第七章 ナシヤ

   *

「あっ」

 私の手から、持っていたアイスの棒がこぼれ落ちた。溶け始めた青色六号で色づいた氷菓子は砂の地面に染みを作る。その傍らには『あたり』とも『はずれ』とも書いていない木片。

 私は自然と溜息をついた。空はオレンジに染め上がっている。綺麗な夕焼け。それを見上げ、私はまた溜息をはく。

「帰りたくないなぁ……」

 そんな私の弱気。それを振り払おうとするかの如く、私は座っていたブランコを漕ぎ始めた。

 会社帰りの公園で、私は帰宅拒否っ子を演じていた。今、部屋に帰れば、九段坂恋歌がいつも通りの屈託のない笑顔で迎えてくれるだろう。それが重くつらい。

 先月の探偵事務所の一件で、恋歌との心の壁に気づかされた私は、恋歌と顔を合わせるのがなんとなく苦手になっていた。そうは言ってもワンルームに同居の身の上なので、毎日顔を合わないわけにもいかない。

 ぎこちない態度をとる私に、恋歌はこれまで通りに接してくれた。それが逆に私の心をじわじわと締めつけているのだ。

 そんな生活がもう数週間も続いている。それもそろそろ限界なのかもしれない。家主の私が家に帰れなくなるなんて、もう末期の末期。恋歌と別居になるのかな? って、恋歌は私の部屋に押しかけて来た家出少女じゃない!

「嬢ちゃん、帰らないのかい?」

 とっくに退社したのに、公園でいじけている私に声をかけてくる人物がいた。

 私の目の前に現れたのは、少しアンモニア臭の漂う汚れた身なりの男。一般的に言うなら路上生活者な方だ。

「ナシヤさん……」

 相手が路上生活者だからって、私は逃げたりしない。ましてや、相手は顔見知りのナシヤさんなら尚更だ。

 職業、自由人。ナシヤというのが本名かどうかも私は知らないし、名前だとしてもどんな漢字を書くのかも知らない。世間的にはホームレスという頂けない分類にされるオジサンだ。ちゃんと段ボールの家があるのになんとういう言いがかり。

「嬢ちゃん、最近元気ねぇな。どうしたんでい?」

 最近という言葉が出るのも、私とナシヤさんは結構前からの知った仲である証拠。以前、ホームレスの生態がいかなるものなのか気になって、観察日記をつけて以来のフレンドリーな仲なのだ。

「ナシヤさん。ごめんなさい。今日は差し入れ持って来てないの」

「いいってことよ。いつもいつも、もらってばっかだかんな。本当はお返ししてぇんだが、あげれる物なんて一つも持ってねぇからよ」

 そんな、ナシヤさんからもらい物なんかしたら、ホント私が困っちゃうよ。

「ここんとこ、何か悩んでるみてぇじゃねぇか。男に二又でもしてたのばれたのかい?」

「違うよ。私、彼氏いないし」

「はは、じゃあ仕事かい? 最近の会社は扱いひでぇって言うしな」

 私は静かに首を振った。会社の後輩は毎日残業しているみたいだけど、幸い私は毎日定時帰りを遂行している。今のところ、仕事上で私は問題を抱えていない。

 私の悩みが深いと知ったナシヤさんは、私の横で空いていたブランコに腰をかけた。私とナシヤさんが座ったブランコ。静かな公園に二つの金属の軋みが響く。

「それならどうしたんでい? おじさんでいいなら相談のるぜい」

「ありがとうございます……」

 礼を言ったものの、黙り込んだ私を見てナシヤさんは脂ぎった頭をかきむしった。

「なんでい。おじさんには話せねぇことか。……嬢ちゃんには世話になってるからよ、力になってやりてぇんだよ」

 そんなにナシヤさんをお世話したつもりもないんだけど、そう言ってもらえるのは素直にうれしい。

 私は九段坂恋歌のことを話そうかと迷ったが、話さないと決めた。恋歌との問題を、関係ないナシヤさんに聞かせるのは正直、気が引けた。でも、力になりたいと言ってくれた人を無視するのもバツが悪い。

「ナシヤさん。人間関係に悩んだことある?」

「嬢ちゃん、寝ぼけてるのかい? 人間関係に悩まねぇ奴を人間とは言わねぇんだよ」

「それは、人は皆、人間関係で多かれ少なかれ悩むってこと?」

「普通だったらの話な。でも人間関係で悩まねぇ奴もいる。人の皮を被ったモンスターって奴さ」

「モンスター……?」

 ナシヤさんの言葉は何か大げさに聞こえる。どうにも私にはピンとこない。

「そ、化け物。この世には結構いるもんだ。八百万の魑魅魍魎が」

 なんか難しい言葉を使われて、余計に私はよくわからなくなる。

「そんな化け物、どこにいるの?」

「昔、おじさんもモンスターだったんよ」

 ナシヤさんがモンスター? 一体何を言っているのだろう? しかし、彼の言葉はしっかりとした過去形で、それでいて妙に印象深い一言だった。その言葉が、ナシヤさんの本心から出たものなんだと、私は確信した。

 ナシヤさんは空を見上げる。それは虚空を見上げる少年・天井翔太とは異なり、視線はただ一所を向いていた。その公園から見上げる空の端には煌々と光りを放つ物体がある。都心の摩天楼。ナシヤさんは夕の空に光を放ち始めた超高層ビル群をじっと見ていた。

「嬢ちゃんにも話したことあったね? おじさん、昔は会社を経営してたって」

「えぇ。花見で飲んだときに、ナシヤさんが口を滑らした」

 ナシヤさんは昔のことを語りたがらない人だった。どうしてホームレスになったのか。家族はどうしているのか。ずっと秘密にしていた。ただ、前に一度だけ会社の経営者だったことだけ、話してくれたことがあった。

「おじさんの会社。あそこにあったんだ」

 私は、確認とばかりに、ナシヤさんの視線の先を慎重に追う。しかし、その先はやっぱり都心の超高層ビルしかない。

「マジ?」

 ちょっと待って。あそこってマジ都心で、マジセレブなビルだぞ。あんな所にテナントが入れるのは超大企業だけじゃん。

「年商は100億ぐらいあったかな」

「マジ? マジ? 法螺話にしては冗談きついよ」

「その頃は、銀座、六本木。毎日飲み歩いてた」

 そんな羨まし……じゃなくて、いくらなんでもそんな話、信じられないなぁ。

「気がついたら、ホームレスになってたよ」

 早っ! 結論早っ! その課程は? そこが重要なんじゃない。

「その頃には、おじさんにも色々アドバイスしてくれる人がいたんだ。でもおじさん、聞く耳持たなかった。自分の考えが正しい。そう信じ切ってたんだねぇ」

 ありゃぁ。ナシヤさんって近視的盲信自己中型だったんだ? いるよねぇ、そう言う人。何を言っても聞かないから質悪いんだよ。

「命以外、すべてを失った後、そのアドバイスしてくれていた人にこう言われたんだ。『アンタは絶対間違っちゃいけない二択のはずれを引いた。その報いを受けたってこと、自覚してる?』って」

「へ〜」

 ナシヤさんはおどけて、そのアドバイスをしてくれたって人の口まねらしきものをした。その人を知らない私は似ているのかどうかもわかんないけど。

「でも、おじさん、自覚してなかった」

 ありゃりゃ。更に鈍感? ナシヤさん、そりゃヤバいよ。色んな意味で。

「何を間違えたのかさえ、気づいてなかったんだ」

 う〜ん。大企業の経営をしていた人がホームレスになるって、よっぽどのことだと思うんだけど、そんな人生の岐路がわからなかったってヤバくね?

「だから、嬢ちゃんが悩むってこと自体はいいことだと思うよ。悩むってことは問題に気づいているってことだからねぇ」

 問題に気づいている? そりゃ、悩んでるんだから、何に悩んでるかはわかるっしょ。まさか、悩んでるのに、何に悩んでるのかわからないなんてありえない。

 原因がわかっているのはいいことだ。それは確かにそう思う。でもだからといって、悩むことがいいことだとは私は思わない。

「ねぇ、ナシヤさん。絶対間違えたらいけない二択って何だったの?」

「わからないんだよ。その人は教えてくれなかった」

「もしかして、自分で考えろ、って?」

「ははっ。そうそう。そう言われた。あれから十三年。年とったせいか、やっとわかってきた」

 いやいや、そんなに時間がかからないとわからなかったなんて、ちょっとかかりすぎじゃない?

「で、結局わかったの? わからなかったの?」

「自分で考えろ、だねぇ」

 え〜。そんな、私も考えなくちゃいけないの? 私、ナシヤの過去なんて全然知らないのに、考えたってわかんないよ。

「多分答えは単純なんだろうねぇ。嬢ちゃんの悩みも、きっと同じじゃないのかな?」

「私の悩みも、出すべき答えは単純ってこと?」

 そう聞いても、ナシヤさんは何も答えてくれなかった。その代わり、にやっとした気持ち悪い笑みを私に向けた。

「……よく、わかんないや」

 私は諸手を上げて降参。ナシヤさんの言うことは、まるで謎かけみたいで、わけわかんない。

「そうかい? まぁ、今はそれでもいいけどねぇ。その時になったらちゃんと考えなよ」

 その時って何? 私にも絶対間違えてはいけない二択ってのを突きつけられるときが来るってこと?

 そんな逆境に私が立たされるなんて考えられないけど、もしそんな時が来たのなら、私は何かを選ばなくちゃいけない。その何かを選ぶのは私自身。私が見つけなきゃいけない答え。誰のためでもなく、私のために私が選ぶ未来。そんなものを私は見つけられるのだろうか?

「宿題なんだよ……」

 ナシヤさんがポツリと言った。それは自分自身に言い聞かすみたいに神妙な声だった。

「宿題? 答えを出すのが?」

「そうだね。自分で考えねぇと意味がねぇ。自分のためにもならねぇ。つまりは人生の宿題って奴かな」

 どうにも今日のナシヤさんは哲学的だ。いつも路上生活にまったくめげない、へらへらした表情をしている人と同一人物とは思えない。昔のことを思い出して、ちょっとセンチになっているのかもしれない。

「そっかー。宿題かぁ。そりゃ自分でやらないと怒られるね」

 宿題を丸写しは単なる逃げだ。その時は楽出来ても、将来のためにならないのはみんなわかっている。それなのにやりたくないのが宿題ってものだ。

 まぁ、私の悩みは私が答えを出さない限り、誰も答えを教えてくれないだろうから、私がやるしかない。誰かが教えてくれたら楽なんだろうけどね。

 私はブランコの鎖をいじりながら、もやもやした思いを振り払う。

「じゃあさ、ナシヤさんがモンスターだったてのは何なの?」

 私の質問に、ナシヤさんはしばらく考え込んでしまう。そしてゆっくり言葉を選ぶように話し始めた。

「元々、モンスターは誰の心にもいるんだよ。それが表に出るか出ねぇか。それだけなんだろうねぇ。だから誰でもモンスターになる可能性はあるし、誰もモンスターじゃねぇ可能性もある」

 結局、ナシヤさんの言うモンスターって何なのだろう。心に潜む悪魔みたいなものなのかな? でも、スイーツ分を欲しがる私の脳内悪魔とはちょっと種類が違う気がする。

「おじさんはモンスターが表に出ていると気づいていなかった。人から言われても、何バカ言ってんだと無視してた。それがモンスターの特徴なのかもねぇ」

 うん。私も人から色々言われるけど、全部無視してる。だって面倒臭いし。

「これもそのアドバイスしてくれていた人に言われたんだけどねぇ。『周りがモンスターだったとしても、自分がモンスターになる必要はないわ。モンスター同士なら食い合うしかない。そうならないのが人間の叡智(えいち)でしょ。モンスターを飼い慣らすのも、狩りとるも、近づかないってことだって出来る。頭使いなさい』って言うんだよねぇその人。いやぁ、耳が痛いねぇ」

 私も耳が痛い気がする……。でも、耳が痛い言葉は聞きたくないのも人間ってものです。

 人間は人間関係に悩むのは当たり前で。人間関係に悩まないのがモンスターで、モンスターは誰の心にもいる。結局、人間ってのが何なのか、よくわかんなくなる。それは堂々巡りの禅問答みたい。そんな無意味な考えが繰り返される。

「ナシヤさん。私どうしたらいいのかな?」

 普段の私だったら、そんな台詞絶対に言わない。私はいつだって意味ない虚勢を張って、意味ないお喋りに花を咲かせる。それなのに、この頃ちょっと調子が出ない。

「何を悩んでいるのかも聞いてねぇのに、その質問に答えるのは至難の業だねぇ」

 確かに私はナシヤさんに何の事情も話していない。それで相談に乗ってもらおうなんて都合が良すぎ。それに、大企業の経営者からホームレスに転落した人に、家出少女の同居人との関係についてみたいなちっぽけなことを悩んでるなんて言うのはちょっち恥ずかしい。

「はは、それもそうだね。それじゃあ何もわかんないよね」

 そんな私の言葉を聞いているのかわからない顔でナシヤさんは再び視線を上げる。そこは昔、自らの居城だったらしいビル街。自らの夢の跡。それを見てナシヤさんは何を思うのだろうか。懐かしいのか、悔しいのか。ナシヤさんの表情からは、その感情が読めなかった。

「なるようになる、じゃねぇかな?」
 物思いにふけるナシヤさんが放った一言に、私は不思議な魔力を感じた。

「人が何十人と首をくくってもおつりがくるぐれぇの借金背負ったおじさんが、こうして生きてんだ。世の中、もうどうにもならねぇなんて状況はねぇと思うよ」

 ナシヤさんの言いたいことはわかるけど、私はそんな人生やだ。

「ナシヤさん、そんな借金どうやって返したの?」

「ホームレスが借金返せるわけねぇなぁ」

「じゃ、自己破産?」

「自己破産で身を綺麗にするには額が多すぎたねぇ。法律的になくなっても、恐い人たちが許してくれなかったよ」

「えっ? じゃあどうしたの? とっても優しい人たちに内臓売られて骨と皮だけになったとか?」

 とりあえず、ナシヤさんの見た目は五体満足なんだけど、見えないところで腎臓の一つや二つなかったりして。

「いや、おじさんはこの通り大丈夫。危うくバラされかけたけどねぇ。まだ確かに生きてるよ。でも、もう存在しないことになってるけどねぇ」

 そんなナシヤさんの自虐的な笑い。苦笑が似合っていると言ったらナシヤさん怒るかな? たぶん怒らないで苦笑するんだろうな。

「社会的に抹殺されちゃった?」

「もう世界のどこを探しても、ナシヤなんて人物はいねぇんだとよ。ここにいるのは息して糞するだけの、地球上に何十億といる生き物の一匹ってわけだねぇ」

「なんか、それ悲しくない?」

「モンスターは悲しまねぇんだよ」

「あれ? でもナシヤさん、今はモンスターじゃないんでしょ?」

「……だから寂しいんだよねぇ」

 あ、なんか落ち込んだ。やっぱり、ナシヤさんも今の生き方に本心から納得したわけじゃないんだね。

「おっと、しんみりした話になっちまったねぇ。まぁ、こんなおじさんが嬢ちゃんにアドバイスなんて烏滸がましいけどねぇ、年の功って奴から言うと、悩むとまったく悩まないなら、悩んだ方がいいらしいよ。おじさんは昔、悩めなかったけどねぇ」

「悩んだ方がいい? そうなのかな……?」

 私はそう思わない。悩みなんて一つもない人生の方が、きっとハッピハッピーな人生だ。いつも笑って過ごす。そんな生き方が最高だと思う。

「そりゃ、悩みすぎもよくねぇと思う。悩みすぎて人生終わらした人間も、何人も知ってるしねぇ」

 そうでしょ、そうでしょ。悩むなんてホントくだらない。

「私、自殺するほど弱くないよ。うん、弱くない」

 それに九段坂恋歌との関係なんて、自殺するほどの悩みじゃない。だから私が自殺する可能性は地球外生命体の遭遇確率と同じくらいだよ。ハリウッドじゃエイリアンなんて腐るほど地球にいるけどね。

「ははは、弱くないねぇ……。嬢ちゃんもまだまだだねぇ。弱いから自殺したなんて、そんなことはねぇんだよ。弱い強いは関係ねぇ。それに、人間強がってる奴ほど実は脆いもんだぜ」

「私は強がってません!」

 私の強気の台詞。それが強がりというんだ。うじうじ悩んでるくせに。

 でも、いくら悩んでいるといっても、私が自殺するとこなんて実際想像すら出来ない。自殺なんて……。

 また私は連想してしまう。九段坂恋歌は自殺だった。高校のクラスメイトだった方の九段坂恋歌は去年の十二月二十五日に自殺したのだ。

 どうして自殺したんだろう? 九段坂恋歌は弱い人間だったのか、私は思い出そうとしても高校時代の彼女の姿が鮮明に浮かばない。思い出せない。それほど親しくなかった私が彼女の何がわかるというんだ。

「ナシヤさん、あのね……」

 九段坂恋歌のことが口に出かけた。なのに口が急に重くなり動かなくなる。自分の本心をさらけ出せない。それが私の悩みであり、私の弱さだ。私が何かを口にしかけたのに言葉が出ないのを見て、ナシヤさんの目元が下がった。

「言いたくねぇことは無理に言わねぇ方がいい。それに、それを言う相手は他にいるんじゃねぇのかい?」

 ナシヤさんは私が何を言おうとしたのかわかったのだろうか? いや、私は何を言おうとしたのだろうか? 自分でもそれがはっきりしない。ただ、ナシヤさんが口にした言葉にはヒヤリハッとさせられる。

 つまり、私が重い口を開けるべき相手はナシヤさんではなく。今も私の部屋にいるだろう九段坂恋歌なのだ。

「ありがと、ナシヤさん」

 私は数回ブランコを大きく漕いで、子供のように座っていた遊具から飛び降りた。

「ちょっとスッキリした」

 私は無理矢理に笑ってみせた。まだ、悩みが解決したわけじゃないので、ちょっとぎこちない笑みになってしまった。

「そうかい? こんなおじさんでも役に立ったかい?」

「う〜ん、役に立つかどうかはこれからかな? うん、ちょっと頑張ってみる。それじゃあ、私、帰りますね」
「不審者には気をつけるんだよ」

「えぇ、重々承知しています」

 そういえば、最近はあの黒ずくめの不審者であるHGなる男は現れていない。不審者が現れないってことはいいことだ。でも、あのいじくりがいのあるHGがいれば、最近落ち込み気味な私のストレス解消になるのに。

「ナシヤさん。今度また差し入れするからね〜」

 私はナシヤさんに元気に手を振って、公園を後にする。ナシヤさんとの話で、私の悩みが解消したわけじゃないけど、柄にもなく落ち込んでいた私に気がついた。



 そう、私はそんな悩んで考え込むようなキャラじゃない。私は脊髄反射で生きているような生物だ。そんな真人間みたいに悩むなんてあり得ない。そんなあり得ないことがあり得たなんて、きっと明日は空からブタでも降ってくるのかもしれない。

 意気揚々と部屋に帰った私は、ガシャリと大きな音を鳴らして玄関を開け放つ。

「恋歌! 恋歌はおるか!」

「はい、いますよ」

 いつものようにテレビの教育番組を見ていた恋歌は画面に集中したまま、上の空で答えた。

 私は恋歌の横まで行くと、ビシっと床を指す。

「ちょっとここに座りなさい」

「もうここに座ってるのですが?」

 私が指で指したのは、まさに恋歌が三角座りしている場所だった。

「じゃあ、正座!」

「はい」

 素直な返事で恋歌は正座に座り直す。うむ、ホントに素直でよろしい。けど、顔はテレビの方を見たまんまだ。

「恋歌、私をなめてる?」

「はい」

 こら! そこは素直に返事するな!

「くぅ。恋歌のくせに!」

「今頃、気がついたんですか? 私はいつもあなたをなめ回しています」

 なめられるのもアレだけど、なめ回されるのも気持ち悪い。

「ちょっと私の話を聞きなさい」

「後にしてもらえませんか? 今いいところなんです。四つの力をいかに統合するのか。こんなスペクタクルな話が他にありますか? まさにドラマティック&ファンタスティック」

 どうやら恋歌は、私の話よりテレビに夢中のようだ。

「わたぁ!」

 私の伸ばした指はリモコンのボタンを指突する。

「あ〜。どうしてですか? どうしてテレビを消すんですか?」

 どうしてって。そりゃ私の話を聞かないからでしょ。恋歌がぷっくり頬をふらませたが、断固却下です。

「説明しよう! この家の電気代は私が支払ってます。つまり、テレビジョン視聴器における放送周波数帯チャンネルを自由に設定し好きな番組を見る。並びに電源を消しどの番組も見ない権利、略してチャンネル権は私にあるのです」

「一々長ったらしく言わなくてチャンネル権ぐらいわかります。そんなお金に物を言わせるなんて、あなたも堕ちたものですね」

 うむ、恋歌の言い分ももっともなもの。しか〜し。

「目的と手段を選ばないのが私の方針だからね」

「両方選ばないなんて、本末転倒ですらないのですか」

「正しくは支離滅裂かな?」

 うん、なんか調子出てきた。そうそう、これが私だ。さっきまでのように悩んでるなんて私じゃない。

「私の話、聞く気になった?」

「さっきから聞いているじゃないですか」

「本気で聞く気になってる?」

「3割2分5厘ぐらいは」

 なんだその3割バッターは。結構打ってるな。

「それじゃあ、今から言う質問に魂を賭けてから答えるのだぁ☆」

 そう勢い勇んで言ってみたものの、その後に続く言葉が出てこない。私は唇を噛みしめる。ぎゅっと私の心が何かに鷲づかみにされてしまい、無意識に、握りしめていた拳が震えていた。

 直前までおふざけのお喋りではまったく感じなかった緊張。やはり私は、その一歩を踏み出すのが恐ろしい。恋歌と真面目な話をするのが恐い。

「何? どうしたの? 賭け金として魂でもとられたの? まだ私の上乗せ権(レイズ)が残ってますよ?」

 私の緊張を知ってか知らずか、恋歌は首をかしげる。

「私に聞きたいことがあるんでしょ? 聞いたらどうですか?」

 あげくの果てに相手に急かされる始末だ。ほんと、私は意気地なし。

「れ、恋歌……。あんた、私のこと……どう、思ってる?」

 途切れ途切れの声。まるで内気な子供が知らない大人を前にしたような情けない有り様。それだけ私の言葉が本物だったってことだと思う。

 生まれてこの方、本物の言葉を使ったなんて数えるほどしかない。というか、まったくなかったかもしれない。たったそれだけの言葉と言われれば終いだ。でも私にとってみれば本当に意を決した一言だった。

「どう、思う?」

 不意をつかれたみたいに、きょとんとした様子で恋歌は私の言葉を繰り返す。

「きゃはは。何ですか、それは?」

 笑われた。私の真剣が、私の本気が笑われた。それも仕方がないこと、今までいつだってふざけてきた私自身へのしっぺ返しだ。

「……真面目に、……聞いてるの」

 私の不満の声を聞いて、恋歌は小バカにしていた笑いを消した。そして恋歌の瞳に私の姿が映る。

「そんなの決まってます」

 真面目な顔をした恋歌の力強い言葉。

「決まってる……の?」

「そう、決まってます。あなたは大バカ野郎です」

「バカ……」

「そうです。極度のバカです。鈍感で人の気持ちはおろか、自分の気持ちに気づいていない大バカです」

「気づいていない……?」

 その言葉、私は多くの人から言われた気がする。言われ続けてきた気がする。

「私が何を気づいていないっていうのよ!」

「それは自分で考えましょう」

 それもどこかで聞いたことがある。ナシヤさんとついさっきそんな会話をしてきたばかりだ。ナシヤさん自身が、過去に言われた言葉を恋歌が口にしたのだ。それは偶然なのだろうか?

「恋歌、私に何を考えろっていうの?」

「私の口からは言えません」

「どうして?」

「問題の答えを言う出題者がいますか? 言ったらクイズ番組は成り立たないのです。言ってしまったらそれは安物のバラエティ。私はお笑いはあまり好きじゃないんです」

 誰がテレビ番組の好みを聞いている。そりゃバラエティが好きな奴はNHKばかり見るわけがない。というか、いつもボケてるあんたがお笑いが好きじゃないなんて、どの口が言っている。嫌よ嫌よも好きのうちとかいう奴?

「教えてくれないなんて、恋歌って結構ケチだね」

「あなたのためを思って言っているのです。たまには頭を使わないとシナプスが衰えて、脳神経が緩みますよ」

 言われなくても私の脳ミソはユルユルのトロトロですよ。

「私がバカだからってバカにして。恋歌のくせに……」

「何いじけてるんですか。あなたは空元気だけが取り柄なんじゃないですか」

「いじけてなんかない!」

「そうですか? それならいつものようにボケたらどうですか?」

「私はツッコミなの!」

「自称ツッコミはボケと同意なのですよ〜♪」

「うが〜! いきなりボケろと言われる人間の気持ちを考えたことがあるか!」

「ありません。何しろ私は天然ですから」

 恋歌のどこが天然だ! 恋歌を天然にしたら全人類が天然になる。人類天然化計画なんてシャレにならん。

「ホント、人の気も知らないで……」

 私がどれだけ悩んでいるのか恋歌が知るはずがない。それが知ってもらえるように腹を割って話をしてこなかったのだから。

 私の呟きを聞いて急に黙り込んだ恋歌。しかし、その瞳はじっと私に熱い視線を送っていた。

 そんなに見つめられたら私……。後ずさりする私を、恋歌は音もなく同じ速度でついてくる。うぎゃ〜。もう、何なのよ!

「あの〜。恋歌さん?」

「はい、何ですか?」

 私の目前で、妙に明るい表情の恋歌。どうやら恋歌は私に何か期待しているようだ。

「一体、何なのよ!」

「何だ何だと聞かれたら、答えてあげるのが世の」

「待て待て、恋歌待て! それはヤクイ! そこはかとなく大人の事情の香りがする!」

「あれれ? 危険は人生によって極上の香辛料(スパイス)なんですよ?」

「恋歌、先に言っておくけど。電気ネズミならまだしも黒ネズミは絶対にダメだかんね!」

『えっ? どうしてだい?』

 こらこら、妙に甲高い声出すな。

「ふ〜ん、やっぱり、真面目な話はあなたに似合いませんね。そうしてる方が生き生きしてます」

「ほっとけっ!」

 まぁ、恋歌の言い分は当を得ている。真面目な話はすごく苦手だ。

「最近、何か悩んでたの?」

「な、何のことかなーぁ」

「ボケは出来ても嘘はつけないのね」

 だから私はツッコミだと言っている。Wボケ、Wツッコミは最近の流行だけど、私はツッコミなの!

「う、う、うっさいな〜」

「そんなところが可愛いです」

 うがっ。急にそんなことを言われ、私の頬が熱くなる。多分、自分では見えないけど、顔が真っ赤になっているんだろう。

「う〜ぅ。そんな、恋歌みたいな子供に可愛いって言われても!」

「うれしくないの?」

「う、うれしくなんかないぞ! ほんとにほんとだぞ」

 そう言っても、恋歌はまったく信じていない様子で、腹を抱えて笑うのを耐えていた。また恋歌に遊ばれてしまった。

「もう、本当にバカなんですから、あなたをいじめたくなるみんなの気持ちもわかってあげましょうね」

「わかんないっ!」

 私の大声に恋歌はわざとらしく耳をふさいでみせた。それから一つ大きく息を吸って、恋歌は私に向き直った。

「もう可哀想だし、本当のこと言ってあげましょうか?」

「な、何よ。本当のことって」

「さっき聞いたでしょ。あなたのこと、どう思っているか?」

 なんだ、さっきはバカ野郎とか言ってたんじゃないの? 嘘だったのそれ? 私は本当に恋歌がそう感じていると思っていた。

「本当はね。大好きですよ」

 えっ! なななな、何を言い出すかと思えば!

 私の顔がさっきと比べ物になんないぐらい、本当に焼け落ちると思えるぐらいに熱くなっているのがわかる。

「私、あなたのことが大好き。一緒に暮らせてすごく楽しかった。こんな私をここに置いてくれて、感謝している」

「そ、そ、そんな」

「私がここにいることは、あなたにマイナスにしかならないの知ってるよ。それでもあなたは私の存在を認めてくれた。私を見てくれた」

 そんなことない! 私は恋歌がいてくれて、すごく楽しい。私の方が一緒にいてくれて感謝している。

「だったら、ずっとここにいればいい。恋歌が邪魔だなんて、私一度だって思ったことないっ!」

「それ、本当ですか?」

「うん」

 私は力強くうなずいた。

 そのとき、私はもう恋歌に対する心の壁なんて感じていなかった。私は恋歌と一緒にいる。それだけでいい。私の悩みは完全に消え去り、その夜、久しぶりに恋歌と同じ布団で眠りについた。

 しかし、私が目覚めたとき、家出少女・九段坂恋歌はいなくなっていた。

 ちょっと出かけただけだと、そのうち帰って来ると思っていた私。きっと帰って来ると待っていた私。

 でも恋歌は帰って来なかった。私の前から姿を消してしまったのだ。



第八章へ   トップに戻る