2

 ふふふ。今日は休日。
 今、私は頴田君のお宅の直ぐ側まで来ているんです。
 ええ、私は頴田君のお宅を知っているんですとも。

 学生の住所なんて、学校の名簿を手に入れれば何の苦労もなく判明してしまうのは、
 少々味気ないと思います。
 ですが、こうして頴田君のお宅を拝見出来るのです。今はその恩恵に感謝します。

 それに頴田なんて珍しい名字です。
 学校で名簿を入手しなくても電話帳からだって見付かったでしょう。
 更に言えば、頴田君本人に年賀状を出すからと聞けば、素直に教えてくれるに違いありません。
 もう師走に入って三日目、そろそろそういう時期になってしまいました。

 今は特定の彼女がいないはずの頴田君も、このクリスマス前という季節がらです。
 いつ彼女が出来たって不思議ではありません。
 これはやはり、うかうかしていられません。
 何としても頴田君に思いを伝えて、私が頴田君の彼女となるのです。

 私は無理矢理に出す空元気を楽しんでいる。
 このところ体調も安定している。
 事が私の体です。もちろん予断は許さないでしょうが、私の心は青信号を灯している。

 やれるときにやる。それが私の方針。私の生き方。
 いつ体調が急変するかもしれない私は、予定を先送りになんて絶対しない。
 出来ることを出来るときに出来るだけやる。
 そうしないと、病院送りになったとき絶対に後悔する。
 私は後悔するのが大っ嫌い。なのによく後悔させられる。
 後悔ばかりの人生で終わるなんて絶対に、絶対に嫌っ。

 頴田君のお宅は霧ヶ屋から砂狭川〈ささがわ〉を南に越えた前岡ニュータウンにあります。
 私の住む霧ヶ屋に比べ、ニュータウンの名の通り比較的新しい町。
 市営住宅などの団地が多い地区なのに、頴田君の家は庭付き一戸建てなんです。
 頴田君の家はお金持ちなのでしょうか?

 そういえば頴田君のご両親のお話を聞いたことがありません。
 頴田君は自分のことをあまり話したがらない人です。
 でもでも、住所と自宅を入手したように、どんどん頴田君を知っていくことが出来る。
 何て喜ばしいことなんでしょうか。

 そんな未来を想像して幸せな気持ちになる。
 それも今の私に出来ることの一つ。
 そして、今日は学校が休みなのに頴田君に会っちゃう。

 ふふふふふ、なかなか私もお馬鹿さんです。
 こんな楽しいことを今までしなかったなんて。

 私は今日までの無力さを反省し、そして今日からの幸いに感謝します。

 さぁ、頴田君に会いましょう。

 ……ありゃ?
 そ、そういえば、頴田君の家に来たのはいいのですが、これからどうしましょう?
 もちろん頴田君に今日伺うなんて言っているわけでもなく、頴田君の今日の予定も知りません。
 何せ、今頴田君がご在宅なのかすら知らないわけで、そんな私にどうせよというのでしょうか?

「まずは、頴田君がいるかどうか確かめないと」

 寒いのが苦手な私は、太陽が十分に上がるのを待ってから家を出ました。
 だから、もうお昼を過ぎている。
 何か予定があるならば、頴田君が既に出かけた可能性もあり得るわけで、とにかく確認しないことには始まりません。

 で、どうやって確認すればいいのでしょうか?
 外から見た限り頴田君のお宅に電灯も点いていません。

 頴田君も携帯電話を持っているはずですが、残念ながら私は頴田君の携帯番号を知りません。
 クラスの男子に探りを入れたことはありますが、頴田君は秘密主義らしく、
 その男子も頴田君の携帯番号を知りませんでした。
 まさか何人にも聞いて回るわけにもいかず、頴田君の携帯番号入手作戦は現在凍結中です。

 とりあえず、私は頴田君の家の周りご近所を一週することにした。
 閑静な住宅街。休日のお昼なら遊びに出るお子様達を見かけそうなものですが、人っ子一人いません。

 ニュータウンの中でも頴田君の家がある地区は初期に開発された場所らしく、
 ニューとなったのは三十年ほど前と聞きます。
 住んでいる人は既にオウルドな人達ばかり。
 はっきり言うとニュータウンの一角なくせに過疎化が始まっているのです。

 それは前岡ニュータウンに限った話ではなく、この辺り一体の切ない事情。
 何せ、私の両親が「空気が綺麗」との理由から移住して来た町なんです。
 あんまり都市化されると私が困ります。

 まぁ、そんな市役所のお歴々が抱える頭痛の種は今の私には好都合。
 人に邪魔されることなく頴田君のお宅を拝見することが出来るのですから。

 頴田君のお宅は角地一戸建て、敷地も結構広い。
 何より目につくのは門が大きいという特徴です。
 もしや、本当に頴田君は金持ちのお坊ちゃんなんでしょうか?
 確かに頴田君のあの垢抜けた面持ちは上流階級の気品を感じます。

 う〜ん、やっぱり外から見るだけじゃ、中の様子なんて……、
 そうです。こんな時は電気メーターです。

 ふふふ、私って頭冴えてます。電気の使用量を見れば一目瞭然じゃありませんか!

 えっと、電気メーターなら、確かさっき見かけたような……。

 私の記憶通り、頴田君ちの電気メーターは角地からせり出すように高い壁の上に設置されていた。
 身長の低い私でも背伸びをすれば何とか見える位置にありました。

 ギザギザの付いた円盤がゆっくりと回るその姿はどんなお宅でも代わり映えすることもなく……。

 わ、わかりません。
 現在のメーターの数値は読みとれても、ゆっくり回る電気メーターでは、家に人がいるかどうか微妙なところ。
 電気で動く暖房機器を使っていないことは分かっても、布団にくるまってるとか、ガス暖房を使っているなら、
 こんな昼間っから大量に電気を使うこともなく、電気メーターはゆっくり回るはずです。

 第一、私は頴田君ちの普段の電気使用量を知らないじゃないですか!
 外出時と在宅時の電気メーターの比較でもしなきゃ、こんなのわかんないですよ!

 名探偵・真湖の名案は不発に終わりました。

 実は私、一番簡単な方法を知っているのです。
 馬鹿正直に正面からインターホンを押せばいいだけの話。
 ホント簡単なことなんです。

 でも、実行するのは私です。簡単なわけがありません。

 インターホンを押して頴田君が出たらどうするんですか!
 頴田君といきなりお話をするなんて、そんなこと私が出来るはずがありません。
 先日、一緒に買い物をしてもらった時は成り行きというものがありました。
 それで結局は頴田君から話をしてもらってばかりだったのです。
 普段、学校で話をする時も緊張してうまく喋れない私が、頴田君の家に押しかけて話をするなんて、
 出来るはずがないじゃないですか!

 なんだか今日の目的と激しく矛盾している気がするのは自覚しています。
 でも、私が頴田君にいきなり会うなんて大それたことを出来るはずがなく、
 そんな私に頴田君ちのインターホンを押せというのですか?

 いや、ちょっと待ってください。
 何も頴田君ちのインターホンを押せば頴田君が出るとは限りません。
 例えば頴田君のお母様が……。

 お、お母様? 頴田君のお母様?

 え? え? ええぇぇぇ!

 頴田君のお母様と会うんですか!
 それこそ一体何をどう話せばいいんですか?
 『頴田君を私にください』なんて……。

 うひゃ! そんな未来のお姑様への宣戦布告、言えるはずがありません。

 でもでも、それが、それが出来れば……、私の、私の望みが……。

 うふ、うふふふふうぶ。

 うお、鼻血が出てきました。

 興奮して鼻血を出すなんて、まるで漫画みたいじゃないですか。

 私は慣れた手つきで鼻にティッシュを詰める。
 最近は吐血が多いですが、鼻血だって常人の数倍は経験している私にとって、
 鼻血の応急処置など目をつむってだって行えます。
 何せ鼻に詰めるだけですから。

 赤みがティッシュを伝って広がりをみせる。
 相変わらず色の薄い血です。
 重度の貧血である私は鼻血もまともに出せないのでしょうか?

 まぁそれはともかく、こんなところでウジウジと悩んでたって何も解決しないわけで、どうしたものでしょう。

 いくら思案したところで選択肢が増えるでもなく、
 やはりインターホンを押さないことには頴田君にコンタクトを取る方法はありません。

 私は意を決してインターホンに向かいます。

 ぐぅ。
 ちょっとちょっと、カメラ付きのタイプじゃないですか!
 インターホンですら姿を見られるってことですか!
 そ、そんな、こ、心の準備が……。

 どうしよう。
 どうしたらいいの?
 インターホンに誰が出てくるの?
 頴田君? それともご家族?
 私はなんて言えばいいんだろう?
 今日は何の為に来たって言えばいいんだろう?

 どうしよ。どうしよ。本当にこのインターホンを押していいの?
 男の子の家に突然押しかけてくる女の子を、ご家族はどう思うんだろう?
 頴田君は会ってくれるのかな?
 私なんて頴田君に会いに来る資格あるの?

 私は、私は……。

 自分でもわからない。自分だからわからない。
 私は頴田君の何?
 友達? 知り合い? クラスメイト?

 私には頴田君の側にいる価値はない。それはわかってる。
 だから、私がここに来ているのは私のわがまま。私の勝手。私の都合。
 私はそれを頴田君に押しつけようとしている。

 それは許されるの?
 頴田君の優しさに甘えているだけの私に許されることなの?
 頴田君は保健委員だから仕方がなく付き添っていただけなんだよ。
 本当は私のことを煩わしく思って……。

 そんな私の想像は私の胸を締め付ける。
 私の嫌いな私の後ろ向き。
 それが私の本来の姿。私の醜い姿。

 くく、くくくくくくくくくくく……。

 私の失笑。
 そこまでわかっているのに頴田君を求める私。
 なんて可哀想な子なんでしょう。最低の女っ。

 インターホンに伸ばそうとしていた手を私は止める。
 違う。それ以上、手を伸ばせなかった。
 緊張で震えているわけでもない。

 突然に訪れた虚無感。
 私は気付いたのです。
 このボタンを押してしまえば、もう帰って来れないことに。

 この頴田君を想って未来に夢馳せて、年頃の乙女を演じて慟哭する。
 そんな心地よい時間にはもう帰って来れないことを。

 覚悟した。決意した。
 頴田君に告白するって、後悔しないって。

 だから手紙も書いた。今日も頴田君に会いに来た。

 でも、それでも、このボタンを押したらもう帰れない。
 そんな幸せな時間には帰れない。結果がどうあれ結論が出てしまう。
 現状を失うことに気付いた私は、急に熱意を失った。

 別に未来を求めず、生ぬるい今を享受した方が、私は幸せなんじゃないの?
 そんな疑問が頭を過ぎる。そんな甘い囁きに気付いてしまう。

 あああああああああっ。

 私は! 私はなんてことを!

 なんて、愚かで、魅惑的で、救いのない!

 私の心は叫んでいた。
 言葉にならない喘ぎ。

 自分が自分を信じられない。
 そんなことを僅かでも考えてしまった自分自身を、私は許せなかった。

 肺から言葉にならない息を吐き出して、私は泣きそうになる。

 悔しい。私に自信を持てない私。
 悔しすぎる。

 胸を張って頴田君会いたい。
 ただ会いたいだけなんだよ。
 なのに、なのに、なのに!

 言葉を吐き捨てる代わりに私は咳き込む。
 私の中の穢れた思いを吐き捨てるように、私は口からは血が滴り落ちる。

 こんな血を流したって、私の卑しい心は汚いままだ。
 不浄な血を流せば、病が治るなんてどこぞの東洋医術も私の体には通じない。
 いくら血を吐き出しても私の体は病弱なまま。私の心は病んだまま。

 次々と喉を駆け上がる液体を私は止めることが出来ない。

 赤黒い液体は私の手を染め上げ、地を彩る。

 ちょっ、ダメ! ここはダメ! ここは頴田君の家の前じゃない。
 こんな場所を私の吐血で汚すなんて絶対ダメ!

 私の思いとは裏腹に、足下には立派な血溜まりが出来上がる。

 なんで、なんでこんな時に私は血を吐くの?

 頴田君の家の前で血を垂れ流す私を頴田君は許してくれるの?
 いつも通り優しく許してくれるの?

 頴田君なら許してくれる。
 そう思いたい。
 それが私の幻想と知っていても、私はそう願いたい。

 だけどね。現実は残酷なんだよ。
 私、知ってるもん。この世の中が一番、無情で、不条理で、不平等で、狂おしいほど残酷なんだって。

 ダメ、やっぱり私、頴田君に会えない。

 頴田君、また学校で会おうね。
 学校で病弱な女の子と保健委員として。
 ……だから、また優しくしてください。

 今は頴田君に会えない。
 私はそう結論付けた。
 悲しいけど、それが今の私だった。

 私はハンカチを取り出し、懸命に血溜まりを拭き始める。
 両膝を地面にすりつけゴシゴシと。

 床拭きなんて何年ぶりでしょう。
 学校の掃除では、私は負荷の軽い箒ぐらいしか持たせてもらえません。
 それは家でも同じこと。
 だから、まさか野外で床拭きの真似事をするとは思っていなかった。

 しかし、いくら拭いても陶器地のタイルに染みこんだ血は跡を残してしまう。
 それでも拭かないよりはましでしょう。

 『覆水盆に返らず』と言います。
 この場合『吐血体に返らず』でしょうか。
 ……あんまり面白みのない冗談。
 もし吐いた血が口に戻ってくるのなら、想像するだけでお腹いっぱいです。
 とにかく、これ以上は拭いても血は落ちそうにありません。

 はぁ。早くここを立ち去らなきゃ。
 頴田君の家の前、それもインターホン前という絶妙な場所で血を吐き散らしたなんてバレたら末代までの恥です。

 既に私の服は裾や袖口、パンツに至るまで赤黒い染みが広がっていた。
 折角、今日は頴田君と一緒に買った服を着て来たのに。頴田君との思い出の品なのに。

 私は血に汚れたハンカチを手に立ち上がった。

 瞬間、私の脳裏に白いイメージが湧き上がる。
 膝に力が入らず、千鳥足によろけてしまう。

 典型的な立ち眩み。
 そりゃ、血を吐いて、四つん這いになった後、急に立ち上がれば立ち眩みになるのも当然。
 何せ私の体なんだから。

 壁に手を付いて体を支えて深く呼吸する。
 こんなのはいつものこと。
 一、二回肺に空気を送り込めば立ち眩みなんて……。

 呼吸により薄れていた意識が急激に戻ると、聞き慣れた電子音が耳を掠める。

 電子音。
 そう、これはどこにでもある聞き慣れたインターホンの音。
 私が押したインターホンの音。

 ……えっと、あの。
 つまりは壁に手をついたと思ったらインターホンに手が当たってたとか、そんなベタなことしてますか、私?

 ははは、ちょっと、どうするんですか、これ。
 私馬鹿丸出しじゃないですか!

 私は直ぐに一つのことに思い当たる。
 咄嗟に壁につこうとした手がどういう状態だったのかを。

 うおお! なんですと〜!
 インターホンに血の手形が付いているじゃないですか!

 私は直ぐにハンカチでインターホンを拭く。

 ぴんぽ〜ん。

 再び電子音。非常にお間抜けな話です。
 でも、慌てた私は、早くインターホンの血を拭ってしまおうと繰り返しハンカチを往復させる。

 ぴぽ、ぴぽ、ぴぽ、ぴんぽ〜ん。

 うおおおお!
 私ってマジで馬鹿ですか!
 インターホンを連打してどうするんです!

「は〜い」

 ……え?

 女性の声。
 結構若い女性の声です。
 もちろん声を発したのは目の前のインターホンなる器械。

 も、もしや、頴田君のお母様!
 うわ、ちょっと待ってください!
 ああああ、えっと、だからですね。私は今帰ろうとですね。

 うああああああぁ、そうです。
 このインターホン、カメラ付きです!
 私、血を吐いて服も汚してて、しかもさっきの鼻血で詰めたティッシュが鼻から出てるんです。

 私は脱兎の如く逃げる。

 走るウサギなんて見たことないけど、そんな感じ。だって慣用句だもん。

 どこをどう逃げたのかは覚えていない。
 普段来ることのない前岡ニュータウンで、普段走ることのない私が懸命に走る。
 息も絶え絶え。ティッシュを鼻に詰めたままだから、口で苦しい息をするしかない。
 途中咳き込んで、また何か吐いた気もしますが、
 動転した私はわけのわからないまま、知らない公園に駆け込んでいた。

 ふらふらの私は全身で息をする。
 限界まで脈打つ心臓は一向に収まる気配はない。

 放射冷却の激しい晴天の空の下、私は乱れた髪を払い、天に向かう。
 自分の呼吸音しか聞こえぬ世界。あるのは脇腹と胸の痛みだけ。

 ほんと笑えます。
 私は一体何をしてるのでしょう。

 意気込んで頴田君ちに行ってみれば、結局インターホンを鳴らして逃げて来ただけ。
 これが世に言うピンポンダッシュでしょうか?

 ふふふ。
 当然のことながら、そんな元気なお子様のする遊戯を私はしたことがありません。
 高校生になって好きな人の家でそんなことをするなんて、思ってもみませんでした。

 まったく。生きていれば色んな体験をするものです……。
 だからこそ、私は死ぬのが嫌だ。死ぬのが恐い。

 頴田君。私はもっと生きたいです。

 もっともっと生きて、色んなことをして、泣いたり、笑ったり……そして、恋をしたり。

 そんなこと考えるのはダメですか?
 血を吐き散らす私が、そんなこと考えちゃダメなんですか?

 頴田君、頴田君、頴田君……。

 私の荒れた息は、いつの間にか泣きじゃくるおえつに変わっていた。





第四章の3へ   トップに戻る