。
そんな欲求が私の中に積もっていく。
だけど、頴田君を前にすると言葉が出ない。
いつもの私はお喋りではないにしろ、もう少し舌が回るはずなんです。
「か、頴田君。頴田君は服とか、どこで買うの?」
なんとか頴田君とお喋りしようと頑張ってみても、私の口か出るのはそんな程度。
まったく意気地がありません。
「まぁこの辺とか、元町の古着屋とかぐらいかな。あんまり服とかに金かけないから」
うわ、奇遇です。私と同じじゃないですか。
もしかして、私と頴田君は気が合うんじゃないですか。
……まぁ、私は単に出掛けるのが苦手なだけですが。
「そう、なんだ……。それじゃあ、何にお金かけてるの?」
「強いて言うなら、本かな」
頴田君は頭を捻り、少し悩む風に答えました。
「本って、マンガとか?」
「どちらかと言うと小説」
も、もしや頴田君は文学青年なのでしょうか?
ちょっと格好いいじゃないですか。
やっぱり私の頴田君はそこらの男子とはひと味違います。
でも、学校の休み時間に本を読んでいる所を見たことはありませんし、頴田君が小説好きというのも初耳です。
小説は自宅で読んでいるのでしょうか?
頴田君が読書をするなら哲学書とか心理学の本みたいな印象を私は持っていました。
頴田君の意外な側面を知ることが出来て、私の頬は自然に緩みます。
「じゃ、じゃあ、今日も本屋に寄る?」
「いや、今日は新刊出てないだろうし」
頴田君の口調は、本当は本屋にも寄りたいのに我慢している風にも聞こえません。
だったらつまり、本当に新町には私の買い物に付き合ってくれる為だけに来てくれたのでしょうか?
「おお、バーゲンやってるやってる」
ここはショッピングモールのテナントとして入っているデパートの催事フロア。
この二松市でバーゲンといえばこのフロアしかない、というぐらいの買い物スポットです。
頴田君は軽い足取りでエスカレータから降りる。
それに比べ、私はタイミングを慎重に計らないとエスカレータを上手く降りることが出来ません。
頴田君に追いつこうと焦った所為か、私はエスカレータの降り口に足を取られて前のめりになる。
え? あっ。
そこには頴田君の手がありました。
頴田君の大きな手が、私の肩を力強く支えてくれる。
私は頴田君の腕に全身から突っ込む形で抱き寄せられる。
ああああああ、ちょ、そんな、これって?
もう頴田君、大胆!
もっと、ぎゅっと、いっぱい。
……あれ?
私を抱き寄せていたはずの頴田君の手は、いつの間にかありません。
引き寄せられた私の体は何事もなくフロアに立っていました。
頴田君もさすがに恥ずかしかったようで、急に私から距離をとってしまいました。
ううう、そりゃ私だって恥ずかしいけど、頴田君ならいつでもOKです。
「まぁなんだ……、服買うんだろ?」
取り繕うような頴田君の狼狽ぶりが、すっごく可愛い。
「か、頴田君……」
あれ? どうして頴田君の名前を呼んだのでしょうか?
こういうとき、何て言ったらいいんでしょうか?
どうやら狼狽えているのは頴田君だけではないようです。
もちろん頴田君が下心で私を抱き寄せたのでないことぐらいわかっています。
転けそうになった私を支えてくれただけなんです。
それぐらいわかってますよ!
でも、嬉しいに決まってるじゃないですか!
私の血液は頬だけに飽きたらず、頭にも上っていた。
思考が火照りで鈍っている。
嬉しい、楽しい、夢みたい。
休日に頴田君に出会って、こんなデートまがいの買い物まで出来てしまった私は夢見心地。
もしかすると本当に夢なの、って思ってしまう。
「どうかしたか、真湖?」
やっぱり夢? 頴田君の名前を呼べば、頴田君が私の名前を呼んでくれる。
これを夢と言わずになんというのでしょう?
「何、にやついてるんだ?」
頴田君が指摘するのも当然でしょう。
もう私の許容範囲をとっくに超えています。
もう何がなんだかわかりません。
「……頴田君と、……買い物出来るのが、嬉しい」
そう口にしてしまい、私自身がびっくりしました。
こんなにも素直な言葉を言えるなんて、やっぱり今日の私はおかしいです。
頴田君を前にすると何も言えない意気地なしの私とは思えません。
私の言葉に頴田君は何も言ってくれません。
無視されたというよりは、頴田君も何と答えていいか、戸惑っているのでしょう。
私もいきなりそんなことを言うつもりはありませんでした。
自分の心を素直に言葉にするつもりはなかったのに……。
「服、見てくる」
私は居たたまれなくなって、冬物バーゲンの売り場に飛び込みました。
嬉しくて恥ずかしくて、私の心臓は早鳴って止まりません。
いえ、心臓が止まってはちょっと困ります。
バーゲンらしく、デザインに大差のない服ばかりが並ぶフロア。
私以外にも多くの人が服を選んでる。
普段あまり買い物に出掛けないから、頴田君を待たしているのに服を選ぶのも時間がかかってしまう。
そもそも女の子の買い物とは時間がかかるものなのです。
それは頴田君もそれなりに覚悟してくれていたはずです。
そんな些細なこと、頴田君は全く気にしない人ですし。
私の頬は火照ったまま、冷める気配がありません。
服を選んでいるつもりでも、意識は売り場の外で一人待っている頴田君を追っている。
頴田君がそこにいるだけで私は幸せな気持ちになれるのです。
そりゃ、頴田君が側に来て一緒に服を選んでほしいとは思います。
そんなの私のわがまま。そこまで望むのは身分不相応というものです。
今はこんな距離でもいい。
いえ、今日という偶然がなければ、こんなに頴田君と一緒にいれることもなかったのです。
でも、いつかは……。
いつかは、きっと……。
ただ……、ずっと頴田の側に……。
「真湖、どうかしたか?」
頴田君の声が聞こえる。
私は握りしめていた売り物のカーディガンを手放した。
ちょっと思い詰めて、服選びが中断していたようです。
「ううん。なんでもない」
売り場の外で待っていたはずの頴田君が私の横にまで来てくれていた。
近づいてくる頴田君に気付かなかったなんて、どうしたことでしょう?
「そうか、ならいいんだけど。……それよりお前、それ全部買うのか?」
頴田君は私が左手にかけた服を指して言う。
全部といっても、コートとパンツが二本だけ。
三十パーセントオフの今日なら金銭的にも全部買うぐらい、どうってことありません。
あまり外に出かけない私なら、これにあと数着買えばこの冬を乗り切るぐら簡単です。
基本的に部屋着と学校の制服しか着ない生活をしているんだから。
「その、つもりだけど……」
「そっか。いや、なんだか黒ばっかりだなと思って」
頴田君に言われて改めて私の選んだ服を見てみると、確かに色が黒っぽい服ばかり。
別にわざとそういう色を選んだわけではありませんが、無意識に濃い色の服を手に取っていたみたいです。
頴田君は私の普段の私服を知らない。
今日、私が着ているのは比較的明るい茶色のジャケットとデニムのスカートです。
実はこれが私の持っている服の中で一番明るいコーディネイトなんです。
私の持っている服は暗い色ばかり。
性格が根暗だから暗い色ばかり着ているわけじゃありません。
それは汚れても目立たない色。
目眩で倒れても、血を吐き散らしてもいい色。
白色に血が付いたら洗濯しても落ちないんですよ。
そしてなにより、私に明るい色は似合わない。
頴田君だってそう思うでしょ?
私がピンクとかホワイトとか着てたら絶対、変。
とは言っても、普段は黒い服ばかりを買うようなことはしていません。
今日は一体どういうことでしょう?
私は咳払いするような軽い咳をする。
大丈夫。今は何かを吐き出すとか、そういう気配は全くありません。
行きしな電車で吐いたから、今はスッカラカン。もう出す物がないんです。
「真湖、お前無理してるんじゃないのか?」
頴田君は私を心配してくれる。
でも大丈夫ですよ。私、無理なんかしていません。
今は体調も落ち着いてるんです。
「真湖!」
頴田君の強い口調の声。
私はびっくりして、手にかけていた服を落としてしまう。
服を拾おうと伸ばした手が急に止まる。
頴田君が私の手首を掴んだのです。
え? あれ? あっ……。
「真湖」
頴田君が私の顔を見据えます。
ちょっと何? あれ? 頴田君?
え? え? えぇぇぇー?
頴田君、大胆過ぎです!
こんな公衆の面前で、私……。
やだ、ちょっと。そんなまだ早い……。
私は頴田君を直視出来なくなって顔を背ける。
その私の顔を追うように頴田君が手を伸ばした。
頴田君の冷たい手が私の額に当てられる。
気持ちいい。
頴田君の手が冷たくて、とっても気持ちいい。
「お前、やっぱり熱あるじゃないか」
へ? 頴田君何を言っているんです?
私の顔が熱いのは頴田君に見つめられて紅潮しているからですよ。
「三十七度は超えてるぞ!」
「そ、そ、そんなはずないよ……。私の平熱、六度ないぐらいだから……」
「だったら余計だろ! ……帰るぞ」
頴田君は私の手首を掴んだままだった手で、無理矢理私を売り場から連れだそうとする。
なんで? どうして?
頴田君、どうしてそんなこと言うの?
私、もっと頴田君といたい。
もっと一緒にいたいよ。帰りたくなんかない……。
「頴田君、痛い!」
私が言うと、頴田君は慌てて私の手首を放してくれる。
おかしいよ、頴田君。頴田君はそんな人じゃない。
たとえ私が本当に熱を出してたって、私を無理矢理家に連れ帰るなんて真似するはずない。
頴田君が私の意思を無視して強制するなんて、そんなはずない。
そんなの頴田君じゃない!
「……やだ。まだ……帰らない」
私は自分の気持ちを絞り出すように言葉にする。
それを聞いて頴田君が困った顔をする。
頴田君が困ってる。
私が頴田君を困らせた。
私がわがままを言っている。
そんなのわかってる。
けど、だけど……。
「まだ……。買い物、終わって、ない……」
私の声は震えていた。
私の瞳は水分が増している。
だめ、このままじゃ泣いちゃう。
今泣いたら頴田君を更に困らせる。
それもわかってる。
その私の顔を見た頴田君は深い息を一つ吐いた。
「これ、買うんだろ」
頴田君はやさしい声を出して、私が落とした服を拾ってくれた。
「レジ行くぞ」
頴田君は私を見据えていた。
頴田君の目は私を真っ正面に見据えていた。
私はその瞳から逃げられない。
「やだ。まだ……」
私は頴田君にすねた言葉しか返せない。
頴田君のストレートな言葉に、私はどこかに隠れたくなる。
そんな私の情けない性根が恥ずかしい。
「…………やるから」
え? 頴田君が珍しく、ぼそぼそとした声で言った。
何て言ったのか聞き取れなかった。
頴田君らしくない態度に私の方が戸惑ってしまう。
「買い物ぐらい、また来てやるから」
頴田君は少し躊躇してから、今度ははっきりと言ってくれる。
うわわ。本当ですか?
本当にまた一緒に買い物に来てくれるんですか?
本当ですよね?
嘘じゃないですよね?
頴田君。頴田君。頴田君。頴田君!
「だから、今日はもう帰るぞ」
もう私は「帰りたくない」なんて言いません。
いえいえ、是が非でも今日は帰らないといけません。
早急に帰るのがまた買い物に付き合ってもらう条件なら、最速迅速で帰らなければいけません。
私達はレジを済ませると、まっすぐ駅に向かい帰りの電車に乗った。
頴田君は私を家まで送ってくれました。
家の方向も全然違うのに送ってくれました。
その間、私はずっと黙ったままだった。
頴田君の指摘通り、私は熱があったのでしょう。
私は家に帰りつくまで、ぼーっとして意識がはっきりしていませんでした。
でも、そんなことは些細なことで、私が黙ったままだったのは幸せだったからです。
頴田君が側にいてくれて、また一緒に買い物に行ってくれると言うんです。
私の顔は、ずっとにやけ笑い。
私に「大丈夫」と声をかけてくれる人はたくさんいます。
でも、休日にたまたま会っただけで買い物に付き合ってくれて、あまつさえ家まで送ってくれる人はなかなかいない。
頴田君は奇特な人です。
頴田君は特別な人。
私だけの特別な人。
そんな頴田君と一緒にいれて、私は幸せ者です。