第八章 陸道香奈

   *

 九段坂恋歌が姿を消して、早一ヶ月がたった。

 半年近く共に暮らしていた奴がいなくなったというのに、私の生活に変化はなかった。いや、正確に言うなれば、九段坂恋歌と名乗る少女が現れる前の生活そのものになっていた。

 それは私本来の生活。何の代わり映えもない私の生活。朝起きれば、一人黙々と仕度し、仕事が終わればふらりと家に帰って一人分の夕食を作る。そしてしばらくテレビを見た後、静かに就寝する。そんな普通の毎日。

 そんな日々に不満はない。だってそれが私の普段通りだから。だから、九段坂恋歌が消えたとしても私は何も変わらなかった。

 その日も別段、特別なことがあったわけじゃない。出社して、私の職場である受付に立って愛想振りまいて、仕事を順調にこなしていた。

「先輩〜。休憩〜行きましょ〜よ〜」

 どこからともなく現れた迷時数子が鬱陶しいのもいつもの通り。

「あんた、今日、何回誘いに来てるのよ」

 もうかれこれ五回目だ。ホントしつこいんだから。

「だ〜って〜、先輩が〜休憩室に〜来てくれない〜からですよ〜」

 来てくれないって、なぜ私が数子の言うとおりにしないといけないの? 私に迷時数子につきまとわれない権利はないのかしら?

「ちゃんと仕事なさいよ。どうせデスクの書類、山積みなんでしょ?」

「山積みじゃ〜な〜いで〜す〜。雪崩で〜す」

「既に崩れたの! 逃げて来たってこと?!」

「逃げてませ〜ん。気が〜ついたら〜。ここにいました〜」

 無意識に職場放棄したのか。さすが迷時数子。私もそこまでやるほどダメ社員じゃない。お給料に見合っただけの仕事はしてます。でも残業は断固拒否。この間、労働組合がスカウトに来たけど、それも拒否してやった。どうして私が他の社員のために働かなきゃならないのよ。

「も〜や〜です〜。先輩〜ぃ手伝って〜くださ〜い〜」

「やだ」

 後輩の懇願にも、私の返答は相変わらずのキレを見せる。数子は体を揺すってイヤイヤ言ってるが、そんなの無視無視。

「…………あの」

「先輩の〜い〜じ〜わ〜る〜」

「誰がばあさんだって!」

「……あの」

「私〜ぃ、そんな〜こと〜言ってな〜い〜」

「なんとなく聞こえたのよ」

「あの〜」

「先輩〜ぃの〜気のせ〜です〜。私が〜年上の〜先輩〜に〜、くそばばぁ〜なんて〜言いませ〜ん」

「この口か! この口が勝手に喋るのか!」

 私は数子のほっぺたをつねり上げて、ぐりぐりこね回す。

「しぇ〜んは〜い〜」

「何か文句あるのか。ならば聞いてしんぜよう」

「ふぁにか〜い〜ふぇふぁす〜ふぉ〜」

「ん? 何? ちゃんと喋らないとわからないわよ」

 そうは言っても、数子の頬を引っ張っているのは私で、数子の元々舌足らずな声は本当に何言っているのかわからない。

「ふがぃて〜まぁ〜ふ〜」

 そう言いつつ迷時数子が指差したその先には、私の同僚で今も一緒に受付嬢をしている陸道香奈(りくどう・かな)がいる。見れば、彼女はじっと私と数子の微笑ましいやりとりを注視していた。

「えと、何か用?」

 陸道さんに声をかけならが、私は両手を丸書いてちょんで数子のほっぺたを放してやった。数子の白い頬が赤くにじんで、童顔の顔が更に子供みたいに見える。

「……休憩、行ってきたら?」

 小さな陸道さんの声。声量は聞き逃しそうなほど小さいけど、明らかに不快感を示していた。

「へ?」

「……受付、で騒がれると、困る」

 陸道さんの言葉に私はカチンとくる。

「ふ〜ん。なかなか言ってくれるね、陸道さんも。そんな言い方されたら、さすがの私も黙っちゃおれないわね。休憩行ってきま〜す♪」

 ははは、仕事抜けていいって言われたら、抜けないわけにはいかないよね。うんうん。人間素直なのが一番。

 私はつきまとってくる数子に憑かれたまま、休憩室へと向かった。いつも気を張ってないといけない受付嬢なんてしているから、私にとって休憩室はなくてはならない場所だ。

 休憩室に着いた瞬間から、顔筋やら脳みそやら、すべてを緩みっぱなしにて、私は数子と企画部の変態、山園一樹の斬新なシバき方を討論していた。

 そんな普段と変わることのない休憩時間だったのだが、私の心にはしこりのように違和感が漂っていた。それは先程、私に休憩を勧めた陸道さんが原因。

 毎日のように同じ職場で働いているけど、彼女が私に休憩を勧めるだなんて、今までになかったように思う。いつもなら、私が適当に「休憩イッてくるから、よろしくネっ!」とかなんとか言って、彼女が無言でうなずくのがいつものパターン。それなのに今日は少しばかり様子が違った。

 陸道香奈と私は、ちょっと微妙な関係だ。私の方が年上なんだけど、高卒入社の彼女は会社では私の先輩で、何より受付嬢のいろはを指導してもらった人だ。私のやる気のない受付スタイルは彼女譲りのものと言っても過言じゃない。

 そんな関係なら、本来ならもっと仲がよくても不思議じゃないんだけど。陸道香奈という人物は、基本的に無口な女性なのだ。

 といってもまったく喋らないわけでもない。聞かれれば答えるし、そんなに人見知りするわけでもない。言ってしまえば根暗系。存在感が薄いと言った方が正しいかもしれない。

 学校とかではクラスに一人はいるでしょ、一緒にいても一人だけ名前を呼んでもらえないとか、名前を覚えてもらえない人が。陸道香奈もそんな感じがする。

 事実、毎日のように私の職場に現れる迷時数子でさえも、彼女のことをいつも私の隣に立っている人以上の認識をしていないと思う。恐らく名前さえも知らないだろう。胸にネームプレートつけているのにもかかわらず。

 まぁ、私にしたって陸道香奈なる人物をよく知っているわけでもないし。受付の制服に着替える時に、私服をたまに見かけたりするが、有名ブランドに身を固めて逆に個性がない。メイクも流行物で、ホントと没個性。

 イケてないと言われることもないけど、人混みに紛れたら、私でも見つける自身がない。彼女のプロフィールとか、同僚の私は恐らく聞いたことぐらいあるんだろうけど、さっぱり覚えていない。そんな必要性にかられなかったし、今だってさして知りたいとも思わない。

 唯一、私が彼女について知っていることといえば、趣味がミーハーで、特に男性アイドルユニットならどのグループでも好きだっていうことぐらいだ。

 そんなありふれた趣味はともかく、全体的な雰囲気は高校のクラスメイトだった九段坂恋歌に、なんとなく似ている気がする。実際、並べたら似ていないかもしれないけど、私の脳内では同じ属性に分類されてしまっているのは確か。

 そんなよしなしごとを考えならが休憩から戻った私に、陸道さんは一瞬だけ目をやった。何か言われるのかと、ドキリとしたけど彼女は特に何も言わず、それ以降は黙々と受付嬢としての職務をこなしていた。

 なんだ。いつもの陸道さんじゃない。何か変に感じたのは何だったのだろう。私の気のせいか。そんな私の甘い考えは、定時直前、一日の仕事が終わったと思って気を抜いた瞬間に見事に裏切られた。

「……今日、何か、予定ありますか?」

 一瞬、空耳かと思った。それはそうでしょう。隣に受付として立っている陸道さんが顔すらこっちに向けずにいきなり言うんですもの。というか、今彼女の口元動いたっけ? なんか腹話術みたいだったぞ。なんか面白そうだ。メモメモ、このネタもらいっ!

「私に聞いているの?」

 私も陸道さんにならって顔は正面に向けたまま。こうしていれば受付として職務を怠っているとは誰も思うまい。仕事する振りしてサボらせたら、私の斜め上を行く者はなかなかいないぞ。

「……はい。そうです。仕事が終わったら、顔、貸してもらえますか?」

 もしかして、私、体育館裏かトイレに連れ込まれて陰湿ないじめを受けるわけですか? 一応先輩の陸道さんに焼き入れられるってこと? そんなに私、いきがってましたか?

「え〜っと、返してくれるなら貸してもいいんだけど、これ剥がすの大変だよ」

「…………。面の皮は要りません。時間、とってもらえますか?」

「私が何か、シメられるようなこと、したかしら?」

「……しめる?」

 シメるという言葉の意味がわからないのか、私の発言の意図がわからないのか。とにかく番長にしばかれるって話ではなさそうである。

「私に何か用あるの?」

「……それほど、重要でも、ありません」

 いやいや、そりゃあ嘘でしょ? あんたが私を誘うなんて絶対何かあるでしょ。

「まぁ、私も特に用事はないし。OK。着替えたら通用口前でいい?」

「……問題、ありません」

 はぁ、なんかやりとりが事務的だなぁ。一緒に働いてるけど、陸道さんのそういうところがちょっと苦手だったりする。

 それ以降、陸道さんはまた黙々と受付をこなす、いつもの彼女に戻ってしまった。いや、もう彼女を「いつも」とか「普段通り」とか言い表せなくなっている。わざわざ私を呼び出すなんて、これはエマージェンシー級の超特級異常事態。どこにホットラインかけたらいいのかな?

 私の脳内に選択肢が三つ浮かび上がってくる。

  1.正々堂々、いざ尋常に勝負!
  2.ぶっち決定☆
  3.数子の残業を手伝う。

 あ〜。3以外なら何でもいいや。どうして陸道香奈に呼び出されたのかもわからないし。

 ホント想定の範囲外。こんなの稀代の占い師・河渡キリエでも予想出来るはずがない。せめて用件言ってくれたらなぁ。聞き忘れた私が言うのもなんだけど。

 今まさに真横にいるんだけど、今から聞くってのも何だか居心地が悪い。こう、出方のさぐり合いというか何というか。一言で言うと話しかけにくいだけなんだけどね。

 そんなこんなで定時となってしまい、私は陸道さんに連れられて駅前のカフェに入った。こういうセルフサービス系のカフェって私はあんまり好きくない。ホットレスカが置いてないなんて致命的。

 とりあえず、呼び出した陸道さんが気を利かしてアイスティーをおごっくれた。

 う〜ん、シロップ何個入れようかなぁ。五個は基本として気分で上積みドン、とか悩んでいたら、彼女が早速、話を切り出した。

「…………あの、友達の友達の話なのですが」

 うわ! 出た! 必殺『友達の友達の話』! それって絶対、自分の話っていう都市伝説!

「うんうん。その『友達の友達』がどうしたの?」

 私は白々しく話に乗ってあげる。そうしないと話が進まないもんね。

「……あの、友達が言うには、友達の友達が、最近、……変、らしくて」

 変、とはまたアバウトな表現だ。変にも色々ある。変質とか変人とか変態とか。

「……元々、普通じゃない人、だったけど、この所、磨きをかけて、変らしくて」

 だから変じゃわからんというに。

「はぁ。それであんたの『友達の友達』の話と私にどんな関係があるの?」

「……いえ、その……、相談、にのって、……くれませんか?」

 結局、困ったさんの相談室だったわけですか。

 どうにも遠慮がちな陸道さん。そりゃ、毎日のように顔を合わせてる同僚とはいえ、私と陸道さんはそんなフレンドリーでもないし。会社的には先輩なんだから、もっときりりとしてくた方が私はやりやすいのになぁ。話をすると私の方が偉そうになるのは私だけの問題じゃないと思う。

「なぜに私?」

「……あなたが、適任?」

 おいこら。今、語尾にハテナがついただろ。そんなんで、私にどうしろというの。

「『友達の友達』が変で友達が困ってるなら、あんたが相談に乗ってあげたら?」

 それが妥当というものでしょ? どうして私に振ってくる。

「……私じゃ、無理、みたいです」

「どうして?」

「……私、そういうの、苦手」

 まぁ、そりゃ確かに口下手な陸道さんが人の相談に乗っている姿なんて、想像するだけでやる気が削がれる気がする。

「え〜っと、つまり、あんたの友達の友達が変だから、あんたの友達が心配してて、それであんたが……、あれ? 陸道さんの立場がよくわかんないな」

「……私は傍観者」

「見てるだけ!?」

「……見てるだけが、一番、楽しいし楽」

「まるで日本の官僚ぐらい無関心だね」

「……それは偏見、イカンのイ」

「そんな表明されても、何にもならないよ」

 私の言葉に、ふふふ、と珍しく陸道香奈が黒い笑みを漏らす。

 なんだか、彼女と気が合いそうな気がする。一緒に働いてもう長らくたつのに、えらい発見だ。

「でさ、私は今、陸道香奈に呼び出されて、陸道香奈の話を聞いているわけだ。その陸道香奈がどうしたいのか言ってもらわないと、相談に乗るにしても私がどうすればいいのかわからないわよ」

 そう、人間とは行動の指針が必要なんです。

「……私の、希望?」

 何を考えることがあるのか、陸道さんは間抜けた顔で聞き返した。

「そうそう。その友達と、友達の友達との関係をどうしたいの?」

「……私は、世界が平和、なのがいい」

「なんだ、その善人発言は」

 ほのぼのとしていい気もするけど、わけがわかんないよ。

「……私は、善人です」

「悪人はみんなそう言うの」

「……私は、悪人です」

「正直でよろしい。」

「……私、普通がいいの」

「日本人はみんなそう言うの」

「…………あなたは、普通、嫌いなの?」

「好きでも嫌いでもないわよ、そんな役に立たないもの」

 それは身をもって実感している。私はあらゆる意味で普通から程遠い人間だ。だからといって『普通』に憧れるほど考えなしでもない。『普通でない』ことに意味があることもちゃんと知っている。

「……出る杭は、打たれた」

「過去形にしないで」

「……出る杭は、打たれるだろう」

「言うと思った。予言されても困る。そしてあんたは『出る杭は打たれるかも?』と言う」

「…………」

「図星なの……」

「……つまり、私は、何事もない方が、いい」

「唐突に話を戻すのはいいんだけど、正直、私はあんたの話がよくわかんないよ。もっと要点まとめて欲しい」

「……それじゃあ、話を、始めに戻します」

「いや、わざわざ始めまで戻らなくても……。あんたの友達の友達の話しでしょ」

「……どうして知ってるの?」

「いやいや、あんたが話したでしょ」

 基本的なボケを返してくれるのは楽しいんだけど、真面目に話を聞いている立場に立っちゃうと、ちょっと面倒臭い。

 しかし、こいつは本当に私の知っている陸道香奈なのか? こんなボケれる素質があったなんて。いや、知っているとも私は職場で横に立っていただけ。私は陸道香奈についても何も知らなかったということなのだろう。

「…………冗談は、おいといて」

「本当に冗談だったのか怪しいんだけど……。それよりね、その友達の友達がどうして変なのかとか、友達が友達の友達のことをどう思ってるとかあるでしょ?」

「……友達が、言うには、友達の友達は、友達の友達の友達の、ことが、引っかかってる」

「っていうか、わかりにくい!」

 私が強い言葉で言っても、陸道さんは動じない。

「……それじゃあ、話を、始めに戻します」

「戻さないでいい!」

 お、天丼まで使えるとは。陸道香奈、わかってるじゃないの。

「そうじゃなくて、なんていうか、友達とか友達の友達とか言われてもわかりにくいのよね。そうね、それじゃあ、あんたが『甲』で、友達が『乙』で、友達の友達が『丙』で、友達の友達の友達が『丁』」

「……それなら、あなたは『戊』?」

「戊? 戊? 戊って何?」

 マジわかんないんだけど?

「……それは危険、連呼しない、方がいい」

「なぜに?」

「……世の中、知らない方がいい、こともある。……教養勝ち」

 なんだそのテンションの低いガッツポーズは。私は負けたのか? 負けたのか?

「なんだかわからないけど、とりあえず、乙は丙の様子が変なのが心配で、丙が変な原因は丙と丁の関係だって、乙が甲に言ってきたわけね」

「……余計に、わかりにくい」

 それは我ながらに思います。でも世の中こんなんが主流なんだよね。

「確かに。それじゃあABCDで」

「……あんまり変わらない」

 いや、確かにご指摘の通りなんだけど、だったら仮名でも何でもいいからつけちゃって欲しい。

「あ〜もう、とにかく、その知り合いは具体的に何を悩んでるの?」

 その肝心なことがさっきから出てこない。相談事に乗ってあげるのはいいんだけど、話を進めやがれ。

「…………知らない」

「そんなんで、私にどうしろと?」

「……問題解決を」

「出来るか!」

「……やる前から、諦める、のはよくない」

 相変わらずの無表情で私を咎める陸道さん。いや、そんなこと言われても私も困る。

「こら、陸道香奈! されはあんた、私をおちょくって遊んでるだろ!」

「…………そんなこと、ない」

「なぜ目を背ける。こっちを向け」

 お前もか! お前もなのか! 私の周りはこんな奴ばっかだ!

「……目を、合わせたら、魂、抜かれる」

「私は昔のカメラか!」

「……それは、カメラに失礼。写真撮っても、魂抜けない」

「なんて正論!」

 くそぅ、陸道香奈のくせに。

 そう思ったとき、私は何か心に引っかかるものを感じた。陸道香奈とこんなノリのいい会話が出来ている事実が私に違和感を訴える。私の同僚が私の知らない一面を垣間見せたにしては突然で、何とも不可思議だ。何より、私に相談事を聞いてもらおうという態度には見えない。

 いや、そんなことよりも、私というふざけた人間に相談事を持ち込む奴がいるなんて、誰よりも一番、私が信じられない出来事なのだ。

「今日のあんた。何かおかしいわね。……目的は何?」

 私は単刀直入に聞く。突然、私が低い声でシリアス感を演出したというのに、彼女はまったく動じなかった。まるで私がそういう態度に出ることを予想してたとでもいうのか。

「……目的は、問題を解決する、こと」

「問題? その友達の友達っての?」

「……はい」

 陸道さんは力強くうなずいた。

 だから、その友達の友達の相談を私にしたところで、問題が解決するとも思えないんだけど。というか、結局、友達の話って本人、陸道香奈のことじゃないの?

 もし、友達が陸道さん自身だったとすると、陸道さんの友達の様子が変だから心配だと。そして友達にどうしたのか聞いたら、その友達の別の知り合いがトラブってると言った。でいいのかな?

 そう話を変換してみても、詳しい事情がわからないのは一緒で、私にはどうしようもない。

「よくわかんないんだけどさ。詳細がわからないと私もどうしようもないのよね」

「……それは、私も、同じです」

「だっらた陸道さんは友達にもっと話を聞くしかないんじゃないの? それなのに、私にこんな話を持って来て何を望んでいるの?」

 かなり強い口調で私が言ったので、陸道さんは黙り込んだ。

 何を考えているのかはわからないけど、居心地悪そうに下を向いてしまう。しばらく彼女を威圧するように睨みつけていた私だけど、可哀想になってきたので視線を外してあげた。年下とはゆえ、一応会社の先輩だし。

 しばらく彼女が話をしてくれるのを待っていると、ふと彼女が顔を上げた。やっと何を考えているのか話してくれるのかと思ったが、陸道さんの視線は私を通り過ぎて遙か後ろに向かっていた。その目の動きにより、私の背後に誰か来たのだと気がついた。

「そこまでよ、陸道さん」

 凛とした女性の声。私にはその声に聞き覚えがある。反射的にというより、むしろ演技がかって私は振り向いた。案の定、知った顔が仁王立ちで私たちを見下していた。

「河渡先生……、どうしてここに?」

 私の後ろにいたのは、占い師で私の飲み仲間の河渡キリエ。あまりにタイミングのいい出現に私は聞かざる負えない。

 どうやら仕事を抜けてきたらしく、河渡先生は占いの館仕様のオリエンタルな衣装のままだ。そんなファンシーな姿だから、そこら中から視線を思うがままに集めている。

「ごきげんよう、ご両人。何か言いたいことがあるようだけど、先に私の用を済ませてからね」

 そう言うと、河渡先生は私を無視するように陸道さんを見すえる。

「……どうして、ここに?」

 まるでイタズラを見つかった子供のように、気まずい顔で陸道さんはあせり気味だ。ってか、私にイタズラしてたのか!?

「どうしてねぇ。占い師を、この河渡キリエをなめないで頂戴。陸道さん、余計なことはしないように言ったはずだけど」

 ちょっとちょっと河渡先生。本気で眼力使っちゃ可哀想でしょ。相手は一般人だよ。陸道さんがヘビに睨まれたカエルみたいになってるよ。

「……すいません、先生」

 素直に謝る陸道さん。

 あれ? そういえば、陸道さんと河渡先生って知り合いだっけ?

「何を話したのか、大体は想像出来るわよ。その様子ならまだのようね」

 何がまだなんだろ。河渡キリエの言っていることは私には理解出来ない。なんか置いてけぼりで、ちょっちムカってくる。陸道さんも萎縮した様子で小さい体を更に小さくしている。

「興味本位の深入りは禁物よ。そこまでにして陸道さんはお帰りなさい」

「……だって、私も」

「アンタの気持ちはわかるけど、私の言うことが聞けないの?」

「……いえ」

 お〜い。私、いつまで蚊帳の外なの〜。

 何か言いたそうだった陸道さんだが、河渡先生には逆らえないようで、言いつけに従い席を立った。

「ちょっと、ちょっと。何なのよまったく。二人はどういう関係なのよ?」

 たまらず私が声を上げた。どうして私を差し置いて、二人で完結するかな? 私そういうの嫌いなんだよね。

 私の問いに、陸道さんはゆっくりと向き直る。しばし私の目を見た彼女は、小さな小さな、本当に消えそうな小さな声で。

「……先生とは、友達に、なったの」

 と呟いた。そして何事もなかったように、とっとと店を出て行った。

 何だ何だ? 一体どうなってるんだ?

 陸道さんが見えなくなるのを待ってから、河渡キリエは彼女が座っていた席に腰を下す。そして一呼吸つくと、河渡先生は話を切り出した。

「陸道さんね。前にアンタの職場に行ったことあるでしょ」

 そんなこともあった気もする。数ヶ月も前なんでよく覚えてないけど、たぶんそのとき河渡先生と陸道さんに面識はなかったと思う。

「その後すぐにね、彼女、客としてウチに来たのよ」

 あ〜。あちゃ〜。行っちゃったか、可哀想に。普通のOLの陸道さんが数十万はする河渡キリエの占い料を払ったというの?

「それからちょくちょく来るようになって。お得様が増えるのははいいんだけど、ちょっとね」

 ちょ、ちょくちょくぅ! 一体何十万みついだの!?

「それで、ちょっと何なの? 彼女がどうかした?」

「えぇ、ストーカーとまではいかないけど、彼女、私につきまとうようになって」

 陸道さんがストーカー? マジですか?

 私の心配に気づいたのか、河渡先生は「犯罪ってほどでもないわよ」とつけ足した。

 ストーカーというより熱心なおっかけみたいな? どちらにせよ、なんか不穏な空気を感じるのですが、陸道香奈って何者だ?

「彼女、アンタに何か言った?」

「いやぁ、人生相談されちゃった」

「人生相談? アンタに?」

 あの話が人生相談だったかはよくわかんないけど、それほど間違ってもないと思う。

「営業妨害で訴えないでください、占い師様」

「誰が訴え……、でも実際、一回最低二十万だし、損害賠償、払ってもらえる?」

「そんな冗談嫌いです」

「誰が冗談って言ったかしら?」

 だからそういう冗談を止めて欲しい。

「客から大金せしめてる人間が一介のOLにたからないでよ」

「収入の差で人を差別してはいけないと思わない?」

 それは私が言いたい! あんた億ションに住んでるだろ!

「私が出来るのは、このカフェでコーヒー一杯おごるぐらいです」

「あら? おごってくれるの? 珍しいわね」

 そりゃ、河渡先生には飲み屋で何度もたかった身の上です。コーヒーぐらいお返ししても罰はあたらない。

「店員さ〜ん。ブルーマウンテンLLサイズでお願い」

「ちょ、ちょっとまて〜。さりげに二千円オーバーっ!」

「あら? 言われた通りコーヒー一杯よ?」

「よりにもよってメニューでダントツに高いもの選ぶ奴がありますか」

「居酒屋で、メニューに載ってるの全部、って言った人の言葉とは思えないわね」

「うぐぅぅ」

「反論は?」

「……ありません」

「よろしい」

 にやりと笑う河渡先生の顔は、商売用のメイクと相まって不気味そのものだった。占いの館の灯火照明を前提とした濃いメイクは、こんな街中で見ると正直恐い。

「というか、どうしてコーヒーがそんな高いのよ〜。豆なんてどれでも味一緒じゃん」

「アンタは舌がバカだからわからないわよ」

「私のどこがバカですって?」

「ロマネコンティ飲ませても、カップ酒や発泡酒と同じ反応しかしないその舌と、ついでに頭がバカと言ったのよ」

 頭はついでか! おまけなのか! 私だって味の違いぐらいわかります。値段で差別しないだけで。

 そんな会話をカフェでするなんてちょっと新鮮だった。河渡キリエとは飲み屋ぐらいでしか会わない関係だ。たまにはノンアルコールもいいものです。

「この頃、飲み屋には来ないのね」

 運ばれてきたコーヒーをすする河渡キリエは思い出したように言った。

「そんなことないけど」

「嘘おっしゃい」

 ばっさり切られて、私に言葉はない。その様子に河渡キリエは溜息をつく。

「自分ではわからないものよね」

「わかってるわよ」

「そうかしら?」

 河渡先生は胸の前で指を組み、挑戦的な眼差しを私に向ける。

「なっ、何よ!」

「本当にわかっているの?」

「私が何をわかっていないと言うのよ」

 そんな台詞。前にも言った気がする。そう、似たようなことを私は何回も言われている。私は同じことを繰り返しているのだ。

「そんなこと、私の口からは言えないわ」

「言えないって……」

 そのとき、私はハっとした。河渡キリエは「言えない」と言った。「言いたくない」ではなく「言えない」と。

 私はそれに意味を感じた。いくら鈍感な私でも河渡キリエの言いたいことがわかった。私は予習していたのだから……。

「自分で考えろって、そう言いたいの?」

「あら、それぐらいならわかるのね」

 それは、えらいえらいと子供をあやすような口ぶりだった。

「河渡先生。ナシヤって人知ってる?」

「そんな男、知らないわ」

 誰が男って言った! 心優しい先生は律儀に答えを教えてくれる。きっと、ナシヤさんに昔アドバイスしてくれたという人は河渡キリエだったんだ。

 それって、今、私も彼女にアドバイスしてもらっているってこと? もしかして、私「絶対間違ってはいけない二択」って奴を迫られているわけ?

「ねぇ、私、結構やばい?」

 何がどういう状況なのかはわからない。でも、何となくそんな気がした。

 私の発言が余程意外だったのだろう。河渡キリエは目を見開いた。

「……そうね。どう答えたものかしら」

「もったいぶらずに。それぐらい聞いてもいいでしょ?」

 私の懇願に、河渡先生は遠い目をした。私を見るわけでもなく、ひどく寂しい、そんな目だ。

「例えば……、私が陸道香奈だったら、答えられたのかしら」

「それってどういう意味? 陸道香奈なら答えを知っているってこと?」

「でも私は陸道香奈じゃないし、陸道香奈は私じゃない。そんな論議は無用よね」

 ますますわかりません。この世の中、私のわかんないことだらけだ。陸道香奈がどうしたというのだろうか。

 彼女のことを私はよく知らない。思いつくことは、今日彼女に呼び出されたことぐらい。彼女に相談されたことに何か意味があったとでもいうの? 陸道香奈は「友達の友達」が何とかっていう、わかりにくい話しかしていない。


 友達……? ちょっと待て。

 去り際に陸道さん、何て言った? 小さな声で何て呟いた? 河渡キリエを「友達」って言わなかったっけ?

 それって、もしかして、「友達の友達の話」って「河渡キリエの友達の話」ってこと?

 だとしたら、それって私? 河渡キリエの知り合いなんて、私は「私」しか思い当たらない。

 つまり、陸道香奈の「友達の友達が友達の友達の友達が原因で変になって、友達が心配している」という、なんともわかりにくい相談は「私が私の友達が原因で変になって、河渡キリエが心配している」と読み解ける。

 そして、陸道さんは河渡先生に口止めされているのに、私にそれを解決しろと回りくどいことを言ってきたのだ。

 変って。私が変だというの?

 そんなの知ってる。私はいつだって変だ。まともだった例しはない。それなのに、私には変になった原因があるという。

 『私の友達』と表現された人物。そんなのわかってる。九段坂恋歌だ。

 私の前から消えた彼女が原因だと言われたことに私は悔しさを覚える。私が変だとしても、それは私の責任だ。それなのに九段坂恋歌が悪く言われることが許せなかった。

 しかし、私に反論の言葉はない。そんな言葉を口にする資格が私にはない。私は皆に心配をかけている。そうを突きつけられて、私は奥歯を強く噛みしめた。
 




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