第六章 深隠純一

   *

 私は悩んでいた。珍しくすっごく悩んでいた。

 悩むなんて後ろ向きなことが大っ嫌いな私だけど、さすがにお金の問題は悩まざるを得ない。OLの私は、もちろんそれほど給料は高くない。ちょっと先週に大きく使っちゃって、今月の予算が尽きかけている。

「どうしよ恋歌。おかずが一品減っちゃうよ!」

「預金を下ろしたらどうです?」

 私の悲痛な叫びに、九段坂恋歌は冷静な返答をする。

 それは週末のお昼。昼食はなんとか残り物の材料で乗り切りはしたが、さて、夕食からはどしよう。そんな何気ない悩みが頭を浮かぶ八月のある日のことだった。

「預金は貯えるから預金というのです。出したら宵越しの金になっちゃうでしょ」

 私にまとまったお金を渡したら、綺麗さっぱりでスッキリしてしまう。これ、既に実証済み。

「それはあなただけでしょうに。それに預金は預けるから預金であって、貯えたお金は貯金じゃないですか」

「そこ! 屁理屈言わない!」

 どうやら、いつも大人びた言葉使いをする恋歌でも、貯金と預金の違いはわかってないらしい。えっと、どっちが貯金で、どっちが預金だっけ? ……私もわかってないや。

「屁理屈って、その言葉はいつものあなたにそっくり返してあげるにはどうしたらいいですか?」

「う〜む。基本は録音レコーダ?」

 ちょっと基本過ぎた。

「じゃあ私はインコに覚えさせるに一票です」

「それだぁ! 恋歌、あったまいい〜」

 それマジで名案。なかなか面白そう!

「それほどでもありますけど。あなた、インコ飼えるんですか?」

「ムリっ!」

「その心は?」

「家にいたら焼き鳥にしそう」

 インコって美味しいのかな? 想像してみるけど骨張ってて美味しくなさそう。

「よくもぬけぬけと、動物愛護団体を敵に回しますね」

 恋歌の言うことはごもっとも。全国のインコを飼っている人。石投げないで!

「だから飼ってないじゃん。うちは家出少女で手一杯なんだから」

「ほんと、一人増えたらどれだけ負担になるか、わかってるのかしらね」

「こらこら、家出少女が何を言う」

「悠々自適な独り暮らしのOLがどこの馬の骨ともわからない美少女を扶養したときの独り言です」

 誰が美少女だって? そりゃ恋歌は可愛いけど、美少女は自分を美少女とは言わないんだよ〜。

「それで、お金足りないの?」

 急に本題に戻る恋歌。それで話についていけないようでは女性じゃない。女のお喋りは神出鬼没、どこでだって話題が始まるものだ。

「ないこともないんだけど。支払う宛てがあるというかなんというか」

「あら? あなたいつの間にカード地獄になったんです? でも大丈夫です。もし取立て屋が来ても、『お姉ちゃんはどこに行ったかわかりません。いつ帰ってくるかもわかりません。連絡先もわかりません』と、生まれたての子鹿のように震えて言っておきますから、早く逃げてください」

 実際に恋歌は小動物チックにぷるぷると震えて見せる。可哀想というより可愛いぞ、こら!

「誰が借金踏み倒して逃げるって? 人聞きの悪い。私が踏み倒すのは飲み屋のツケだけです」

「それ同じだね☆」

「気分的に違うだよ、気分的に」

 私の言い訳に、恋歌は目を細めて白い目を向ける。くそ〜、恋歌にくせに、私を憐れむな!

「もう、あなたがいい加減なのは言動だけかと思ってましたけど、お金にもルーズだったなんて、同居人として恥ずかしいです」

「いや、別に恋歌に恥ずかしがられても……」

 言っておくけど私は時間にもルーズだぞぉ♪

「結局、何にお金を使ったんです?」

「え? え〜 あ〜 そのね。あれだよあれ」

 う〜ん。なんて言って誤魔化そう。自分から話題を振っておいてあれなんだけど。この件について、恋歌には秘密だった。

 その後、私は持てる話術のすべてを駆使して恋歌をたぶらかすと、部屋を抜け出して街に出かけた。挙動不審に急いで出たので、恋歌は相当怪しんでいたみたい。恋歌のことだから、もしかして私を尾行して来るかとも思ったけど、その様子はなかった。

 この夏の暑い盛り、昼に路上を歩き回るのもなんだから、私はそそくさとある街ビルへと入っていった。そのビルに、私がお金を支払う予定がある場所があるのだ。

「こんにちは〜」

 私の明るい挨拶に返事は聞こえてこない。

 そこは薄暗い町ビルの一室。事務所にしては手狭い部屋のあちこちに書類が散乱して非常に汚い。実に汚い。あっ、ゴッキー。

 でも、私の部屋の押入よりマシかも。あれはカオスだし……。

「すいませ〜ん。誰もいないんですか〜?」

 う〜ん。なんとなく人の気配はするんだけどなぁ。私はまだ修業してないから『気』とか読めないや。気配とか察知する機器とかあると便利なんだけどね。でもそれって直ぐ壊れそうな予感。

 どうにも返事がないので、業を煮やした私はツカツカと事務所の奥へと入って行った。

「え〜。本当はホームズに憧れて探偵になったのはいいけど、殺人事件がらみの依頼なんて一件もなくて、浮気調査ばかりして人の私生活ばかりを覗き見ている人生負け組の深隠純一(みかくれ・じゅんいち)さ〜ん。いらっしゃいましたら耳を揃えて出てきやがれ!」

「悪かったな、負け組で……」

 事務所の奥にあるデスクの下から、人影がのそりと現れた。あきらかに寝起きのようで、パーマが入っているぼさぼさの髪が爆発している。

「あっ、深隠さん。そんなマスターアップ直前のゲームクリエイターみたいな場所で寝ていたら、身体壊しますよ」

 ここぞとばかりに不機嫌な顔をした男性。申し訳程度に背広姿をしているが、袖なんかくたくたで、紳士のイメージなんて全然ない。

「もうとっくにガタきてんよ、俺の身体は……。それで何だ、さっきのまるで人をダメ人間にみたいに言うアナウンスもどきは……」

「夢があるっていいよね☆。……夢見るだけなら」

「ぼそりと棘があること言うな……。お前さん、依頼人じゃなかったらぶん殴ってるぞ」

 お? 私に対してそんなことを言うなんて、なかなか元気があってよろしい。

「脅迫罪成立。警察行ってきます」

「行くのは勝手だが、お前さん、調査の進み具合を聞きに来たんじゃないのか?」

 そう、そうでした。私はこの深隠探偵事務所に仕事をお願いしたのでした。その探偵本人をいじくって遊ぶのは、ほどほどにしないとね。

 会いに来た人物がいたので、私は勧められるまでもなく来客用の椅子につく。ふふふ、お客様だぞ、早くもてなすのだ。

 仕方がない。そう思っているのか、嫌々ながらのゆっくりとした動きで深隠さんは接客の準備をし始めた。そして目の前に運ばれてくるカップコーヒー。立ち上がった湯気が芳ばしい香りを広げていく。湿気た事務所の雰囲気は爽やかに書き変わる。

 インスタントとはいえ、香ばしい香りはそれだけで気分も明るくなるってもの。それで、こんな真夏にホットコーヒーとはどんな嫌がらせだい、深隠さん?

「で、どうでした?」

 応接机を挟んで座る私と深隠探偵。私は率直に調査状況を聞いた。深隠さんは澄ました顔でコーヒーをかき回す。

「まだ調査期間は一週間残っているからな」

「で、どうでした?」

「まだ調査期間は一週間残っているから……」

「ど・う・で・し・た?」

「まだ……、見つかってない……」

 そんな蚊の鳴くような声で言われると、まるで私がいじめてるみたいじゃない!

「それならそうと、素直に言えばいいのに」

「こっちにだって、体裁ぐらいある」

「そんな一文にもならないプライドにしがみつかれても。これだから探偵ってダメなのよね」

「探偵にも人権ぐらい認めてくれ……」

「私、人権派じゃないから。どちらかというと前衛派?」

「俺はてっきり武闘派かと……」

「何か言った?」

「何も……」

 私の地獄イアーにはちゃんと聞こえてたけど、そう言うのなら大目に見てしんぜよう。ほら、私って激優しいから。

「でも一週間あったし、少し手がかりとか見つかってないの?」

 私の問いに、深隠純一は首を横に振った。

「それでもな、この八月の暑い盛りにあっちこっち訪ね歩いたんだよ」

「それは無駄足ご苦労様です」

「はっきり言うな、お前さん」

「世の中にははっきり言わないと空気読めない人が多いですから」

「それ誰のことだよ……。俺じゃないよな?」

「はい、たぶん。でも私、深隠さんのことよく知らないから、本当は痛い子かもしれませんけどね」

「よく知らない人物を、よくそこまで言えるな……」

「はい。性分ですから♪」

 私のにこやかな言葉に、深隠さんは溜息で返事した。そうして自らに入れたコーヒーをすすると、仕切り直したという風に改まった声を出す。

「中間報告がてらに詳しく言っておくと、依頼の『九段坂恋歌という少女の身元』は何もわからなかった」

 それのどこが詳しい。とツッコミを入れた方がいいのかな?

 そう。私は探偵・深隠純一氏に、家出少女の実家を探してもらっているのだ。もちろん恋歌にはナイショ。

「家出をしている可能性があるってから、全国の警察にもあたったが、そんな捜索願も出されてねぇし……」

 ありゃ? 捜索願出てないの? 恋歌、親から捨てられちゃった? ウソ。それほんとダメだよ。恋歌はもう五ヶ月も私ん家にいるんだよ。どうして捜索願出てないの? 子供を見捨てるなんてカッコワルイ!

「九段坂って珍しい名字だから、そっち関係からも調べたが、恋歌なんて更に変な名前の女はいやしねぇ。だいたい、名前だけで顔写真一つないなんて、どうしろってんだよ」

 さすがに深隠さん相手に、恋歌がウチにいるなんて言えないから、名前だけで恋歌の身元を探してもらっている。そこはやはりプロ探偵で、どうして私が九段坂恋歌なる人物の身元を探しているのか、深隠さんは聞くことはなかった。

「それを探すのが探偵でしょ? た・ん・て・い」

「そう言われるとつらい……」

 いやいや、本当に落ち込むなよ。それは探偵として間違ってるぞ☆

「もう、迷探偵ならこれぐらいの依頼は、ぱぱぱぱ〜っと、こなさなきゃ」

「ん? 今何か変なこと言わなかったか?」

「なになに? 気のせいじゃない?」

 意外と鋭いな。曲がりなりにも探偵ってことかな?

「ともかく、もう少し時間をくれ。元から調査期間は二週間という契約でもあるし、あと一週間で更に調べは進める」

「それは別にいいんだけど、元々急いでないし」

 もう恋歌が来て五ヶ月もたっているんだ。今更急いでも意味ないし。でも、約束の期日の半分がたっているのに、何の手がかりも見つかっていないのはちょっとね。

「じゃあ、今日はどうして来たんだ? 調査の催促じゃないのか?」

 あれ? 今日来た目的って何だっけ? え〜 あ〜 い〜 う〜 おぉ! そうだ! 思い出した!

「それはね……、えっと何て言うか……、依頼料って成功報酬じゃないよね?」

「それは契約時に確認しただろ? 調査結果いかんに関わらず定額という話のはずだが?」

「そうなんだけどね」

「まさか、払えないとか……」

 探偵じゃなくても簡単に行き着く答えを導き出したのか、深隠さんが恐る恐るに聞いた。

「はっはっは。そんなまさか。……一ヶ月待って下さい♪」

「待てるかボケ!」

「そこをなんとか!」

「こちとらそれで飯食ってるんだよ! 金払ってもらわないと、こっちは死活問題なんだよ!」

 深隠純一の言うことはもっともなもので。私だって始めっから踏み倒そうとか、滞納しようとか考えてた訳じゃない。でも実際問題、お金がないのです。

「そだよね。この探偵事務所暇そうだし」

「……」

「否定しないの?」

「出来るか! このボケナス!」

 赤貧(と勝手に決めてみる)探偵の荒々しい声。で、誰がボケナスだって!

「ん? ボケナス? ボケナス、ボケナス、ボケナス、ボケーナス、ボケーナス、ボーナス? おぉ! 今月ボーナスだ! 忘れてた」

 はっはっは、と私は軽く笑ってみせる。

 そうだ、今月は八月だからボーナス出るんだ。これでお金払えるぞ。よかったよかった。

 お金がちゃんと支払えってもらえてうれしいはずの深隠さん。しかし彼はこめかみに青筋立てて怒ってらっしゃる。どうしたんだろ?

「そっかー。今月は夏のボーナスだ。うん、完全に忘れてたから、なんか臨時収入みたいで嬉しい☆」

「お客様。問題は解決なさいましたか?」

 深隠さんの慇懃な言葉に、私はVサイン。そこをポカリと殴られた。

「痛い! クライアントの頭を叩くとは何事でござる!」

「そんなくだらない用事で、俺の眠りを妨げたのか?」

 あれ? 本当にデスクの下で寝てたの? こんな週末の昼の日中に、まるで理系大学の研究生みたいな生活だね。

「こんな昼間っから寝ている方が悪い。この社会不適合者っ!」

「お前さん。客じゃなかったら殴ってるぞ!」

「さっき叩いた! 叩いたよ!」

「自業自得だ」

「私は日頃からカルマは積んでます!」

 何せ家出少女の面倒を見ているぐらいです。私の日頃の行いは花マルバツグンなんです! それを毎日悪事を働いているみたいに言うとは何事っ!

「ああ、もういい! そっちに用がないなら帰ってくれ。依頼はあと一週間ちゃんと続けるから」
「ホントにちゃんと調べてるの? さっきの聞いた話だと信じらんないなー。そんなに九段坂恋歌の家、見つかりそうにないの?」

「信じられないと言われても……。元々、九段坂っていう地名は古い街に結構あるもんだ。地名ってのは名字に使われやすいのはわかるよな?」

 私は無言でうなずく。私の名字はご先祖様の役職が由来らしいけど、地名や住んでいた場所の特徴を名字として採用したって話は聞いたことがある。

「九段坂って地名で一番有名なのが市谷から神田にかけてあるあの九段坂だが、よくよく調べると全国各地にもある……」

「へ〜」

 なんか話がトリビアな方面にいっちゃった。私、そういう豆知識なトリビアって苦手なんだよね。私の口から出るトリビアって、本当に『くだらない話』だから。

「それでも九段坂って名字は珍しい。あまりありがたい名前じゃないからなんだが……」

「そなんだ?」

 珍しいのはなんとなくわかるけど、ありがたくないとか言ったら、全国の九段坂さんを敵に回すぞ、探偵さん。

「そもそも『坂』ってのは異界への入り口と信じられてきた……」

 ふへ? いきなり何言い出すんだこの探偵は?

「異界? オカルトワールドってこと? そんなの聞いたことないけど?」

「最もわかりやすい例をあげると、黄泉平坂(よもつひらさか)とかだな」

「ヨモギ平社員?」

「無理に聞き違えんでいい……」

「は〜い」

 私の明るい返事が、すさんだ探偵事務所にむなしく響いた。

「『坂』ってのは『物事の境界』って考えられてきた。坂が神隠しスポットになるって話も、昔は結構多かったんだ。坂を越えると帰って来れなくなると」

「はぁ」

 なんだか話が妙な方向に行っちゃって、私は気のない相づちを打つ。なのに深隠探偵はそういう蘊蓄(うんちく)を話すのが好きなのか、急に目が生き生きし始めた。

「そこに『九』なんて字がついたらありがたくないだろ」

「それはわかるわ。『九』は『苦』だからでしょ!」

「そういう言葉遊びは……、ないことはないか。『九』ってのは、純粋に9という数量以外に、『数が多い』『奥深い』って意味があるんだ。つまり、『九段坂』ってのは単純に『九つの段状になった坂』って意味以外に『とても坂が多い』『非常に深い坂』ともとれる。現代人ならともかく、迷信や慣習を重んじていた昔の人が異界に近づいてしまう縁起でもない言葉を自分の名前にしたくなかったんだろうな……。おかげさまで九段坂は、珍しい名字となったわけだ」

 それを言ったら大坂はどうなる? 大坂人に謝れ! ついでにビリケン様にも謝れ!

「で、その珍しい名字の九段坂恋歌の家を探すのにどうして手間取ってるのよ? 珍しい方が見つけやすいでしょ。そんなオカルトチックなことは調べてるのに」

 私の指摘に深隠さんがバツが悪そうに黙り込んだ。

「ちょっと、なんとか言いなさいよ!」

「事前情報が少ないからだろ……。名前しかわからないなんて……」

「他にも言ったでしょ。女の子で恐らく小学生か中学生。最近家出をしている可能性あり、って」

「それでも日本は広い……」

 そりゃ日本全国の可能性はあるけど、そういう場合はまず手近な所から探すもんでしょ?

「それならロードローラーだぁ! しらみみたいに潰しやっちゃって」

「それは……、ローラー作戦のことを言っているのか? ローラー作戦ってのは人手がいるんだぞ? そんな人件費をお前さんは払えるのかい?」

「払える払えないの前に、この探偵事務所に人手なんてないでしょ?」

「それは内部情報なのでお答え出来ません」

 芝居がかった丁寧な口調。時々思い出した用に紳士ぶるのは探偵の生態かな? 今度、観察日記つけてみたい気がする。

「それはこの事務所見たらわかる。ボロいっ!」

「ボロくはないさ。儲かってないだけだ」

 何、その子供の言い訳みたいなのは? もっとマシな言い訳ないの?

「とにかく、一週間調べて何も手がかりが出なかったのは事実……。あと一週間、全力で調べるが、あまり期待しないでくれ……」

 なんか弱気だなぁ。もっと、こう「ジッチャンの名にかけて!」とか言えないのかなぁ?

「無能ね」

「否定出来ん……」

「否定しろ! なけなしのプライドはないの?」

「さっき、プライドがあったら駄目だとか言われた気がするが……。それに現実の探偵なんて、探偵小説の主人公みたいにはいかないんだ……。実際の探偵の業務は汚くて、そしてなにより儲からない……」

 やっぱり儲からないのか。そりゃそうよね。こんな探偵事務所に仕事を持ち込むなんて、よほどの好き者しかいないと思う。私みたいな。

「そ、そんな泣ける話されても、同情なんてしないんだからね!」

「なんだそのツンデレ風は……。同情なんてされても困る……」

「同情するなら金をくれ!」

「お前さんが言うな……。俺も言わないが……」

「どうして?」

「どうやらプライドがあるらしい」

「おお、新発見! 場末の探偵事務所で希少なプライドを見つけた……か?」

「だからなんだその二昔前の番組コピー風は……」

 一息ついたところで深隠さんはコーヒーを飲み干す。既に温かかったはずの黒き液体は、ぬるく冷めてしまっているはずだ。それなら始めからアイスコーヒーで出せってんだ。今、何月かわかってる? 八月だよ八月。ホットが許されるのは六月までなのだ。

「俺だって受けた依頼だ。見つけたいのは山々なんだが、本当に九段坂恋歌ってのは見つかる気配がないんだ。偽名の可能性はないのか?」

「へ? 偽名?」

 偽名っていったらあれだ。本当の名前じゃないってことだ。九段坂恋歌は家出少女で、私の元クラスメイトで……、あれ? 

 今、私と住んでいる少女の名前は九段坂恋歌……、は高校時代のクラスメイト……。

「はははは」

 感情のこもっていない私の笑い声がこだまする。

「おい、待て! まさか本名の確証がないのか?」

「はい。まったく。とういうか、偽名です」

「そんなの見つかるかーぁ!」

 ちゃぶ台でもひっくり返さんばかりに深隠さんが声を張り上げる。ちなみに、ちゃぶ台ってアレだよ、野球狂がクラッシュする奴。

「わ〜ん。探偵さんがいじめる〜」

「こっちは営業妨害されてるっつうの! 偽名の人間を真面目に捜した俺の一週間を返せ!」

「こう考えましょう」

 私はピンと指を立て、怒り心頭の探偵さんの前に出す。

「二週間フルに無駄にするより二倍マシ。今日、私が来たことに感謝と尊敬の眼差しを♪」

「キャンセル料置いて去ね!」

 深隠さん言葉汚いよ〜。探偵ならもっと紳士に紳士に。

「え〜。捜査料ならまだしも、キャンセル料にボーナス使うなんてなんだかなぁ、って気がするでしょ? だからね」

「だから、俺の生活費をそんな理由で奪う気か?」

「それじゃあ、まるで私が血も涙もない人間みたいに聞こえるじゃない!」

「そう言ったんだが、聞き取れなかったかい、元クライアントのお嬢さん?」

 うわ〜。もう元呼ばわりですか? 数十秒前と、もう待遇が違うんですか?

「払います。払えばいんでしょ! この守銭奴! ごうつくばり!」

「なんだその逆ギレ風は……」

「逆ギレですから♪」

 うっし。レッツ逆ギレ。これぞ奥ゆかしい日本人の特殊技能。しかし、どうやら見切りをつけた探偵には逆ギレにも動じない。

「お客さん。支払いは契約時指定の口座へ五営業日以内にお願いします。そしてお帰りはあちら」

 深隠さんはご丁寧に事務所の出入口を指差す。そこまで言われれば仕方がない。私は苛立たしい足つきで事務所を後にする。

「もう来ねぇよ!」

 とか、捨て台詞を吐いてみる。これって、人間一度は言ってみたい台詞だよね。

 追い出されるように町ビルを出た私は、まだ日の高い太陽の洗礼を受ける。無駄に暑い八月の太陽は多少傾いたぐらいでは人類を許してくれそうにない。うだるような暑さの中、私は帰途につく。

 なんか、せっかくの土曜日を無駄にした気がする。ちょっと本気出して恋歌の身元を調べようとしたのが悪かったのかな? 罰が当たったみたいで後味微妙。

 そっかぁ。恋歌の九段坂恋歌って本名じゃないかもしれないんだぁ。毎日『恋歌』って呼んでたから忘れてた。

 今、うちにいる九段坂恋歌は九段坂恋歌ではないかもしれない。そして九段坂恋歌かもしれない。すべては自称で不詳。

 私は彼女の真実を何も知らない。約半年、一緒に暮らしているのに、私は恋歌のことを本当に何も知らない。毎日のようにくだらない話に花を咲かせても、重要なことは何一つ話してない。それが私と九段坂恋歌の距離なのだろう。

 それは悲しいこと。本当に悲しい。一緒に住んでいる恋歌でさえそうなのだ。私は誰とも繋がっていない。私がふざけた話以外が出来る相手がいないという事実。同居している相手ですら真に心を開けないという現実。私は、なんて寂しい人間なんだろう……。



 私は自分の部屋の前で立ち尽くしていた。

 探偵事務所を出てから気分はずっとダークなまま。帰って来たのに玄関を開ける気がしない。部屋の中には九段坂恋歌がいるだろう。私はどんな顔をして彼女に会えばいいんだろう? 彼女との心の壁に気づいた私は恋歌に合わせる顔がない。

 「どこに行っていたの?」そう問われれも、はぐらかすしか私には出来ない。正直に「あんたの身元を調べてたの」なんて言えるはずがない。

 腹を割って恋歌と話をする。それが出来ない自分に気づいてしまった。そうしないようにしていた自分に気づいてしまった。

 それは恋歌に対してだけではない。私はすべての人間と深くかかわらないようにしてきたのだ。いつも調子のいいことを言って八方美人で。コンパばかりしてアドレスの登録数だけは異常に多い。でも、実際に連絡を入れた人物なんて、数えるほどもいない。

「私って、何なのかな……?」

 そんな独り言がほんとにつらい。

 暑苦しい野外の空気にさらされて、私はべっとりと汗をかいていた。それでもまだ部屋に入る気にはならない。私の溜息だけが何度も繰り返される。

 結局出た結論は、飲みに行くということ。土曜のかき入れ時なら飲み仲間の河渡キリエも仕事に追われて、いつもの飲み屋に来ないだろう。一人で飲んで、酒にまみれて帰れば悩むことなんてない。それが現実逃避と知っていても、私は現実逃避を選ぶ。

 それが私の生き方なんだと自分を言い聞かせて逃げる。やっぱりそれが私の生き方だ。

 そのとき、私の携帯電話が鳴った。

『は〜〜いぃ。先輩〜ぃ。昼間っから〜飲んでます〜か〜』

「それはこっちのセリフだ、数子!」

 電話をかけてきたのは会社の後輩である迷時数子だった。声を聞いた瞬間わかる酔っぱらった口調で、数子はご機嫌だった。私が飲みに行こうと決めた瞬間、飲んでいるらしい数子から電話がかかってくるとは何たることだ。

「何? あんた休みの昼間っから飲んでるの?」

『休みじゃ〜ないと〜、昼間っから〜飲めませ〜〜ん〜』

 そんな正論を振りかざし、電話越しの数子はケラケラと笑う。どうやら、この酔っぱらいは末期のようだ。本当に土曜の昼から飲んで出来上がっている。そういうのは私の専売特許なのに、勝手に使われるのはなんかシャク。

『先輩〜。先輩が〜なんと言おうと〜、私〜先輩が〜大好きですよ〜』

 いきなり、昼の日中から愛を囁かれるとは思ってもみなかった。しかも同性に。数子、マジ酔っぱらいだ。言動が中年オヤジになっている。

「数子。私に対する気持ちはloveか? likeか?」

『もちろ〜ん、fall in loveで〜す』

「ならばよし! じゃあ、電話切るぞ。私に酒で絡んでくるなんて百年早い!」

『百年の恋ですか〜。先輩も〜メルヘ〜ン』

「うっさい。私は忙しいんです!」

『あ〜ん。切ら〜ない〜で〜』

 ポチっと。切断完了。ついでに電話の電源も切っておく。これで苛立たしい数子の声を聞かずに済む。私は今、恋歌との関係で絶賛悩み中なのです。数子の相手などしていられません。

 そして、はたと気づく。何、私は自室の玄関先で電話に出ているんだろう。それも大声で。こんなワンルームマンションの薄い壁じゃあ、私の声は部屋の中に筒抜けだ。中に恋歌がいるのなら、私がここにいるのがバレバレ。

 うぐぅ。これじゃあ、家の中に入らないと変だ。このまま独り、飲みに行く案は野党の策略によって廃案となりました。

 くそぅ。数子め〜。いつもいつも私の邪魔をしおって〜。

 仕方がなく、私は意を決してドアノブに手をかける。

 部屋からは、特に人のいる気配はしない。でも、恋歌のことだから静かに部屋の隅で三角座りしてかねない。恋歌、出かけてたらいいんだけど……。

 後ろめたい気持ちに支配された私はそんなことを考える。それでもし恋歌が部屋にいたのなら、私はどうするんだろう?

 どうしたらいいの? 何を話せばいいの? 私は答えが出ないまま、ゆっくりと玄関を開けた。

「おかえりなさい」

 いつも通りの声。温かい挨拶。

 私が悩もうと、私が人と本気で話が出来ない薄っぺらい人間でも、恋歌は変わらずに私を出迎えてくれる。

 それに私は泣きたくなる。それでも、ぐっと我慢する。そんな涙、恋歌にだけは見られたくない。私はどうやって誤魔化そうか、それだけを考えて帰宅の言葉を口にした。


 



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