第十二章「あなたとわたしは彼女と僕の」


「つまりです。私をさらいたいのなら、もっと誰もいない時に行動を起こせばいいのです。
 尚かつ、さらうという目的には最も不適当な安達郁斗が現れている時に襲いかかるなど非合理的なのですよ。
 結局のところ、真の目的は私をさらうことではなく、悠木有紗が襲われている所を私に見せることだったのです。
 その為に路地裏で安達郁斗が暴れているというタイミングを選んだわけです。
 安達郁斗なら状況も考えずに好戦的な態度に出ることは目に見えています。
 そしてそれを悠木有紗がかばい立てすることも。
 この病院内での話は更に顕著でしたね。
 折角さらった私を研究所ではなく、扉もついていない病室に連れて行くというのはあからさまでした。
 まるで逃げてくださいと言っているようなものです。
 そして逃げ出しても、積極的に追い立てなかったのも。私を監禁し続けても私が出てくる確証はありませんからね。
 今夜、悠木有紗がここに来たのは偶然だったかもしれませんが、潤が逃げ出した後、悠木有紗との合流をするのを待ったのは、敷地内に悠木有紗が侵入したのを知っての処置でしょう。
 それに最終的に悠木有紗が大垣とやらに肩を攻められたのも分かりやすいですね。
 あまり知られてはいませんが、肩の前面には神経が集まっていますで、圧迫されれば激痛が走ります。
 いわゆるツボという奴ですね。傷つけずに痛めるには丁度いいところですよ。
 下手に体幹や頭、首を攻めれば命の危険もありますからね。
 それを鑑みれば、丁重に扱われたということでしょう」

「説明を求めた私が言うのもなんだけど、説明長すぎ。
 それと目の前にいる人間を何度も何度もフルネームで呼ばないでくれる? 他人行儀にも程があるわよ」

 放っておけば何時間でも話し続けそうな藤堂作弥に、悠木有紗が不満の声を上げる。

 そこは安国病院の廊下。十年前に放棄された建物の廊下は物寂しい虚無感が漂っている。
 一歩、歩く度に自らの足音がやまびことなって帰ってくる。
 それが四人となると、まるで輪唱のように不思議なリズムに溢れていた。

 相変わらずの真っ暗な世界に有紗は不快感を覚えていた。
 この闇は十年前に囚われていた闇とは異質のものだ。
 今、目の前にある闇はただ明かりがないという物理的な闇。
 あの病棟にあった闇は、もっと暗くて苦しい寂しさが渦巻いていた。
 あの闇に溶けたら最後、戻って来られなくなる人を喰う漆黒。
 それに比べれば全ての電灯が沈黙を守り、足下さえみえなくても廃墟の暗闇など恐くなかった。
 しかし、足下が見えないという苛立ちが徐々に有紗の中で鬱積していた。

 四人の先頭を行く黒川は、いつの間にか懐中電灯を手にしていて、その無機質な廃墟を照らし出していた。
 そして黒川の横には、先程まで有紗を痛めつけた大垣の姿もある。
 その二人は後ろの作弥と有紗が大声で話をしようと、我関せずで黙々と先に進んでいる。

「おや? フルネームで呼ばれるのはお気に召めしませんか?
 悠木姓にこだわっているようなので、強調した方がいいのかと気を使ったつもりでしたが」

「アンタ、ほんと嫌みな性格ね」

 有紗は藤堂作弥の言いように顔をしかめた。
 直接会った経験がほとんどなく、有紗の知る彼の性格も、正菱からの情報を見聞きしたものしかなかった。

「ええ、私がそういう担当ですから」

 有紗が辟易(へきえき)しているのを感じても作弥は気にした様子もない。

「さっきの話だけど、アンタに私がやられてる所を見せるように、あの二人が仕向けてたのなら、
 昼にアンタがさらわれた後も私が攻撃されたのってどういうことよ?」

「足止めついでに、お灸を据えたのでしょう。
 貴方は少々やんちゃが過ぎるようですから。
 それにある程度本気でやならないと、直ぐ頭に血が上る貴方でも騙せませんからね」

「やんちゃって何よ!」

「おや。日本語ですが、意味がわかりませんでしたか?」

 眉を動かし、作弥は本当に驚いた様子だった。本当に白々しい態度だった。

「それぐらい分かるわよ、馬鹿!」

「おやおや、また怒らせてしまいましたか、やはり私とは相性が合わないようですね」

 作弥は有紗が本当に怒っているわけではないことを知っている。
 潤のどの人格と会話しているときも有紗はこんな感じだ。
 藤堂作弥は柚山潤の交代人格の中でも特殊な存在だった。
 他の人格が現れているときの記憶を完全に保っている。
 作弥以外の人格は他人格の記憶を『何となく』しか覚えていない。
 人格よっては、他人格の記憶が完全に欠落するのだ。
 その差異は各々の人格に与えられた役目によるところが大きいと、藤堂作弥は考えている。

「相性が悪そうだから、普段、私の前に現れないの?」

「それも理由の一つです」

 有紗は普段から気になっていた疑問を聞くが、作弥はその答えを明言しなかった。
 毎日、柚山潤に会っている有紗は、ほとんど会ったことがない人格がいるということに合点がいかないのだ。

「えらく仲がいいんだな」

 そんな二人の会話に、前を行く黒川が振り返りもせず、ぽつりと漏らした。
 誰もいない静かな廃病院で同じ廊下を行くのだ、数メートル距離を取っていてもその会話の内容は筒抜けだった。

「誰がこんな奴と」

 有紗は咄嗟に言うが、それを遮るように作弥が口を挟む。

「えぇ。普段の潤との会話はまるで夫婦漫才のようですよ。
 私は一番近くの特等席で聞かされてますが、全く聞いている方が恥ずかしくなるような仲むつまじさです」

「な、何言ってんのよ! 誰が夫婦漫才なんか!」

「君と柚山潤ですが?」

「あ、あ、アンタねぇ! 自分も柚山潤の一人でしょ!」

「はい。それが何か?」

「……もう、知らないわよ!」

 やはりどこからどう見てもこの二人は仲がよい、と黒川も大垣も納得した。

「で、どこまで行くのよ?」

 有紗は話題を変えようと、前を行く黒川に話しかけた。

「言わずとも分かるだろう?」

 黒川はさらりと答える。それはこの廃病院にある実験病棟の跡地に行くということを示唆していた。
 それは有紗も予想がついていた。しかし、その予想には何の確証もなかったのである。

「でも、あそこは閉鎖したんでしょ?」

「では、どうして君はここに来たんだ?」

 有紗の質問に黒川が質問で返した。
 有紗がここに来たのは、兄の正菱知也が示した黒川の隠れ家リストに、この病院が含まれていたからだ。

 確かに人の踏み入らない廃病院は隠れ家とするのに適当な場所と言えるが、
 この病院には深山浩殺人事件の捜査で警察も入っているし、一度、有紗もこの病院と実験病棟の様子を見に来たのだ。
 有紗はこの病院に黒川がいるとは思いもしなかった。
 しかし、兄の提示したリストの他の候補を調べても、黒川が見つからなかったのだ。
 お陰でこの最終候補地の安国病院跡地に来たのは真夜中になってしまった。

「まさか、実験病棟は十年前に閉鎖してなかったなんてこと言うんじゃないでしょうね?」

「いや、確かに十年前に閉鎖したさ」

 それはそうだ。有紗は日本に帰国して間もなくの頃、三年前に一度、実験病棟の跡地を訪れている。
 確かに全てが撤去され、何もなくなった研究所跡しかなかった。

「来ればわかる……」

 黒川の言葉を最後に一同は黙々と歩くだけだった。

 幾度となく増設工事を重ねた安国病院は中館、西館、東館に別れている。
 深山らしき人間の遺体が見つかったのは外来施設の集中する東館の一階。
 中館にはICUや手術室、検査室や薬剤保管庫などが立ち並ぶ。
 そして西館にはリハビリ室や一般の研究室がある。
 入院施設は全ての館の上層階にあり、そのベッド数も日本トップクラスの巨大病院だった。

 そんな病院に作られた違法な医学研究所である実験病棟は、病棟という通称が付いてはいるが、地下にもうけられた一施設だった。
 他の地下施設として霊安室なども設けられているが、直接行き来が出来ないように区画分けされている。
 中館の特定の階段を下りない限り、実験病棟には入れないのだ。
 そしてその階段を四人は下りていた。その先に実験病棟跡地しかないことを有紗も作弥も知っている。
 ならば向かう先は一つしかないのだが、二人ともその事実を否定したくて仕方がなかった。

 何もないはずの跡地に向かうなど意味がない。向かっている以上意味がある。
 つまり、跡地が行く意味のある場所に変わっている。それを二人は認めたくはない。悠木有紗にも、藤堂作弥にしても、その場所は特別な意味を持っていた。

 一同の前に黒い金属製の扉が現れる。
 懐中電灯に照らされたそれは、一見して扉には見えはしない。
 それは圧倒的な壁。重々しくそこにあるだけでプレッシャーを放つ。
 前にするだけで押しつぶされそうな扉は、有紗が遂この間に見に来たばかりなのに、深夜という時間になるだけで全く別物の異物に見えた。
 それは夜に巣くう怪物、引きずり込まれそうな黒色が訪問者を丸飲みにしようと待ちかまえる姿だった。

 懐中電灯の明かりが無軌道な揺れをみせる。
 黒川が左手に海中電灯を持ち替え、壁際に跪(ひざまず)いたのだ。

「アンタ、何をしてるの?」

 有紗が問いの答えは、黒川の手元から電子音として聞こえてきた。
 暗くてよく見えないが、黒川が壁にある、壊れた誘導灯の中に手を入れて、何かを操作しているようだった。

 鈍い金属音と共に黒い扉が揺れた。そしてゆっくりとゆっくりと動き出す。

 扉の隙間からあふれ出す一段と深い闇を想像していた有紗の目にLEDの軽薄な光が飛び込んできた。
 それはここが廃墟などではない証。人工の施設が稼働していることを物語っていた。

 すうっと黒川が進み出し、扉という境界を越える。そこは廃病院と実験病棟との境界線。
 それを何事もなく超える姿は、この実験病棟にいた者たちから見れば疎ましく思えるものだろう。
 ここに『患者』としていたものなら、躊躇うことなく足が進むなどありはしない。

 黒川が壁に据えられたコンソールを操作すると、全てが瞬くように白く塗り替えられ、辺りを明るく照らし始めた。

「本当に、ここに研究所を作り直したの?」

 有紗が聞いた。
 本当に馬鹿げている。昔は安国病院が病院として営業していたからこそ、実験病棟なる特殊研究施設のカモフラージュになっていたのだ。
 廃墟にそれを再建するなど、目立って仕方がないはずである。

「新たに作るよりリフォームする方が早かった。なにせ時間がなかったからな」

 そう答えると、黒川は廃墟の暗闇から研究所の明るい廊下を進み出た。
 そして作弥に首で奥を指し、ついて来るように促した。

「こんな所に研究所があるって警察は気付かなかったの?」

 深山浩の遺体が発見されて、警察が現場検証をしたのは十日ほど前のことである。
 当然、そのときにはもう、この新しき実験病棟は造られていた。
 警察に発見出来なかったのかという有紗の疑問も当然であった。

「それなりに偽装していたからな。先程お前たちが見た通り、あの扉を閉めれば外から中の様子は全くわからんし、食料や薬剤も十分な備蓄がある。
 衣食住がこの区画だけで済むように作ってある。
 やろうと思えば、気付かれず何ヶ月でも潜むことが出来ただろうな」

「それでも警察が気付かないなんてね」

「有紗も気付かなかったでしょう?」

 作弥の指摘に有紗は驚いた。
 有紗がこの元安国病院の敷地に侵入して、警察の捜査を覗きに来たことは誰にも話していない。
 有紗の行動を監視していた正菱の人間や黒川が知っているならともかく、柚山潤のどの人格にも知られていないはずである。

「どうして知ってるのよ?」

「カマをかけただけですが?」

 作弥はさらりと答える。

「アンタはも〜ぉ」

 有紗は頭をかかえたくなる衝動にかられながらも、中に入っていく三人を追った。

 明るく白い廊下が続く。それは元安国病院の廃墟の暗闇と対をなす世界。
 壁も床も白で染められた空間は、病院という言葉がよく似合う。
 そんな小綺麗な廊下の両脇には段ボールが山積みとなっている。
 しかし、その段ボールは廊下の脇からはみ出ることなく廊下の中央部に絶妙な空間を空けていた。
 それは丁度ストレッチャーの通れる幅。
 ストレッチャーとそれを押す者が廊下を駆け抜けることが出来る最低限の幅が空けられていた。
 それこそが、名ばかりであっても、ここが医療施設であることを如実に示している。

「ちょっと、昔より狭い……」

 有紗は無意識に呟いた。
 昔のことは思い出したくもない。しかし、この場所に再び立って、昔のことを思い浮かべない方がおかしい。
 有紗の記憶する実験病棟はもっと広い印象を受けた。

「面積も部屋割りも変えていない。そんな大規模な工事は出来なかったからな」

 黒川が素っ気なく答える。その言葉に珍しく作弥が反応し、辺りを真剣に見回してから言う。

「有紗君。それは私も同じ感想です。
 つまるところ、ここが狭くなったのではなく、我々の体が成長したということでしょうね」

 有紗と潤がここに『入院』していたのは十年前、小学生の頃だ。
 といっても二人ともまともに学校など行っていない。
 MBAD患者であった二人は生きるだけで精一杯の子供だった。

「一つ聞きたいことがあります」

 これまで有紗ばかりが質問を繰り返していたが、今度は作弥が黒川に問うた。

「新たに作るよりリフォームした方が早かったというのは嘘ですね?
 ここ以外に作れなかったのでしょう? 彼らに目をつけられれ妨害された。違いますか?」

「……察しがいいな。やはりお前は『天才』だよ」

 かなり忌々しそうな口調。黒川は悪態を吐き、作弥の問いに肯定した。

「何? どういうこと?」

 やはり有紗には二人が何を言っているのかわからない。
 これでは有紗が蚊帳の外、最も当事者と思っていた自分が取り残されて、有紗はどうにも居心地が悪かった。

「先程有紗君が疑問に思った通り、ここに実験病棟を再建する利点なんかありません。
 廃墟に人が出入りすれば、それこそ怪しまれます。それなのにこの場所に再建したのには理由があるのでしょう。
 しかし、ここでなければならない利点など私は思いつきません。
 だったら、ここ以外に再建するのが無理だったと考えるのが自然です。
 無理矢理こんな廃墟を利用するしかない状況だったのです。今の貴方には敵が多すぎる」

「私に協力するのが嫌になったか?」

「私はそんなことを気にする人間ではありませんよ」

 その作弥の言葉は、堂々とし、全く恥じることないものだった。
 作弥はそんな利害関係で物事を判断する人物ではない。
 作弥は己が使命を果たすことだけに特化した人格。
 柚山潤の為だけに生まれた存在だ。
 思考は客観的であるのに対して、判断基準は最も主観的なのである。

 その答えが黒川を安心させたのだろう。
 黒川は表情を改めて、そうか、と一言呟いた。
 そして足早にある病室の前に駆け寄り、扉を開けた。

「まずは彼らを見てくれ」

 黒川が案内した室内は、少し光量を落としてあった。
 明るい廊下から見ると薄暗い印象を受けたが、入ってみれば特に暗いこともない。
 室内には八つのベッドが立ち並ぶ。その全てのベッドに子供が寝かされていた。
 照明の変化は患者たちへの配慮なのだろう。

「MBADね」

 分かりきったことだったが、有紗は口にせずにはいられなかった。

 独特の低い唸りを上げる器機が忙しなく表示信号を点灯させている。
 ベッドに寝かされた子供たちは人工呼吸器をつけ、頭には脳波測定のコードが幾束もつながれていた。
 その様子に、十年前の柚山潤の姿が思い出される。
 この部屋に寝かされた子供はみな意識がない様子で、ただただ静かに眠っていた。

「この部屋と同じ規模の部屋があと四つある」

「看護体制は?」

 作弥は室内をぐるりと見回し聞く。それに対して有紗は、ベッドに寝かされた子供に一人一人、静かに近づいていく。
 有紗はその子供たちに自らの昔の姿を重ねているのだ。

「全員、バイタルはコンピュータ管理で監視している。
 全員が意識障害だからな。投薬や身の回りの世話を私と大垣を含め五人で見ている。
 後の三人は有志の協力者だが、今夜は君ら件で人払いしてある」

「研究員はいないのか?」

「今はいない。必要なスタッフはこれからでも集めよう」

 それまで黙っていた大垣が黒川の変わりに答えた。
 彼もまた研究員ではないのだ。明らかに人手が足りない。
 十年前の実験病棟では三十人を超えるスタッフがひっきりなしに働いていた。
 実験病棟の再建という目的は、まだまだ達せられたとは言えない段階だった。

「随分、気の長い話ですね」

「我々はこれでも急いで準備したつもりだよ」

 黒川の眉間に一段と深い皺が寄る。それが彼の言葉が真実だと示している。
 黒川は黒川の最前を尽くしたのだろう。それがどんな結果だったとしても。

「ねぇ、これはどういうことなの」

 その声に振り向けば、ベッドに乗りだして有紗が一人の子供の手を握りしめていた。

「なんでこんなに悪い子が多いのよ!」

 有紗は悲痛な声をあげる。
 有紗は気付いたのだ。MBAD患者の様子が十年前とは異なることに。
 昔は寝たきりの子供なんてほとんどいなかった。いても一人か二人。
 なのに今はこの部屋にいる八人全員が昏睡状態だった。
 そして先程黒川の言った言葉『意識障害』。その言葉に有紗はピンとこなかった。
 それが子供たちを一人一人見ているうちに、その言葉が植物状態を表しているのだと気付いたのだ。

「有紗君。あのときの潤のこと、覚えていますか?」

 有紗は首肯する。
 ここにいる子供たちと同じような潤の姿。忘れられるはずがない。
 虫の息の潤が懸命に有紗に語りかけてきた。彼の優しさにどれだけ勇気づけられたか。
 あのとき潤に会わなかったら、有紗は実験病棟の孤独に耐えられなかったかもしれない。

「末期のMBADは、大抵こうなるんです……」

 珍しく作弥が言葉を濁す。それはMBADの根絶を目指した藤堂作弥には許し難い現実。
 このような患者を出さないために、藤堂作弥は柚山潤の中から現れた人格のはずだった。

 MBADは脳が活性化しながら萎縮するという特異な病気である。
 脳神経が萎縮しても、神経ネットワークが活性化しているので初期症状が表れにくい。
 ある程度病気が進行しなければ日常生活が普通に送れてしまうのだ。
 つまり、自覚症状が出る頃には手遅れになってしまう。
 そして、萎縮した脳内でも神経細胞は懸命にネットワークを広げようとする。
 その矛盾した現象が神経細胞へ過負荷となり、脳神経細胞が連鎖して死滅、最終的に脳死する。
 それがMBADという恐ろしい病気だ。

「だって……、十年前はもっとみんな元気で……」

 泣きそうな声だった。
 MBADと戦った日々、共に懸命に生きた仲間。どんなに苦しくともみんな頑張って生きていた。
 それなのに今目の前にいる子供たちは、皆ベッドに張り付いて全く動こうとしない。
 夜だから眠っている。そんな楽観的な見方を出来るほど、有紗も素人ではなかった。
 明らかに普通の睡眠ではない。

「今は薬で強制的に代謝を抑えている。
 本当は全員、低体温状態にすべきなんだろうが、それでは薬の作用も抑えられてしまう」

「彼らを生かす為ですね」

 作弥が唸るように言った。
 十年前の実験病棟での研究はMBAD治療に革命的な成果を上げた。
 実験病棟が解体した後に、別の研究所が完成させた対処療法も、その実、実験病棟での研究データが水面下で流れ出た結果だった。
 MBADの進行を遅くし、症状の緩和をする投薬治療。それが最新のMBAD治療法だ。

 しかし、この治療法には但し書きがある。『MBADは完治せず、いつかは末期状態に陥る』それを黒川が有紗に伝えると、彼女は奥歯を噛みしめた。

「昔は急激に進行するMBADで死亡していた患者が対処療法で生き残るようになった。
 そして生きれるがゆえに末期患者となる。
 末期となっても投薬を続ければ、脳死まで数年稼げてしまう。
 治療止めて見殺しにするか、緩慢な死を待つ植物状態にするか、現代医学ではその二択しかないのだよ。
 だからこそ、今度こそMBADを完治させる必要があるのだ」

「だからって、あの悲劇を繰り返すの? あの実験病棟で何人死んだと思ってるの!」

 口を挟んだのはやはり悠木有紗。
 実験病棟の生還者としてあの実験で犠牲なった全ての者の代弁だった。
 有紗にはそれを口にする義務があるのだ。

「……仕方がないんだ。MBADは人間にしか発症しない病気なんだ。
 主原因が未だにわからない。動物実験で再現も出来ない。
 脳細胞を培養したシャーレの上でもMBADは起こらないんだ。
 生きた人間の脳で研究する以外にないんだよ。
 実験病棟は仕方がなく作られたもの。MBADを治療するのにある程度の犠牲が必要なんだ」

「ある程度って何よ!」

 黒川の言い様に、有紗がベッドに腕を叩き付ける。
 そこに寝かされた子供の体が跳ね上がり、軽く宙に浮いた。
 有紗は慌てて子供を心配したが、目覚める様子はなかった。

「犠牲は必要ですか……。確かに本来はそうだったかもしれません。
 しかし私の目の届かないところでは別の研究を行っていたようですが?」

 作弥は確かに実験病棟で研究を手伝っていた。
 子供の被験体自身が研究のアドバイザーとなる異様な状況だった。
 しかし藤堂作弥は柚山潤の一人格である。そんな者が研究内容全てを知ること出来なかった。
 そして藤堂作弥の預かり知らぬ所で、患者を本当に実験動物のように扱った人体実験が行われていたのである。

「それについては弁解の余地はない。天才の研究。あれは一部の物が独断で起こしたことだ」

「その台詞は完全な責任転嫁ですね。それこそトカゲの尻尾ではありませんか」

「藤堂作弥、あなたの存在が異常過ぎた……。
 皆、夢を見てしまった。小学生が研究員よりも一歩先を行く見解を持ち、研究を後押しする発想を生み出すあの姿。
 まさに天才だった」

 黒川の言葉に作弥が押し黙る番だった。

「前々からMBADが進行するにつれ、知能指数が上がっていくことは知られていた。
 MBADの病症である脳の活性化の成せる業だろう。
 しかし死んでしまってはその活性化も意味がなかった。皆そう思いこんでいた。
 だから柚山潤に藤堂作弥が現れたときの衝撃は一入(ひとしお)だった。
 MBADの天才性を残して、明瞭な意思が存在するのだからな。
 あそこまでMBADの進行した柚山潤が死なずに、植物状態から抜け出したのだから」

「えっ……?」

 有紗は一つの疑問点に辿り着いた。
 実験病棟のMBAD治療が藤堂作弥の参入によって驚異的に進んだのは、正菱の情報から有紗も知っていた。

 しかしそれでは一つ説明がつかないことがある。
 藤堂作弥の本人である柚山潤もMBADではないか、それも末期の。
 ベッドの上でまるで死んだように横たわる姿を有紗は見ているのだ。
 あの状態でMBAD治療の研究に参加出来たわけがない。
 ならば柚山潤はどのようにMBADから回復したのだろうか?
 藤堂作弥がいなければ研究は進まなかったと言われているのに、誰が作弥を治療したのか?
 そもそもMBADには病状の進行を遅らせる対処療法しか存在しないのに末期症状からなぜ回復しているのか?

 その疑問を有紗が口にすると、藤堂作弥はただ首を振るだけだった。

「藤堂、いや、柚山潤は今でも末期のMBADなのだよ。
 だからこそ藤堂の天才性も保たれている。柚山潤という存在は本当にイレギュラーな存在なんだ」

 黒川の言葉には悲しみの色が混ざっていた。
 確かに潤は人格が解離しているが、彼がMBADの症状を患っている所を有紗は見たことがなかった。

「有紗君。残念だが私には君がこの十年間会ったことのない人格が存在します」

 それは有紗が予想だにしなかったことだった。

「十年間、会ってない?」

「君は私の人格を何人知っていますか?」

「五人よ」

「その五人は、あの病室で君と会話してないのです」

「あの……病室……」

 正菱有紗と柚山潤は実験病棟で同じ部屋にいた時期があった。
 しかし作弥が言う『あの部屋』がそれとは違うのだと有紗には直ぐにわかった。
 そこは有紗と潤にとって大切な出会いの場所。
 そう、有紗が迷い込んだ、潤が寝かされていたあの部屋だ。

「そうです、彼は今でも末期のMBADなんです。
 彼が出て来れないのは、彼が私たちの分もMBADの症状を一人で引き受けているからですよ」

「何よ……それ?」

「これは私の推論ですが、普通の人間は脳機能の一○%以下しか使い切れていないという学説があります。
 それ自体は眉唾ものの学説ですが、人間が脳の全機能を使っていないのは明らかです。
 MBADの私は病気に侵されていない極一部の脳機能を使って人格形成しているのでしょう。
 そしてMBADに侵された本来の柚山潤は……」

 言葉に悔しさがにじみ出る。作弥は明言を避けたが、その答えは明快だった。

「『柚山潤』は今でも植物状態なの?」

「そういうことです。人格解離による病症の分離。非常に奇妙で不可思議な話です。
 それも研究しましたが、結局、再現出来たのはごく少数で成功例は数人です。
 それを治療法とすることは出来ませんでした」

「それも……『実験』したの?」

「えぇ。成功すれば、私のようにMBADの進行はほぼ止まるのです。
 今の進行を遅める治療とは比べ物にならないほど完璧に進行を遅延させることが出来ました。
 ただし、失敗すれば人格崩壊を起こしてしまいますが」

「アンタね!」

 有紗が怒鳴り声を上げる。
 藤堂作弥も研究者側の人間だということを思い知らされて、有紗に悔しさが込み上げる。

「分かっています。ですからその研究は早急に中止しましたよ。私は」

 その刺々しい口調。作弥も憤りを感じているのだろう。
 それはリスクの高い研究を作弥以外が勝手に続けたことを示唆していた。

「その頃からです。あの研究所がMBAD以外の研究を始めたのは。
 MBADの天才性。脳神経の活性化。解離による脳機能の分割使用。
 そんなものを目の当たりにして、欲が出たんでしょうね」

「人工天才の研究……」

 黒川が呟いた。
 十年前、黒川将人たちが研究を始めたテーマ。
 MBADの治療という本来の目的を逸して人体実験に明け暮れた夢だった。

「MBADの神経ネットワークの活性化を正常な人間に引き起こし、脳回路の処理能力を上げるなど、全くつまらないことを考え出したものです」

「それが、藤堂が研究を放棄した理由か、患者でもある君は嫌気がさして当然だな」

 本当に馬鹿なことをした、と黒川は過去の過ちを悔いていた。
 しかし、そんな上っ面の言葉で有紗たちの不信が拭えるものではなかった。

「それも一つの原因ではあるのは確かです。まぁ、私が手を引かなくてもあの研究は潰れましたがね」

「あの内部告発は、藤堂、お前が扇動したのか?」

「いいえ、私は何も。
 しかし。ああなることは予想出来ましたよ。
 何せ正常な人間の脳をMBADと同じ原理で活性化させるのです。
 つまり、それは正常な人間をMBADにするということです。
 健康な人間をわざわざ病気にしてどうするのですか。
 それにMBADの主原因すら把握出来ていないのに、MBADを完全に再現するなど出来るはずがなかった。
 それこそ『実験』じゃないですか。
 正常な精神をもった人間がそんな研究をし続けて耐えられるはずがありませんでした」

「しかし、今回は違う。本当にMBADの治療の研究だ。戻ってきてくれ藤堂」

 そう言うと黒川は深々と頭を下げた。
 先程から会話に参加することのなかった大垣もそれに習い頭を下げる。
 時間が止まったようだった。二人の人間が礼したまま動かず、それを見守る二人もかける言葉が見つからなかった。
 そんな病室に八台の人工呼吸器の排気音だけが鳴り続ける。
 その沈黙を有紗が破った。

「どうして十年が経って今更そんな研究の再開にこだわるの?
 MBADの根本治療は今でも世界中で研究しているでしょ?」

 有紗の疑問に黒川は顔を上げた。
 なんとも言えない表情をしていた。怒りでもなく、悲しみでもない、燻(くすぶ)った感情が見て取れた。

「十年……。その時間が問題だった。
 十年経ったのに、その世界中の研究機関は十年前のこの研究所で開発した治療に毛の生えた程度しか成果が上がらなかった。
 見ろ! その間に、こんなにも末期の患者が増え続けているのだぞ!
 限界なんだ。今の治療法では!
 だから、藤堂! もうお前しかいないんだ。
 被験体は集めた。研究施設も今後充実させる。人も資金も集める。
 お前が十年前に途絶えた研究を再開してくれなければ、今生きるMBAD患者は皆、そう遠くない未来に死んでしまうんだ」

 黒川は勢いに任せ、己が思いを吐露する。
 黒川の望むもの、それは純粋なMBADの治療。
 藤堂作弥ならそれが叶うと信じて疑わない黒川の言葉に答えたのは、やはり有紗だった。

「くだらない! ほんとくだらない!
 何よそれ? そんなのMBAD患者を救うのを大義名分に実験したいだけじゃない!
 人間はいつかは死ぬの。私はずっと、いつ死んでもいいように懸命に生きてきた。
 MBADになってから、死から逃げずに生きてるの。
 死ぬのは嫌だし恐いけど。その為にアンタたちの道具になりたいだなんて思ってない」

 いつの間にか有紗の瞳が濡れていた。
 涙などとっくに枯れたと思っていたのに目から雫があふれ出す。
 MBADの治療法が見つかるのは有紗の願いでもある。
 しかし、その手段としてあの実験病棟が蘇るなど、有紗は到底許せなかった。
 死と尊厳を天秤にかけるなら、有紗は迷わず死を受け入れるだろう。
 プライドなんてちんけなものではない。それは一人の『人間』としての生き方といえた。

「まだわからないのか! 私は道具になったっていい。
 私が味わった苦しみをこれから生まれてくる子供たちが回避出来るのなら。私は喜んで実験台になる」

 ずっと黒川の後ろで控えているだけだった大垣が大声を上げた。
 彼もまたMBADを患った人間だった。MBADで苦しむ人間を一人でも減らしたい。それが大垣の願いだった。

「そんなのアンタの勝手よ!」

 負けじと有紗も声を張る。MBADの根絶という同じ願いを持っていても、二人の主張は全く異なっていた。
 目的の為なら命を捨てる者、手段を選ぶ為に命を賭ける者。
 二人は似ているようで全く乖離(かいり)した路を行こうとしていた。

「それはお前のわがままだ。お前たち成功例は研究を手伝う義務がある」

「成功……例?」

「お前も柚山も投薬なしにMBADの進行がほとんど止まっている成功例だ。
 この十年生き延びたのが何よりの証。
 今、ここにいる子供たちを見ろ! 皆年端もいかぬ子供だろ!
 発症して十年生きている人間なんてここには一人もいない!」

 大垣の宣告に有紗には返す言葉がなかった。
 完全に有紗の敗北だった。治療に成功しているから研究再開に反対出来る。
 そういう卑怯な立場を明確に突きつけられた有紗は押し黙るしかなかった。

 悔しさが込み上げる。大垣の言う通り、有紗が未だに為しえないMBAD治療の奇跡的な成功例なのであれば、有紗の言葉は安全圏からものを言う卑怯者だった。

 そんな有紗をかばうように作弥が一歩前に出た。
 まじまじと大垣を観察すると一言、大垣に問うた。

「君は何歳だね」

「今年で二十八になる。私は四年前に発症した。
 二十四での発症はMBADで最年長になるらしい。
 私は成人してから発症した極めて特異な例だそうだ」

 なるほど、確かに貴重なサンプルですね。と、そうは思っても、ショックを受けている有紗を配慮して作弥は口に出さなかった。

「藤堂、お前は知らないかも知れないが、近年、MBADの患者数が急に増えているのだ。
 それも発症の年齢が上がり始めている。
 十年前は幼児期にしか発症しなかったMBADが今は十代の青年期にも発症するようになっている。
 このままではMBADはどんどん広がり続けるのだ、藤堂。お前もMBADを治療するという本懐を遂げるべきだ」

 黒川の言葉通り、MBAD治療は藤堂作弥の使命である。
 それは十年経っても変わりはしない。変わるわけがない。それこそが作弥の存在意義なのだから。

「……貴方がたの意思はわかりました。しかし私にも、ただ一つ、言うべきことがあります」

 その場にいた者は、作弥が一体何を言い出すのかと、静かに待った。
 だからこそ聞こえたのかもしれない。ドンと小さな音がした。

 それは街中なら普通に無視しただろう特徴のない小さな音。
 しかし、ここは廃墟の地下という場所だ。誰か人間がいない限り、音が鳴るはずがない。
 全員が耳を澄ませると、その音が連続して鳴り始めた。

「なんだ?」

 四人の疑問を代表するかのように、黒川が口走った。
 急に音が大きく鳴る。音は実験病棟の入り口の方から聞こえてくる。
 先程の音とは比べものにならない大音量。
 おかげでそれが衝突音だと分かった。

「見てきます!」

 堪らず大垣が病室を飛び出した。見れば黒川は青い顔をしている。
 音源に心当たりがあるのだろう。作弥も手持ちの情報から音源を予想する。
 そのシミュレートは最悪の結果がはじき出されていた。

「有紗、覚悟してください」

 急に言われても、有紗には何を覚悟していいのやら。
 肝心のことを作弥が言わないので有紗は文句を言おうした。
 しかし有紗の口は開かなかった。なんとなく直感したのだ、作弥の言う覚悟とは、死の覚悟だと。

 質の違う音が混ざり、騒がしく聞こえてくる。そして

「逃げろ!」

 と、大垣の叫びが上がる。
 それは悲鳴に近かった。黒川と作弥の予想が的中してしまったのだ。

「裏口はありますか?」

「非常口と排気口があるが、警察の現場検証対策でまだ封じてある」

 なんて要領の悪い。そう作弥が愚痴をこぼすのを合図に、黒川と作弥は廊下に飛び出した。

 病室を出るのが一番遅かった有紗だが、廊下に出ると、床を蹴り一足で二人を追い抜いた。
 兄、正菱知也の言ではないが、有紗こそ危険に晒されても構わない、他に利用価値のない人間だと自覚していた。
 だからこそ、作弥と黒川の前を行くのだ。

 白き廊下を有紗が駆ける。十年前も、何とか逃げ出そうと駆け抜けた廊下。
 昔は長く感じた廊下も今の有紗の脚力をもってすれば、ほんの数秒で出入口に辿り着く。

 廊下を歩く知らぬ男が目に入る。
 その足下には廊下の端に置いてあった段ボールの箱が崩れ落ち、点滴液らしきパックと梱包材が顔を覗かせていた。

 有紗は急ブレーキをかけ、念のために十メートルほど手前で立ち止まった。

「アンタ誰?」

 有紗が大声で誰何(すいか)する。
 作弥が覚悟しろと言ったのだ。恐らくこの人物が危険因子なのだろう。
 有紗は息を静かに吐き、その男を観察した。

 妙だ。二月だというのにコートも羽織らずワイシャツが妙にはだけている。
 いや違う。はだけているのではなくシャツが破れているのだ。
 この地下施設には空調が効いているようだが、直ぐ外は冷たいコンクリートの廃墟。
 そんな服装で耐えられるはずがない。顔は伏せがちでよく見えないが寒がっている様子もない。

 見知らぬ男から答えが返ってくるかと一呼吸待ったが、どうやら無視された。
 その男は有紗に目もくれず、ゆっくりと小さな一歩を踏み出した。

 有紗の背後から二人の足音が聞こえる。
 有紗はそれに振り返らず、我流の構えで臨戦態勢を整えた。
 どういう男かは知らないが、隙を見せる気にはなれなかった。

「深山! お前どこにいた!」

 有紗の背後から黒川の怒鳴り声。黒川が口にした名に、有紗は目を見開いた。

「深山? やっぱり生きていたの?」

 警察の内部情報によれば、この廃病院の敷地内で見付かった遺体は、深山浩の遺体ではない可能性があるとのことだった。
 そして今、その廃病院の地下施設に深山がいる。
 それはつまり、誰かが深山の代わりに死んだということ。
 そして誰かがその人物を殺したという事実。有紗はきゅっと唇を噛みしめた。

 もう一度その男、深山浩を見据える。
 伏せている頭から隠れ見える顔は、正直有紗が覚えている十年前の深山の顔に似つかない。
 髪の毛は真っ白になり、十年という時を感じさせる。
 手を前後に細かく揺らす様子は貧乏揺すりに似ていた。

 ふと気付く。テレビニュースで聞いた深山の年齢は四十二歳。それほど白髪が進む年齢だろうか?
 それより、様子を見に行ったはずの大垣はどうしたのだろうか?
 先程、彼が逃げろと叫んだはず。彼はどうしたのか。
 その答えは大垣本人の声が教えてくれた。

「逃げて……、ください」

 弱々しい声。
 その声に視線を向ければ、深山の更に後ろ、あの実験病棟と病院区画を仕切る扉に大垣が寄りかかっていた。

 有紗は声が出なかった。それは信じられないものだった。
 大垣は左手をだらりと垂らしている。明らかに肩関節がまともでないことを示していた。
 あの大垣を潰した? 大垣の力は皆知っていた。
 同種の力を持つ有紗でさえ、大垣にダメージを与えたのは全力のパンチ一発。
 それも大垣が避けなかったからであって、十分かわすことも出来た一撃だった。

 いや、そんなことよりも、大垣のもたれ掛かっている黒き扉が、クラインの壷でも作るかのように湾曲しているのだ。
 この実験病棟を外から隔てるその扉は、シェルターのそれと同種のものだ。
 だからこそ、閉じれば中の様子を外から知ることは出来なし、外からも中からもセキュリティーを解除しな限り開けることが出来ない。
 外からの侵入を遮る為、患者の逃亡を防ぐ為、無意味とも思えるほど厳重で強固な扉のはずだった。
 なのにそれがねじ曲がって開いている。
 そんなこと、自らの馬鹿力をもってしても絶対に出来ない自信が有紗にはある。

「深山! なぜ黒川を殺した!」

 返事をしようとしない深山に、再び黒川が叫ぶ。
 黒川が黒川を殺した理由を問うているのだ。そんな状況に、有紗は余計に頭が混乱した。

 やはり深山はそれもにも答えず、顔を下に向けたまま、ふらりふらりと有紗たちに近づいてきた。
 それに、思わず有紗は後退る。
 本能が危険を察知したのだろう。目の前に深山がいても、何が危険なのか論理だって説明する自信はなかった。
 しかし、作弥が覚悟しろと言い。黒川が黒川を殺したと言い。大垣が逃げろと言う。
 そんな男が危険でないはずがない。有紗は唾を飲み込み、出来るだけ冷静を装った。

 まるで何かを思い出したかのように深山が顔を上げた。
 表情が硬い。目の焦点も合っていない。それは明らかに正気の人間の顔ではなかった。
 その唇が細かく震えながら動き出す。

「ま、だいた……。こん……なま、ね、をいつ、ま……で」

 深山の口から零れたのはたどたどしい言葉だった。
 その喋り方に有紗は心当たりがあった。それはMBADの末期患者が途切れ途切れに言葉を口にする姿だった。

「とまれ! 深山!」

 黒川が銃を構える。手にしたのは安達郁斗に対して使った麻酔銃だった。

「迷わず打ちなさい! このままでは危険です」

 作弥が堪らず声を上げた。それに従うように黒川は麻酔銃を撃ち込む。
 胸元に突き刺さる小型注射器が奇妙に揺れた。

「入ってないか!」

 黒川が叫ぶ。麻酔銃は衣服の上からでは有効に麻酔薬を注入出来ない場合がある。
 その場合を考慮して、黒川はもう二発、シャツが破けている腕と肩に麻酔銃を撃ち込んだ。
 それなのに、深山の足取りが止まる気配がない。

「まさか……」

 落胆の声を黒川が上げる。
 薬剤耐性のついた安達郁斗を一発で眠らした麻酔銃を三発喰らって平気だとは、それこそまさかの事態だった。

「アレが三人を殺したのですか?」

 作弥が黒川に聞く。アレとは目の前にいる深山のことだ。
 作弥はもう目の前の人間を、自らの記憶の中にある深山浩であるという認識を改めていた。

「そうらしい。私も確認していないが、恐らく」

 三人。深山と思われていた遺体と黒川をマークしていたという二人の警察官。
 有紗は兄から提供された資料の写真を思い出した。

 あの写真を見れば、まともな神経の者なら一週間は肉料理が食べられなくなるだろう。
 まだバラバラ死体の方がましだった。ぐちゃぐちゃの遺体。そう、そんな擬態語が一番近い。
 身から出る骨とか、人間の骨格では曲がらないように曲がっているとか、中身がシェイクされているとか。
 思い出しただけで吐き気がする。そんな惨劇を目の前の男が起こしたというのだろうか。

 その時、大垣が動いた。
 何の手加減もない、有紗と小競り合いをしていたときと比べものにならない速さの助走。
 その蹴り足を受け止める床のタイルが耐えきれず、ひび割れていく。
 大垣の目には相手を殺しても構わないという気迫がまとっていた。
 そして跳躍。天井ギリギリまで放物線を描き、そのまま両の足で深山の後頭部を弾き跳ばず。

 予想外に、深山は何の抵抗もしなかった。
 大垣の体が跳ね飛ばすまま、真っ白な床に顔面を叩きつけられ、朱のしぶきをまき散らす。
 着地を果たした大垣が、素早く有紗の横まで下がってきた。

「正菱有紗! 手伝え!」

 大垣の顔は蒼白で異常な汗が湧き出ていた。
 垂らした左腕を見れば、肩を脱臼したのではなく、二の腕が折られていた。
 それも単純骨折ではない。二本の骨が原型を留めず、腕の骨格を維持出来なくなっていた。

「ちょっと、その腕!」

 有紗は大垣の腕を指し示すが、当人は先程倒したはずの深山の方を睨み付け警戒を解いていなかった。

「有紗君!」

 作弥の声に、有紗も気付く。あの大垣が全力の助走に全体重を乗せた蹴りを喰らって、深山は意識を失っていない。
 何事もなかったかのように、むくりと立ち上がり、あの焦点の合ってない目を四人に向けた。

「……いたい」

 そりゃ痛いでしょう。有紗は心中呟き、顔をしかめた。
 床にものすごい勢いで衝突をした深山の鼻骨は砕け、鼻血があふれ出している。
 前歯も折れたのだろう。深山の力無く空いた口元に白く見えるはずの物も存在しなかった。

 それでも、起きあがった深山は再び有紗たちの方へ前進を開始した。

「何? 何? どういうこと?」

 ダメージがないはずがない。それなのに立ち上がるのは明確な意図があるはずだ。
 それなのに深山の表情に意思が感じられない。あの深山は何なのだろう。

「大垣、腕はアイツにやられたのね? アイツは敵……?」

「あの男をどうにかしないと、こうなるぞ」

 有紗でも勝てなかった大垣の腕を砕いた深山。有紗は身震いした。

「アイツの目的はアンタたちだけ?」

「おそらく見境ないぞ」

「そうでしょうね……」

 有紗は唸る。深山の様子が尋常ではないのは一目瞭然だった。
 口元が僅かに動き、何か小声で呟いているのが見えるが、何を言っているのかは聞きとれない。
 ゆっくりと前進する歩みも、体を前後左右に揺らし、視線も一定にない。

 そんな深山が立ち止まった。何事かと一同に警戒が走る。
 深山はゆっくりとした動きのまま、足下に散らかっていた点滴パックを手にした。

 点滴パックを持った深山の手が、すうっと上がる。そして胴体の捻り。
 それが投擲(とうてき)の予備動作だと気付いたときには、風切り音だけが通り過ぎた。

 遙か後方で盛大な破裂音。そして液体が飛び散る音が静かに鳴る。
 四人は過ぎ去る物のスピードに身動き出来なかった。
 それは拳銃の弾丸と同じだった。放たれれば最後、目で追うことなど出来はしない。
 運良く四人に当たらず逸れたが、直撃すれば怪我では済まないだろう。

「何……それ……」

 もちろん有紗が筋力全開でボールを投げれば、速球派のプロ野球選手並のスピードボールは投げられるだろう。
 それでも点滴パックのような空気抵抗の大きい物を、有紗も大垣も反応出来ない速度で投げるなど考えられなかった。

「あんな無駄が多い投球動作で百五十マイル以上は出ていますね」

「よく骨格が保つな」

 作弥と黒川が口々に言う。その口調は他人事のように軽薄だった。

「何を呑気に!」

「そうは言っても、どうやら彼の相手を出来るのは大垣と君だけのようですよ。
 私に肉体労働を求めるのは酷という物です。私は安達郁斗ではありません」

「そんなことわかってる! 深山も私たちと同類なの?」

「詳細は知らんが、恐らくは……」

 黒川も深山がどうしてあんな状態になったか知らないと言う。
 深山の身に何があったというのだろうか。

 深山が再び点滴パックに手を伸ばした。あんなもの投げられ続けたら身が保たない。
 大垣と有紗なら咄嗟の反射で何とかなっても、黒川と作弥では一溜まりもないだろう。
 荒事に向かない二人は後ろにさがり、深山から距離をとった。

「厄介ね。……左右同時に行くわよ」

 深山をこのまま放置すれば、作弥にも危害が及ぶ。
 有紗も深山を無効化しなければならないと、大垣に連携の提案をした。
 筋肉リミッタが外れたタイプの力をもっているのなら、異常な速さと馬鹿力があっても二人を同時に相手する器用さはないはずである。

 深山が振りかぶる。それを合図に大垣が素早く踏み出した。
 先程と同じく腕の振りも見えぬ投擲。その瞬間、大垣はサイドステップで飛び退く。
 飛び来る物が視認出来なくても、リズムがわかれば避けるのは難しいことではない。

 予想取りのタイミングで点滴パックは大垣の足下に着弾した。横にかわしてなければ腿(もも)に直撃していただろう。

 点滴液の飛沫(しぶき)があがる。
 床に広がったその液体の上を滑るように有紗が飛びかかる。渾身の突き。
 しかし、それも半ば予想通りに手で受け止められた。深山も反射速度が尋常ではない。

 ドンという低い音が響き。有紗の突きに合わせて放たれた大垣の蹴りも深山に逆の手で受け止められていた。
 その衝撃が砕かれた腕の痛みとなって大垣は顔を歪めた。

 歩く速さはゆっくりだが、やはり深山も反射速度が速い。
 なにより、人間の筋力を一○○%近く発揮出来てしまう二人の攻撃を片手ずつで受け止めて、深山はよろける気配もない。

 深山の腕に力がこもり、大垣の体が浮く。
 掴まれた足が片手で引き上げられて、そのまま有紗の方に叩き付けられる。

「この!」

 有紗は両の足に力をいれて、宙を向かってくる大垣に背を向ける。
 背中に衝撃を感じながら足の屈伸の最大限に使って耐えしのぐ。

 有紗の背に受け止められた大垣は、すかさず有紗を台にして、空いた足を深山の後頭部に放つ。
 直撃。その瞬間深山の首がはじけたように揺れるのが見えた。
 しかし、深山は怯まない。
 掴かんだままの大垣の足を再び引き上げて、今度は壁に叩き付けた。

「がっぁ」

 大垣の肺から、苦悶の息が漏れる。右腕を折られている大垣はまともに受身がとれない。
 その衝撃たるや、壁がまるで豆腐のように大垣の体が突き刺さった。

 有紗はそれを隙とみて、肩から深山に突進する。
 勢いよく踏み込んだショルダータックル。だが深山に直撃するはずの肩が直前で止まってしまう。

 何かに受け止められたと感じ、有紗は押し切る為に重心を更に押し込む。
 それなのに全く進まず有紗の靴底が焦げ臭い匂いを発し後ろに滑り出す。
 そうなって、ようやく有紗は自分の肩の上に深山の足の裏があることを理解した。
 有紗のタックルは足の裏で受け止められ、押しのけられようとしている。

「足ぃぃ、一本でぇえ!」

 全身の力を込めたショルダータックルが軸足一本で立つ深山に押し負けようとしていた。
 有紗も意地で均衡を保つが、気を抜けば吹き飛ばされる圧力に両足の筋肉が軋み出す。
 噛みしめる奥歯が欠けた。

 徐々に徐々に、有紗の体が後ろに押されてしまう。
 押し負けようとも深山を抑えているこの時こそ好機なのだが、まともに頭から壁に叩き付けられた大垣は、立ち上がりもしていない。

「こんちくしょぉっ!」

 力限りの声で気合いを入れるが有紗の筋力は限界だった。
 そこに深山の手が伸びる。有紗の頭は鷲づかみされ、そのまま上から押し潰さんと圧力がました。

「死ねや」

 柚山潤の声だった。
 瞬間、深山の懐に柚山潤が飛び込んでくる。
 その両の拳が深山のボディー、レバー、ジョーと次々に叩き込まれた。
 それは安達郁斗お得意のコンビネーション。藤堂作弥に代わり郁斗の人格が現れたのだ。

 郁斗の連撃のお陰で押し込む圧力が減ったと見るや、今度は有紗が一気に肩を押し込んだ。
 限界まで負荷に耐えた筋肉は負荷を取り去られ、力の全てを運動エネルギーへと変える。
 瞬間体中の筋肉に血液が回るのを有紗は感じていた。渾身の一撃だった。

 深山は弾き出される様に後方に吹き飛ばされる。その距離十二メートル程。
 その空中を行った距離が有紗と深山がとてつもない力同士で押し合っていた事を如実に語っていた。

「苦戦しているようだな、嬢ちゃん」

 郁斗の鼻につく言い様。しかし、助けられた形の有紗は文句のつけようがない。
 実際、あの深山に対して苦戦しているのは間違いない。

 有紗が見ているだけで、すでに大垣が二発蹴りをクリーンヒットさせているにも関わらず、深山に決定的なダメージを与えることは出来きていない。
 そんな深山に馬鹿力のない郁斗のパンチや、密着状態からの突き飛ばしでダメージを負わせたと考えるのは楽観的過ぎた。

 案の定、大の字で床に倒れていた深山は既に立ち上がろうとしていた。

「おいおい、効いてねぇのかよ」

「どうしてアンタには筋力制御異常がないのよ!」

「知らねぇよ。お前とは違う治療法だったんだろ!」

 今更そんな事を言っても始まらない。有紗は息を整えながら次に何をすべきか考えた。
 しかし何も思いつかない。今の有紗は血が筋肉ばかりに回り、思考が全く冴えないのだ。

「郁斗、お願い。時間稼ぐからそこに倒れている人を黒川の所に運んで」

 消去法で決めた。何も思い付かないのなら、作戦は他の人間に考えさせる。
 この深山については黒川が何か知っているはず。だから深山と距離をとる。

「なんでオレが! しかもよりにもよって黒川の所だと!」

 郁斗の気持ちも分からないではない。一番黒川を忌み嫌っている郁斗がハイそうですかと聞くはずがなかった。

「いいからお願い! 後でアンタに抱かれてもいいから」

 突拍子もないことは有紗も自覚していたが、この安達郁斗に動いてもらわないと本当に全員深山に殺されかねない。郁斗が喜びそうなことを他に思い付かなかった。

「はっ! なんでおめぇみてぇなガキ臭い女」

「十九の娘にガキ臭いですって?
 ……知ってるわよ。アンタ面食いだから、私みたいな見た目が綺麗な女性が好みなんでしょ?」

「自分で自分を綺麗って言う奴があるか。
 そんなことでオレが動くとでも思ったか! 古里の野郎じゃあるまいし」

 郁斗も他の人格の記憶が多少あるタイプの人格だった。身の危険を察知して現れる緊急避難型の人格にはその機能が必要なのだろう。

 郁斗の言うとおり、確かにそれが古里沖の役割であり安達郁斗のスタンスだった。
 説得の仕方を間違った。安達郁斗は交換条件ではなく、焚きつけるべきだった。
 有紗は直ぐに反省し、言うべき言葉を見つけた。

「そう、じゃあ深山に勝つために戦術的撤退よ。アイツを倒すために動きなさい」

「誰がお前の命令を聞くか!」

「なら死にたいの? 早くしなさい!」

 有紗の言葉は途端に効果を見せる。郁斗は渋々ながら倒れていた大垣に駆け寄ったのだ。
 安達郁斗は何かに反抗したり、立ち向かう気質がある。
 そして柚山潤のなかで一番死にたくないと考えている人格でもある。有紗はその郁斗の矜持(きょうじ)を利用したのだ。

「嬢ちゃん、死んでるぞ」

「えっ……」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 死んでる、何が? そう問い返す必要もない。
 郁斗が抱き起こした大垣の目は見開いたまま、全く動こうとしなかった。

「首が折れてるな。それに、こんだけ頭かち割られれば誰でも死ぬわ」

 郁斗の冷静な見立てに、何故かしら憤りを覚える。
 大垣が死んだ? たった一度壁に叩き付けられただけで?
 昼に手合わせした有紗だからわかる。大垣がそんな簡単に死ぬような人間ではない。それをたった一撃で……

 どんなに否定したくとも、大垣の後頭部から染み出たらしい血溜まりと、大垣が衝突した壁の盛大な破損状態が真実を告げていた。

「大垣っ!」

 堪らず有紗が声を上げる。確かに有紗は大垣と親しいわけではない。
 昼に初めて会って、ボコボコにされた関係だ。恨みはあっても好意なんて欠片も抱いていなかった。
 意見だって全く食い違った。それでも死んでいいなんて、こんな所で無駄死にしていいだなんてありえない。
 大垣はMBADを根絶できるなら死んでもいいと考えていた。
 それはこんな形の終わり方ではないはずだ。有紗は心苦しさと怒りに心を染めていた。

 当の深山は有紗に吹き飛ばされたにもかかわらず、何事もなく立ち上がり、再び有紗たちに向け、あのゆっくりとした前進を再開していた。

「深山ぁあっ!」

 有紗は吠えていた。

「戦術的撤退だろ?」

 怒りにまかせ飛びかかろうとしていた有紗の手を郁斗が引いて止めた。
 これでは立場が逆だ。血の気の多い郁斗が人を制止するなど普段からはあり得ない行動だった。
 それだけ目の前で人の死を見た有紗は頭に血が上っていた。

「わかってる!」

 悔しまぎれに大声を上げ、有紗は作弥と駆けだした。残念だが大垣はその場に置いて行った。
 今すぐ治療すれば蘇生する可能性もあっただろう、しかし治療時に深山に襲われては元も子もない。
 後方で待機していた黒川にも二人のやりとりが聞こえていたのだろう。物寂しい顔つきをしていた。

「死んだか……」

 黒川の問いに有紗は首肯するしかなかった。

「私の所為だな」

 そう、打ちひしがれる黒川を連れ、有紗たちは扉が開いたままになっていた部屋に駆け込んだ。
 そこは元いた病室だった。扉を閉めると反射的にロックをかけようとするが、鍵が見あたらない。

「なんで鍵がないの!」

「病室に内側からかける鍵はねぇだろ、普通」

 慌てていた有紗は郁斗に諭されてしまう。
 自分がそんなことにも気が回らないようになっていると自覚した有紗は頭(かぶり)をふって、気を取り直した。

「とにかく、あの深山は何なの? ちょっと普通じゃないんだけど」

「恐らく、深山はMBAD治療を元にした肉体異常化の一種だと思う」

 黒川の推論は、この場にいる全員が抱いた予想と同じ物だった。

「深山もMBADだったの?」

「私の知る限りではMBADを発症したとは聞いていない。
 大垣の例もあるので、成人で発症した可能性はあるが、深山はすでに四十を超えている。
 そんな年代の発症は、それこそ聞いていない。とすれば健康体からの人体改造と考えるのが筋だ」

 それこそ、十年前にこの実験病棟で研究していたテーマそのものであった。
 人工天才。それはなにも思考が優れているだけではない。
 運動神経の天才。トレーニングをしなくてもパワーが出せる運動の天才も研究されていた。
 もちろん有紗の体に表れた筋力制御異常が元となっている。

「誰が? 何のために? どうして深山が?」

「私はその答えを持っていない。
 ただ言えることは深山がMBAD末期に特有の『クラザ徴候』に陥っていると考えられることだ」

「クラザ徴候?」

 黒川が有紗の知らない用語を口にした。
 有紗もMBADについては人一倍の知識を有しているが、その言葉は聞いたことがなかった。

「クラザ徴候の研究は進んでないからな。脳信号の混乱が著しく、制御出来なくなる状態だ。
 ああいう風に自らの意思をコントロール出来なくなり、やがて脳のネットワークが電気的異常発散を起こして、オーバーヒートを起こす……」

「オーバーヒートなんて回りくどい表現はやめてよ」

 有紗の口調は、その真実を察していることを物語っていた。

「脳神経が異常信号で過負荷状態になり次々と死滅する。その先にあるのは死だけだ。
 麻酔銃が効かなかったのも、深山にダメージを与えても立ち上がってくるのも、脳が正常に働いてないのだろう。
 痛覚信号も薬品の効能も無視されるほど脳内の異常信号が大きくなっている状態なら説明がつく」

「なら、放っておけばアイツ死ぬのかよ」

 郁斗の声はさして興味なさそうであった。安達郁斗にとって深山がどうなろうと知ったことではないのだ。

「いつかは死ぬだろうな。ただそれが今日明日といった一両日中かどうかはわからん。
 黒川を殺したときからあの状態と考えれば、もう二週間近くあのままなのかもしれない」

 その言葉に有紗は不審の眼を向ける。

「……アンタ何者なの? 黒川将人じゃないの?」

 今、目の前にいる男は「黒川」と呼ばれて一度も否定しなかった。
 しかし、その言葉ぶりは黒川将人と別人であることを示していた。
 黒川と思われていた男は目を閉じ、何かを考え巡らせた後に語り出した。

「……ニュースで深山浩の遺体と報道されていたのが本物の黒川将人だった。
 私も現場を見たわけではないが黒川は深山に殺されたのだろう。
 私は黒川が死に、その意思を継いだ者だ。だからもう私は黒川と同じ存在だと思ってもらえればいい。
 私が誰なのか、君たちにはどうでもいいことだ。
 ……君たちはここから逃げろ。おそらく深山の狙いは私だ。
 黒川を殺し、そして私を殺し、深山も死ぬ。
 それが深山の望みなんだろう……」

「望み? 何よそれ? 死にたいなら一人で死ねばいいじゃない」

 人を殺して自分も死ぬ。そんな心中的思想は有紗には理解出来なかった。

「そう言ってやるな。彼も……」

「オレは知ったこっちゃないな。それより、外の様子がおかしいぞ」

 ずっと廊下の様子を窺っていたいた郁斗が声色を落として言う。
 深山が部屋の前まで来たのかと、緊張したが、その雰囲気はない。ただ廊下で何かしている音が聞こえくる。

 有紗はそっと扉を開けて廊下を覗き見た。
 廊下から聞こえていた音がはっきりと耳に飛び込んでくる。
 何やら鈍く湿った音。深山は廊下で立ち止まり足踏みを繰り返していた。

「ほ〜 なかなか趣味のいい奴じゃねぇか」

 有紗と共に廊下に顔を出した郁斗が軽い口調で言う。しかし直ぐ側で握り潰される扉に気付き、口を塞いだ。
 自らが掴んだ扉が、メリメリと潰されていることなど有紗は気付いていないのだろう。自らが目にしたものの衝撃に、頭が真っ白になっている。言葉も出ない。
 深山は廊下に倒れたままになっていた大垣の遺体を踏みつぶしていた。
 何度も何度も全体重で踏み抜く。とっくに死んでいる大垣を均(なら)すように丁寧に確実に潰していく。
 廊下は飛沫した血が辺り一面に広がり、白かった廊下を鮮やかに染めていた。

 死者への敬意などない。
 人間の尊厳を無視すし、スプラッタを作るのが使命だったかのように深山は黙々と大垣の遺体を潰していた。

「嬢ちゃん。正気か?」

 怒りに打ち震えている有紗の肩が叩かれた。郁斗の言葉に、有紗は首を振り答えた。

「正気じゃないのか、おい? もっとクールに行こうぜ。
 とにかくオレの声は聞こえてるな。オレはとりあえず逃げさせてもらう」

 あの好戦的な郁斗が自ら退くと言う。それだけあの深山が質の悪いバケモノだということだ。

「あれがオレの手に負えないのぐらいわかる。あんなのと、まともにやり合う必要もないだろ?」

「駄目よ。このまま放っておけないわよ。病室で暴れられたら子供たちが危ないわ」

「はん。そんなこと関係ないね。
 オレは行かせてもらうぜ、アイツが死体遊びしてるんなら脇を抜けて逃げるぐらい出来るだろ」

 そう言うと郁斗は扉を完全に開け、本当に逃げようとする。本気で一人だけ逃げようというのだ。

 有紗は咄嗟にその腕を掴む。郁斗の腕に有紗の指が食い込んだ。

「痛てぇよ、おい」

「作弥! 出てきなさい!」

 有紗が怒気を帯びた声を出した。それを聞けば有紗が本気だということが誰にでもわかっただろう。
 もし作弥が出てこなければ、郁斗の、柚山潤の腕が握り潰されていたのかもしれない。

 郁斗の体が崩れるようによろけ、力をなくす。一拍の後に振り返る。
 その様子はまるで糸の切れた操り人形のようだった。しかし直ぐに藤堂作弥の軽薄な笑みに変わっていた。

「そんなコロコロと入れ替わることは出来ないんですよ。簡単に呼ばないでください。体への負担が大きすぎます」

「非常時よ。それくらい、いいじゃない」

 有紗の目つきは真剣そのものだった。それだけこけからやろうとしていることの危険度を認識していた。
 作弥は有紗の顔を見つめ、その考えを察した。

「私も郁斗に賛成ですよ。危険に自ら飛び込むのは賛同出来ません」

「アンタはとっとと逃げればいいわ。その前にアイツを止める方法を教えなさい」

「死にたいのですか?」

 深山はやっと大垣の死体に興味をなくしたのか、三人のいる病室の方へ歩きだしていた。
 その足音はぴちゃぴちゃと赤き液体を飛ばし、気味が悪い。
 後からその廊下を訪れたものは白いタイル張りの廊下に赤い足跡が続く様子に身震いしたことであろう。

「私は私の主義に反することをしたくないだけよ」

 有紗は宣言する。その言葉に嘘偽りはない。

「なるほど。それが君の存在意義ですか」

「お喋りしてる暇はないの! 早く」

「先程の麻酔銃は外れていません。
 その黒川の言う通り脳信号の異常連鎖で、麻酔が効かなかったのです。もう力ずくしかありません。
 方法は三つ。
 肉体を破壊する。
 脳への酸素供給を絶つ。
 エネルギーを使い切るまで暴れさす。
 ただし、」

 作弥が言い終わらないうちに、有紗は飛び出していた。
 ダン、という轟音が鳴る。風に乗るように有紗の体が加速していく。
 地下にある廊下に有紗という風が吹き荒れた。

 その有紗に気付いていないのか、深山は特に反応を示さず前進を続ける。
 その足は大垣の返り血でどこもかしこも真っ赤に染まっていた。

 やりきれない思いが有紗を駆けめぐる。彼は何を思って大垣を殺したのだろう。
 遺体を徹底的にいたぶらなければならない理由なんてあるのだろうか。

 そんなものはない。MBADの人体改造技術が深山を変えたのだ。
 それが深山が望んだことであれ、そうでないのであれ、原因は十年前この実験病棟で始まった過去。
 怨む相手はMBADという病。

「深山ぁぁ!」

 有紗は悲しかった。
 どうしてこうなったのだろう。誰が間違ったのだろう。
 自分たちが生き残らず死ねばよかったのだろうか。
 十年前に柚山潤が死に、正菱有紗も死ねば、黒川将人は天才への夢を見なかったのだろうか。
 人の脳を改造するような発想も生まれなかったのだろうか。

 どんなに過去を想おうとも、今は変えられない。
 今を変えるのは今を生きる人間だけだ。
 十年前に死ぬはずだった有紗は今を変えるチャンスをもらったのだ。

 深山を止める。もう誰も犠牲にしない。
 有紗はその為に命を投げ出すのをいとわない。

 向かってくる有紗を撃退する為に深山が腕を振る。絶妙のタイミング。
 確実に有紗の首を刈るために放たれた一撃だった。

 空気を切る音が後から聞こるが、既に有紗はそこにはいない。真上への跳躍。
 あまりにも急激な切り返しに視界が黒く落ちる。
 それに構わず勘だけを頼りに天井に足を着いた。それでも強烈な跳躍で体の上昇は止まらない。
 その慣性と足の屈伸を利用して有紗は天井に張り付いた。
 その体勢が保てるのは僅かコンマ何秒だっただろう。有紗の反射速度があればその瞬時で事足りた。

 全身をバネにして有紗が伸び下がる。
 重力を利用しての加速。深山の頭上に有紗が落ちる。

 人間には反応の難しい縦の動き。しかも腕を空振りさせた後だった。
 それなのに、有紗が深山の脳天に放った肘が受け止められた。
 有紗の全身の毛が逆立つ。そんな身体能力を作りだした人体改造技術の狂気を感じずにはいられない。

 深山は有紗の体ごと振り払う。有紗の体が浮き、無防備な体勢を深山の前に晒してしまう。
 深山が再び腕を振るおうとしているのが見えた。
 有紗は何も考えず壁に拳を振るう。壁を殴った反動で有紗が体を捻るのと、深山の突きが放たれるのは同時だった。

 台風の突風をイメージさせる突き。全てをなぎ払う力があった。
 直撃は免れたが、着ていたコートが巻き込まれた。有紗は異常な運動量を持った拳に絡め取られるように、壁に叩き付けられる。
 全身に激痛が走ったが、悪い予感がし、有紗は咄嗟に床に転がった。

 それはもう音というものではなかった。有紗が叩きつけられたそのコンクリートの壁に深山の腕が突き刺さる。
 その衝撃破が廊下全体に伝わっていく。
 まるで寺の大鐘をならしたときのような振動が、元安国病院全体に響いた。

 その突きの威力に恐怖するも、有紗はなんとか立ち上がって深山に相対す。
 肩でする息。早鐘を打つ心臓。
 有紗は身体能力の限りを使って深山に向かったが、それは死と隣り合わせの綱渡りでしかなかった。

 深山が壁に刺さった腕を引き抜く。その腕も自身の血で赤く染まっている。
 拳は砕け原型を止めていなかった。そこには白い骨が見え、肉も何もかもが破壊されていた。
 腕の筋肉も断裂を起こしているのだろう。破れた服から垣間見える腕は内出血を起こして変色が進んでいた。
 やはり深山の体も強度は人間のものなのだ。

「深山! やめなさい! そんなこと続けたら死ぬわよ」

 あの黒川は言った。深山自身も死ぬことが深山の望みなのだろうと。
 それは正しいのかもしれない。深山の肉体は確実に傷つき、確実に死へと向かっていた。

「アンタ何がしたいの! 黒川を殺したって何も変わらないわ!」

「ク、ロカワ……、あああああああぁぁ〜」

 深山が唸りとも叫びともとれる声を上げる。
 やはり深山の思考はまともではない。説得が効く相手ではない。
 なんとか力ずくで深山を止めなければならない。彼自身も死んでしまう。

 しかし、有紗の体も限界に来ていた。疲労もダメージも蓄積している。
 こんな状況でなければ既に立っていないだろう。

 有紗の言葉が何か深山の琴線に触れたのだろう。深山は初めて積極的に有紗に向かってきた。
 深山の前蹴りが有紗を襲う。油断はしていなかったはずなのに、有紗の回避行動は遅れていた。

 有紗の細い体が宙に飛ぶ。
 バックステップでなんとか蹴りの直撃は避けられたが、加減する間がなく全力で後ろに跳んでしまった。空中でバランスが崩れてしまう。

 なんとか足を体に引きつけて着地する。
 腹筋を限界まで使い、肋骨が痛み有紗を苦しめる。

「有紗! 動きを止めて」

 潤の声。有紗はその言葉に何の疑問も抱かず、今度は深山に向かって飛び込んだ。

 深山が無造作に腕を薙ぐ。
 もう有紗にさえ反応できないスピード。
 しかし逆にタイミングが読みやすい。そんなスピードで動きを止めるなどエネルギー保存の法則が許さない。
 動き出した瞬間がインパクトの瞬間。後はまともに受けなければいい。

 有紗は真横に跳んでいた。
 急激な方向転換に足の靱帯が嫌な捻れを起こす。そこに深山の腕が追いついた。

 喰らうことを覚悟しれいれば!
 有紗は歯を食いしばって、深山の腕を押さえ込む。受け止めた有紗の腕が軋みを上げる。

 バチン、とゴムが切れたような音を有紗は聞いた。
 その音、知っている。有紗も幾度となく聞いている。筋肉が切れる音。

 自らの体に限界が来たのかと有紗は心配したが、有紗は深山の腕をしっかりと受け止めていた。
 深山の腕に力がない。引き千切れたのは深山の筋肉だった。

 これならなんとかなる。そう有紗は思ったが、深山の腕は力強さを失っても有紗をはね除けようと有紗を薙ぎ続けていた。

「くっ、まだこんな!」

 有紗は全力をもって押し返す。人間の筋力限界同士の力比べ。
 筋音が聞こえてきそうな脈動。両者の筋肉は痙攣を始める。それでも二人とも退こうはしなかった。

 幾度目となる力比べを有紗は覚悟した。
 しかし、不意に深山の力が抜けた。

「有紗、離れて」

 気が付けば、潤が深山の背後に取り付いて、首を絞めつけていた。

 脳への酸素供給を絶つ。先程作弥が言ったことだ。
 それを自身が実践しようとしている。しかし、潤の表情は作弥の不敵なものとは違い。
 無表情だった。深山に取り付いている潤が誰なのか、有紗にはわからず混乱した。

 深山は頭を左右に振りかぶり潤を剥がしにかかる。
 まるでロデオのように潤の体が跳ね上がるが、必死に首にしがみついて放さない。

 首を締め付けている腕を掴んで引き剥がせばいいものの、深山はまるで子供が駄々をこねるように体を振るだけ。はやり深山は冷静な判断が出来る状態ではないのだ。

 このまま首を締め付ければ、この手に負えない深山の意識を奪うことが出来る。
 そう有紗は思ったが、その考えは首を締め付けている潤自身の声で否定された。

「首が硬すぎて、効いてない!」

 その言葉を証明するように、深山は潤に肘鉄を食らわせる。
 深山は潤の締め付けも首の異常な筋力でガードしていたのだ。

 潤の顔が歪む。普通なら腰を回さない手打ちの肘など耐えることは簡単だが、筋力が異常な深山が打ち出す肘は、潤を悶えさせるには十分な威力があった。

「この!」

 潤をサポートするため有紗が深山の腕を掴みとる。それなのに深山の動きは止まらない。

「腕、痛くないの!」

 有紗の疑問はもっともだ。先程重度の筋断裂をおこしたはずの深山はその腕を振るい続ける。

 深山が一瞬、重心を落とした。

 まずい! 深山を抑える二人は心中叫んでいた。

 深山が跳ぶ。
 有紗ですら体験したことのないGが二人を襲う。
 もう慣性に耐えるというレベルではない。飛び上がった瞬間、潤を引き連れて深山の体が天井に叩き付けられた。

 あまりの衝撃に、潤は深山の首を解放してしまう。有紗も深山の跳躍に巻き込まれてしまい、宙に投げ出され、既に受け身をとる余裕はない。
 コンクリートの壁に叩き付けられ、その衝撃を一身に味わった。

 一瞬の後、深山と潤が着地する。
 深山はその四肢で降り立った。対する潤は気を失っている様子で、まともに床に墜落する。

「潤!」

 有紗が叫ぶが、倒れた潤に反応はない。
 外傷はないようだが、深山がいる側で気を失うなど、そんな危険なことはなかった。

 有紗が潤をかばう為に飛び込もうとした。有紗と深山の視線が交わり、時が止まる。
 すると、くるりと深山が方向転換した。そしてまたゆっくりと歩き始めた。

 一瞬、何が起こったのか理解出来なかったが、直ぐに深山が黒川の元に向かっているのだとわかった。

「どうして? どうして邪魔をしている私たちを無視して黒川に固執するの?」

 深山はもちろん答えない。そのまま歩みを続けるだけ。
 しかし、気が付けば深山の小声の呟きは無くなっていた。

 有紗は気付いてなかった。知っているはずなのに忘れていたのだ、あの黒川が黒川将人ではないことに。
 あの男が深山に狙われるには理由があったのだ。

 有紗は深山を追おうとした。しかし足に力が入らず尻餅をついてしまう。
 上がった息が静まらない。全身の痛みがここにきて一段と増していた。
 体力、気力とも限界だった。急激に異常な空腹感が有紗を襲う。
 また、エネルギー切れの症状だ。床に両手をつき、倒れるのだけは何とか避けた。

 目の前に気を失った潤がいた。
 胸部がゆっくりと上下に動き、生きていることを示していた。

「結局、私は無力なの……。昔も、今も……」

 力があるはずだった。MBAD治療の副作用。望んだわけではない筋力異常。
 どんな人間よりも速く力強よい体があっても、有紗は何も出来なかった。
 泣くことしか出来なかった実験病棟の日々と何が変わったというのだろう。
 十年の時を経て、有紗は再び自分の無力を嘆くしかなかった。

「深山……」

 見れば、黒川が深山の前に立ちはだかっていた。

「やめにしよう」

「ま……び、し」

 黒川の言葉に深山が反応した。彷徨っていた深山の視線が黒川だけを見据える。

「お前は十分やった。誰もお前の罪を責める者はいないさ。
 見ろ後ろの二人を。柚山潤と正菱有紗だ。彼はまだ生きているんだ」

 深山が言葉に従い振り向いた。その素直な動きに有紗は驚きを隠せない。

 虚ろな目に有紗と潤が写る。その瞳はとても寂しい色をたたえていた。
 無表情な深山の顔は、不思議と笑っているように見えた。

「ああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっっっ!」

 その咆哮は廃病院の廃墟、全てを揺るがすようだった。
 後頭部を揺るがす叫びに、耳を塞がずにはいられない。それでも全身が毛羽立つような振動を感じる。

 叫びを終えた深山は、早く浅い息を繰り返す。

「深山?」

 黒川が心配の声を上げた。その返事は腹に突き刺さる突きだった。

「あっ……」

 有紗は動けなかった。疲労から体が動かないこともある。
 それ以上に、あまりの事態に指一本動かす暇はなかった。

 ダンプカーにでも跳ねられたように、黒川の体は軽々と宙を行った。
 病室の扉を突き抜けて錐揉みしながら床を転げ行く。
 扉をぶち破ってもなお、十メートルはある部屋を一直線に縦断し、壁に当たってようやく黒川の体は停止した。
 誰が見ても大怪我は免れない。いや、そんな運動エネルギーを黒川の体に与えた突きだけで、十分致命傷だった。

 深山はそれに飽きたらず、黒川を追って病室へと歩いていく。

「クソぅ」

 有紗は気合いの言葉を吐く。
 病室の中で暴れたら、生きているか死んでいるかわからない黒川だけでなく、患者たちが巻き込まれる。
 有紗と同じMBAD患者が危険に晒される。それは絶対にさせられない。
 有紗の想いが、ボロボロの体を立ち上がらせる。

 もう体は中も外も傷だらけだった。それなのに、まだ立ち上がるなんてどうかしている。
 そう思っても、深山を止めたいんだから仕方がない。
 有紗はもう、深山にも黒川にも、誰も死んで欲しくないのだ。

 有紗の体は力無い駆け足で病室に向かう。もう無駄に使う体力はない。
 無理を出来るのはあと数回だけだと、有紗にも分かっていた。

「止まれぇ! 深山ぁ!」

 叫びながら有紗は跳んでいた。深山の頭上を通り越し、病室の奥に倒れたままの黒川の側に着地する。
 黒川に目をやれば、意識はあるものの既に虫の息だ。治療をしなければ確実に死んでしまうだろう。

「深山、アンタどうしてそんな体になったの? そこまでして研究を止めたかったの? アンタ何がしたいの!」

 有紗は心の限り、深山に問いかけた。
 あと数歩という所まで深山は迫っていた。
 広くはない病室。左右には子供たちが寝かされたベッドが並ぶ。

 有紗は覚悟を決めて深山に向き直った。
 すると、ゆっくりとだが確実に歩みを進めていた深山が立ち止まった。

「あ、あぁ」

 深山が声にならない音を口にする。
 何か伝えたいことがあるのだろうか。そう思ったとき、深山の両の瞳から涙が零れだしていた。

「どうして……泣くの?」

 有紗が聞いた。

「おま、ぇ……、は……ど、て……ぶ、じな……」

 深山の声を真剣に聞き取ろうとした。
 しかし、その意味は有紗には理解出来るものではなかった。

 深山が腕を振りかぶる。既に筋肉が切れたはずの手がゆっくりと持ち上がり、そして再び有紗に放たれた。
 見る影もなく遅いパンチに有紗は拍子抜けする。

 それを有紗は手のひらで受け止めた。

「えっ?」

 有紗の体が押し込まれる。遅く力無いはずの深山の拳が重い。異常に重い。
 有紗は力を入れ直してそれに耐えた。

「はぁぁぁぁぁ!」

 有紗は気合いの声を上げ、押し返す。

 深山が逆の手を伸ばしてくるが、有紗は素早くその手首をつかみ取り、力比べの体勢をわざと作り出した。
 その間も深山はずっと涙を流していた。

 一歩、有紗が押し込む。深山の足が滑り後退を始める。
 このまま病室の外に押し出す。有紗は力を振り絞って地面を蹴った。

 いくら疲労とダメージがあるとはいえ、有紗の馬鹿力は健在だ。
 それに押されたのなら、大型トラックだって動かざるを得ないだろう。
 それなのに、深山は僅か一歩下がっただけだった。

 リノチウム張りのタイルが高い音をたたてひび割れる。
 鉄筋コンクリートの地下室が軋みを上げているようだった。
 二人は一体どんな力で押し合っているのだろう。それは当人同士にしかわからないことだった。

「こなくそぉぉ」

 有紗が更に一歩、前に出る。
 それを切っ掛けに急に深山の力強さが増した。その目には有紗の後ろに横たわる黒川が写る。

 深山は今まで殺した人間たちと同じように、黒川も痛めつけ、無惨に殺そうというのだ。
 その心意に有紗は気付き、絶対に道を譲れないと心に決めた。

 有紗にこの深山を倒すことは出来ないだろう。
 はっきり言って、もう有紗の足は飛び跳ねることは出来ない。
 出来たとして、そのスピードは今までよりは一段も二段も劣るもの。首を絞めて落とすという方法も潤が試みて失敗している。恐らく有紗の力でも結果は同じだろう。
 もう有紗に出来ることは一つしかなかった。

「アンタ! 飯いつ喰ったぁぁ!」

 限界まで出す力に、腕も足も全身が痙攣(けいれん)しながら有紗は押し返す。
 有紗の最後の勝算だった。
 有紗たち筋力異常の体は、筋力が出る代わりにエネルギーを消費しやすい体だ。
 出す力が大きければ大きい程身体のエネルギーを消費する。
 これほど馬鹿力を出し続けている深山はとっくにガス欠のはずだ。

 こんな正気を失っている状態の深山が、まともに食事をとっているはずがない。
 そして、有紗は潤からもらったチョコレートを先程食べていた。

 たったそれだけの差。
 それが今の有紗にある全ての勝算だった。
 作弥も言っていたではないか、エネルギーを使い切るまで暴れさす、と。

 有紗はわざと深山と力比べをし、体力勝負に持ち込んだ。
 息をする暇もない。押し続けなければ押し負ける。
 押し負ければ、深山に攻撃する間を与えてしまう。
 もう鋭敏な動きの出来ない有紗はあと一撃食らえば耐える自信が全くない。

 これで深山が止まらなければ有紗も殺されるだろう。
 唯一の救いは廊下に潤を残してきたこと。今のうちに郁斗辺りが目を覚ましてくれれば無事逃げられるだろう。

「うぅぉおおぉぉ!」

 有紗の筋肉が切れ始める。ブチブチと嫌な音が体内から聞こえてくる。
 それは一生トラウマになりそうな最悪の感触。
 しかし筋肉が耐えきれずに切れ始めているのは深山も同じだった。

 それはいきなりだった。
 突然左側が真っ黒になった。電気が消えた? いや、右側は明るいままだった。

 間近で見た深山ならわかっただろう。有紗の左目の眼球が真っ赤に染まるのを。
 全身全霊で力を出し切る有紗の血流は限界に達し、弱い毛細血管まで切れ始めたのだ。
 そしてそれは眼球も例外ではなかった。

 しかし、有紗はそれで怯みはしなかった。それが失明する可能性のある危険な状態であるとわかっていても、有紗は一歩も退かず深山を押さえ込んでいた。

「な、ぜ……?」

 深山が問う声が聞こえてくる。
 その声が本当に深山の口から発せられたのか有紗にはわからない。
 深山の力は全く弱まっていなかった。

 なぜ? どうして?
 そんなこと有紗が聞きたいことだ。
 いくらでも問いたいことはある。
 十年前のこと、今のこと。
 何を思ったのか?
 どうしてこうなったのか?
 それでも有紗は今問いたいとは思わなかった。
 今したいことはたった一つだけ。
 なぜと問われれば答えは一つしかなかった。

「アンタもぉぉ! 助けたいからでしょぉぉお!」

 クラザ徴候が出ているという深山。黒川はこのままでは深山も死ぬと言った。
 逆に言えば、今すぐ安静にして治療すれば、深山だって助かる可能性がある。

 だから、有紗は深山も助けたい。
 深山に止まって欲しい。
 誰かが死ぬなんて見たくない。

 乾いた衝撃音が有紗に響いた。
 遂に脳の血管まで切れた、そう思った。
 しかし、その音が鳴って深山の体が不思議と軽くなった。
 続けてもう三発、音が鳴る。その音の正体に気付いて、有紗は声を上げた。

「黒川! アンタ!」

 振り向けば黒川が床に倒れたまま拳銃を握っていた。
 更にもう一発、黒川が発射するのが見えた。

 有紗に血の雨が降り注ぐ。銃弾は全て有紗の頭上にあった深山の顔に当たっていた。

 有紗には崩れる深山の体がスローモーションの様に見えた。
 あれだけ力強さを誇っていた深山が玩具のように崩れ去る。

 どんなに馬鹿力を誇っても体の強度は並の人間しかない。
 打撃に対して筋力を使って防御出来ても、銃を何発も顔に打たれて耐えれるはずがなかった。
 反応速度をもって避けることが出来なかった力比べという現状が、深山を撃つ隙となったのだ。

 放たれた銃弾は頭蓋骨を貫通していた。
 有紗が崩れゆく深山の体を支えたときには、彼はもう死んでいた。
 筋肉の痙攣だけが深山の体を動かしていた。

 余りにも簡単な死。
 助けたいと願ったのに、そんなことも叶わないなんて……。

「どうして殺した!」

 有紗は深山の体を床に寝かせると、黒川を問いつめに駆け寄った。

「答えなさい、黒川! どうして殺したの!
 私が! ……黒川? 嘘でしょ?」

 黒川の顔に生気はなかった。まだ銃を握っているがその手は力無く垂れていた。

「アンタまで死ぬの! ちょっと! MBADを根絶するんじゃないの! アンタ!」

 黒川は有紗の声に、口元を緩めて笑った。

「……い、きろ」

 それが黒川を継いだという、黒川ではない男の最期の言葉だった。

「何よそれ……。なんでアンタたち、みんなそんな……」

 有紗は泣いた。人目を憚(はばか)らず号泣した。
 実験病棟で涙は枯れたとか、そんなのは大嘘だった。
 人間は悲しければいつだって泣けるのだ。
 有紗はもう我慢しなかった。
 大粒の涙が彼らの手向(たむ)けになるのなら、有紗はいつまでだって泣いただろう。

「有紗君……」

 潤が有紗の肩に手をかけた。その人格は藤堂作弥だった。

「彼は深山を楽に死なせてやったんですよ。
 銃で頭を撃つのが深山にとって一番楽でしたでしょう」

 作弥の声は優しかった。今有紗の目の前で屍となった男を誉めてやったのだろう。

「クラザ徴候が出ては助かりませんから」

「……助からない?」

「私の知る限り、クラザ徴候から脱した症例はありません。徴候とは死への徴候です。
 彼は最後の力を振り絞って、自らを殺した相手を安楽死させてやったのです。
 クラザ徴候からの脳死はいつまで経っても死にきれない、つらくて酷い死に方ですからね……」

「そんなの、あんまりよ……」

 作弥は握ったままになっていた黒川の手から銃をはずし、胸の前に添えてやった。
 そして黒川と名乗った男にそっと語りかけた。

「君は私を天才と呼んだね。
 十年前、私は天才だからMBADの研究のアシストを出来たわけではありません。
 だってそうでしょう? 十年前私はまだ十に満たない子供だったんですよ。
 いくら記憶力がよく、頭の回転が速く、発想が斬新だからといって、私には全く知識も経験もありませんでした。
 私が有していた知識は黒川や深山、実験病棟の職員が口にしたものが全てだったのです。
 私はあの場にあった情報しかもってなかったのです。
 ですから、いつかは彼らが成果を上げていたのでしょう、私がいなくても……。
 私は自分が天才でなかったことを知っていた。
 私は単に背伸びした子供だったのです。
 私は君たちに天才と呼ばれる資格がありません。
 本当の天才は私に有益な情報を与えた黒川将人たちだったのです」

 有紗は名残惜しそうに言葉を紡ぐ作弥を、だたずっと見つめていた。

「作弥、この人のこと知っているの?」

「顔は覚えていません。ただ、該当する人物を一人知っているだけです」

「誰なの?」

「……不確定なことを言いたくありません」

「アンタ、嫌みな上にケチなのね。
 ……どうして深山はああなったのかしら?」

「恐らく、投与したんでしょうね」

「何を?」

「さぁ、少なくとも私は知らないモノですよ。私は本当にこの十年間ほとんど寝ていたのだから」

「たまには出てきてるんでしょ?」

「ええ、潤の調子のいいときはね」

「どういうこと?」

「私は脳の使い方が他とは少し違うので、疲れるんです。
 私は他の人格の記憶も共有しますので解離障壁が揺らいでしまうのです。
 それはとても脳に負担がかかる。
 というわけで後は頼みますよ、有紗君」

「頼むって何がよ?」

 そっと潤が有紗に寄りかかる。
 潤の頬が有紗の肩に当たり、そのまま体重を預けてきた。

「ちょっ、何、何よ! いきなりやめ……」

 慌てた有紗は右往左往するが、動かなくなった潤の寝息に気付いた。

「何それ……、疲れたから寝るって? 後よろしくって?
 まったく何考えのよ!」

 悪態を吐く有紗。文句は言っても言い切れない程あった。
 しかし、回りをみれば二人の遺体。それも他殺体が二つだ。
 それに廊下には大垣も死んでいる。
 そして、これだけの騒ぎがあったのに全く目覚めることのないMBAD患者たち。

 静かだ。相変わらず鳴り続ける人工呼吸器以外に誰も動くものがなかった。

「とりあえず、ここから離れた方がいいわね。後で警察、呼ばなくちゃ」

 気分が重い。体も重い。
 大変な事件に首を突っ込んでしまった反省の念が有紗を鬱な気分へと誘っていく。
 有紗は誰も救えなかった。しかし、潤が生き残った。それだけで嬉しかった。

 有紗は潤の体を背に乗せて立ち上がった。全身のダメージが有紗の足をふらつかせる。

「あ〜も〜。体中痛いわねぇ。どうして私がこんな目にあわないといけないのよ」

 有紗の弱音が廃病院に響いている。
 その声も足音も徐々に聞こえなくなり、血に塗られた廃病院に本当の静寂が戻ってくる。

 そこは十年前に放棄された廃墟。本来なら誰も立ち入ることのない、忘れ去られた研究者たちの夢の跡。
 有紗たちが去れば、幽玄の眠りを続けるMBAD患者しかいないはずだった。
 しかし、その地下施設に生気ある人間二人が、いつの間にか現れていた。

「まったく派手にやってくれたな」

 忌々しそうな声を上げるのは有紗の兄、正菱知也だった。
 まったく似合っていないサングラスがずれては直し、ずれては直し、一人で苛立ちを深めていた。

「遺体、並びに患者の搬送を手配します」

 知也に付き従っていたのはやはり惣我景子だった。
 彼女は携帯電話を取り出して指示を出していた。
 廃墟の地下なのに電波が届くのか心配する人間はここにはいない。

「ああ、急いでくれ。ここは完全撤収だ。警察に情報を与えてやる必要はない」

 病室の中央で脳髄を垂れ流して死んでいる深山を見つけると、知也は足先で揺り動かした。
 もちろん遺体となった深山がそれに反応するはずがない。その肉体は、まだ僅かに痙攣を残していた。

「深山に与えた薬品は?」

「Iライン系受容抑制のバージョン4Eです」

 景子はそう答えつつも、念のため手元の資料をめくり確認を取っていた。

「これで成功なのか? どうも使えるようには見えないが」

「仕様は満たしています」

「バカヤロウ。仕様は満たすものじゃない。超えるものだ。何度言ったらわかる」

「申し訳ありません、以後気をつけます」

「深山の死体、丁重に扱え。大事なサンプルだ」

「はい、開発部に回します」

 今の会話を有紗が聞けば、その場で怒りのあまり、知也に襲いかかっていただろう。
 それは知也たちも理解していた。だからこそ、有紗には必要以上の情報を与えていなかった。

 妹の気持ちを鑑みるなど知也の思考にはありはしない。
 金になるかならないか。ビジネスにならない矜持など正菱知也は持ち合わせていない。
 その足が今度は黒川と名乗った男に向いた。

「本当に犬死にだな」

 知也は黒川の前で膝を付き、その顔を正面に向けた。
 すでに心臓は動きを止めて、完全な死体となっていた。
 深山に殴られた腹は内臓が破裂して、腹内で大量の出血をしたのだろう、全く血の気がない死に顔だった。

「そんなに妾(めかけ)の娘が可愛いか?
 黒川が深山に殺されたときに諦めればよかったものを。
 黒川に成り代わり研究を続けようとしたのは、有紗の為だろう?
 アイツも今は安定してるが、いつ死んでもおかしくないMBAD末期だ。
 有紗の為にMBADの治療法が欲しかったのだろ? まったく馬鹿なオヤジだ……」

 知也は踵(きびす)を返し、それきり見向きもしなかった。
 景子と共に病室を出る知也は、思い出した様に呟いた。

「しかし、いいタイミングで死んでくれた。今回の件で正菱を完全に治めることが出来そうだ。
 礼を言うよ、私の可愛い妹」

 知也の口元は卑猥に笑っていた。


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