プロローグ
*
吹き上げる風は残酷で、乾いた皮膚を打ち据える。
太陽は常軌を失い、灼熱の陽炎を照らし出す。
吹き荒れる砂塵は容赦なく、あらゆる生命を殺(そ)ぎ落とす。
その蒼天に限りはなく、一片の翳(かげ)りも忘れていた。
朝日を見上げ、夕日が沈む。その昼という時、煉獄(れんごく)に似た炎熱の世界が広がる遙々とした砂丘。そして夜になれば静寂がこだまする恒久の岩城。
古来より砂漠という場所は生物を寄せ付けず。土着のものだけが生きることを許された完成された世界。
今、その何人も寄せ付けぬ砂漠の世界に一人挑む者がいた。
いや、正確には行く先を見失い、彷徨っているだけなのだが、必死に生きようと藻掻いていることに変わりなかった。
「ハァ、ハァ、ハァ」
呼吸音は規則正しく繰り返させる。息が乱れていないのは、まだ限界ではないことの証。
しかし、この広大な砂漠をどこまで歩けばいいのであろう。
向かう先もわからず、帰りも道も見失った人の子に待ち受けるのは死しかないだろう。
既に頭上に昇った太陽に毒突く気力もありはしない。ただ黙々と歩くしか術はない。それ以外の行為は、絶対無比なる極限の大地、砂漠を前に全てが無意味だった。
その子供は薄汚れた布を頭から被り、容赦ない日差しから身を守っていた。その下には袖口のない貫頭衣。それに直接肌に巻き付けた帯布が子供の浅黒い肌を包み込む。それはこの砂漠の地エルトに古くから伝わる民族衣装だ。
子供が自らの村を出て既に一週間が経っていた。その間、人どころか小動物すら影を潜め、子供は孤独と闘い続ける。
一面は白く色を失った砂の世界、地平線すら砂で出来ている。
子供は腰から下げた磁針を確かめた。
標点となる物が皆無の砂漠において、その磁針だけが唯一の道標だった。
北を指すはずの磁針が妙な揺れ方をする。大きく振れたかと思えば小刻みに揺れる。
普段見られない磁針の動きに戸惑うが、やがて一所を指し示す。
「ハァァ」
一際大きな息を吐き、子供は顔を上げた。雲一つない青だけの空。白い砂の海と空色の原色に目を打ち抜かれそうだった。
子供は足を止め、肩にかけた水袋を外して水を喉に流し込む。
自らの喉の鳴る音がやけにうるさい。しかし、水袋から流れでる水滴はほんの数滴。もう水は残っていない。
「チィ」
自らの舌打ちが妙に大きく聞こえた。その音も風の音と混ざり合いながら、どこかへと運ばれていく。
ただただ広い砂漠の荒野に一人。
世界でも有数の広さを誇る内陸砂漠、エルト砂漠で旅隊も組まずにいることは単なる自殺行為以外の何物でもない。急ぐ行程とはいえ、灼熱の昼までも進行するなら尚更だ。
それでも子供は歩き続ける。北へ、北へと、ただひたすらに。
「雲……」
それは久方ぶりの白雲だった。
西の地平線の際(きわ)に見えたのは真っ白な入道雲。それが高く天空を目指し伸び上がっていた。
「一雨あれば……」
そうは言っても、事は砂漠の天候である。そう都合よく雨など降るはずもない。
もう幾月も日照りが続き乾ききった砂漠の砂は、風に軽く舞って足元に重くのし掛かる。子供の体力は徐々にだが、確実に消耗していく。
あの太陽が憎らしい。あの太陽さえなければ……。
そう、御神が在すというあの天上から雨さえ降れば、こんなことにはならなかったはずなのだ。
子供の視界には灼熱の空気で陽炎が舞いしきる。地表で熱せられた乾いた空気は、上昇し大気を掻き乱す。
その歪む景色の中、子供はそれを見た。
入道雲の真下に何かある。
真っ白な雲と同じ色で出来た物。
遙か地平線の際にあるのに、まるで雲から垂れ下がるように真っ直ぐ伸び上がった巨大な物。
それは蜃気楼と見紛いそうになるが、子供の目には、はっきりと姿が映る。
「白い……、塔?」
地平線に微かに見えたそれは、砂漠の陽炎と揺れ薄れ、砂漠の遠景に消え失せていた。