第六章「安達郁斗(あだち・いくと)の場合」


 はっはっはっは!

 オレに一発入れるとは、思ったより骨があるじゃねぇか!

 口内に広がる血の味が懐かしい。
 パンチ力は申し分ない。おそらくボクサー崩れだろう。
 ただ、ちょっと脆(もろ)すぎる。俺が数発入れただけで転がるなよな。

「許して…く、れ」

 はっはっは、何言ってるんだコイツ。
 許すも許さないも、お前が勝手に喧嘩を売ってきただけじゃないか。
 オレは買っただけだぜ。
 折角手加減してやってんだ。オレをもっと、もっと、もっと、もっと楽しませろよな!

 そこは繁華街を二本奥に入った路地裏。忙しない雑踏の気配は薄れ、オレたち以外に人の姿はない。
 街の死角、それこそオレのような人間にはお似合いの場所だ。

 この安達郁斗様にお約束のように喧嘩をふっかけてきたチンピラ三人は見事に川の字に伏している。
 アスファルトに転がった男たちは抵抗する気も失せたのだろう、呻くだけの血袋になっていた。

 無抵抗な奴をいびるのはオレの趣味ではない。ヒイヒイ泣き叫ぶ反応を見るのが楽しいんじゃないか。
 オラ、もっと抵抗しろよ。命乞いして見せろよ。根性見せろや!

 オレの楽しみを奪うかのように、男たちは声すらあげなくなってきた。

 しゃーね。反応が楽しめないなら。骨の軋みでも味わわせてもらおうか。
 骨がストレスに耐えしなる感触は、アレでなかなか面白い。
 特に柔らかい肋骨が歪み内臓を揺らす弾力は、オレの心の清涼剤みたいなもんだ。

「やめなさい!」

 凛と通るしなやかな声が耳に入る。
 足の裏で内臓の感触を楽しむオレに意見するその声には聞き覚えがあった。

「久しいな嬢ちゃん」

 振り向けば路地裏の入り口に女が立っていた。
 ニット帽を目深にかぶり顔は伏せがちだが、オレが見間違えるはずもない。あの女だ。

「足をどけなさい」

「オレの邪魔をするのか? 何のマネだ?」

「あら? 今までアンタの邪魔以外、私がしたことある?」

 はは、強がりやがって。俺に何回泣かされたと思ってるんだこのアマ。

「ほぅ、また泣かされてぇみてぇだな、悠木の嬢ちゃん?」

「あらあら、そんな古い戦績にすがるなんてみっともないわよ。
 最近は私の勝率の方が上ってこと忘れないでよね」

 その女は腰に手を当てアゴを跳ね上げた。
 そうしてようやくその顔がよく見えるようになる。
 ニット帽からはみ出た金髪を風になびかせ、口元に笑みを浮かべ碧眼の双眸(そうぼう)でオレを見据えていた。

 全く生意気な態度だ。
 オレ様を誰だと思っている。安達郁斗様だぞ、わかってんのか?

「あの泣き虫な嬢ちゃんが言うようになったじゃねぇか。昔はヒーヒー泣いて可愛かったのになぁ。
 まぁ確かに、今の嬢ちゃんを相手にするのは比喩じゃなく骨が折れる」

 オレは既に興味の対象ではなくなった男から足をどけていた。
 オレの前に現れた女、悠木有紗の言うことを聞いたわけではない。今
 目の前にいる金髪碧眼のか細い女は、肉塊の上に足を乗せたまま対処できるようなヤワじゃねぇって事だ。
 その事をオレは身をもって知っている。
 以前、悠木有紗にへし折られた右腕が疼きやがる。

「で、何か用かい? まさか、こんなチンピラどもを助けに来たわけじゃないんだろ?」

「アンタの跡をつけてたのは用があったからだけど、このタイミングで出てきたのは、そのまさかよ。
 本当に殺す気だったんじゃないでしょうね?」

 悠木有紗は一瞬、オレの足下に転がっているチンピラに視線をやった。
 本当にこんなどこにでもいる雑魚の身を案じてオレの前に出てきたのか。
 嬢ちゃんの甘ちゃんな所は直ってないってことか。

「はっはっはっは。変な心配すんなよ。ちゃんと手加減したぜ、オレなりにな」

「冗談も程々になさい。アンタ見張られてるのぐらい分かるでしょ?」

「ああ、視線はビンビン感じるな。はっは、別にいいんだぜ。オレは視姦プレイも嫌いじゃないさ」

「その口で下品な物言い、許さないわよ」

 悠木の嬢ちゃんはその手の冗談が気にくわないようで、ツカツカと苛立ちの足音をならしてオレに近づいてくる。

「おお、こえーこえー。
 で、アイツ等は悠木の嬢ちゃんの仲間ってことはないみたいだな」

 オレはそう言いながら、以前からオレを監視していた気配を探る。
 悠木有紗の登場でざわついた気配も、もう静まっている。
 そもそも悠木有紗に仲間がいるなんて聞いたことがない。この女はいつでも一人。ほんと寂しい奴だぜ。

「アイツらのこと、知ってるのか?」

 オレの真正面にまで来た悠木有紗は何も答えず、オレを睨みつけるだけだった。

 さて、どうしたものか。
 悠木の嬢ちゃんはご機嫌斜めか。本来ならぶん殴ってやりたい所だが。
 なんだかんだいって、オレと悠木有紗は相性が悪い。

「知ってるか知らないのかぐらい、答えれるだろ」

 乾いた破裂音が裏路地に響き渡る。

 ちっ、言葉に紛れ込ましたオレのパンチを簡単に受け止めやがる。
 これでもそこに伏しているボクサー崩れをKOしたパンチなんだぜ。
 嬢ちゃんの反応速度とパワーは異常の一言に尽きる。
 これで格闘技の経験も皆無だっていうんだから質が悪りぃ。

「これは何のつもり?」

「はっ、オレと嬢ちゃんは、どう転んでも、こういう関係だろ?」

「確かにね」

 オレの拳を優しく受け止めた悠木有紗の手が、今度は静かにオレの拳を握り潰す。

 おおお、この馬鹿力が!
 オレは他人の骨の軋みを聞くのは好きだが、オレの骨が軋むのは大っ嫌いだぜ。

「素直に私の言うことを聞きなさい」

 悠木有紗はオレの拳の握り潰しながら、更に手首まで極め始めやがった。
 オレだってもちろん全力で抵抗してるんだぜ。
 それなのに嬢ちゃんは顔色一つ変えずにオレの手を締め上げる。
 オレの右手首の筋がキリキリと痛みを訴えやがる。

「おいおい、本気かよ? オレが壊れてもいいのかよ?」

「ええ、貴方を静かにさせる方法がそれしかないのなら、病院送りにするだけよ」

 このバカ女、本気かよ。
 確かにの嬢ちゃんの表情に揺るぎはない。
 これはやると言ったらやる目だってことはオレにだって分かるさ。
 甘ちゃんの嬢ちゃんがやると決めたんだ。オレだってそれなりの覚悟が必要だろうよ。

「へへ、言ってくれるね。オレも久しぶり本気を出させてもらおうか」

 悠木有紗に捕まれた右手を捨てる覚悟で左手を放つ。
 反射神経のいい嬢ちゃんなら必ず反応せざる負えない目つぶしだ。

 かわさせて隙を作るはずの一撃の答えは、腹部の痛みだった。
 オレの体は強制的に大きく後ろにはじき飛ばされる。

「お……おお」

 オレは腹を押さえてうずくまるしかない。
 いつの間にか、嬢ちゃんに捕まれていた右手は自由になっていた。
 だからといって、馬鹿力の持ち主である悠木有紗の前蹴りを鳩尾(みぞおち)に食らって、反撃する余裕は全くない。

 くそぉ、だからコイツとは相性が悪ぃんだよ!

「スピードとパワーで私に勝てると思ってるの?」

 悠木有紗はオレを見下ろして言い放つ。
 確かにその通りだ。男のオレがか細い嬢ちゃんに筋力的には完全に劣っているのは、むかつくことだが認めざる負えない。
 オレが嬢ちゃんに勝っているといえば場数と度胸ぐらいだ。
 その二つだって最近追いつかれつつある。胸くそ悪ぃ。

「やりやっがたな! てめぇ、ただじゃおかねぇぞ」

 オレが顔を上げれば悠木の勝ち誇った表情。
 不本意だか、その顔はある種完成され美しさがあった。
 まったく、えらくいい女になったじゃねぇか。あの泣き虫のガキが……。

「あ?」

 オレは悠木有紗の背後にもう一人、誰かが立っていることに気付いた。
 あからさまに怪しい黒ずくめの男。絵に描いたような不審者がいやがった。

 どっかの組の兄ちゃんか?
 昼間から黒いスーツに身を包んだその男はとても堅気の人間には見えなかった。
 悠木有紗は基本的に一匹狼だ。
 潤たち以外と連(つる)んでいる所を見たことがありゃしねぇ。
 だったら、あいつは嬢ちゃんの仲間とも思えねぇ。

「そんなベタな手には乗らないわよ」

 オレの視線に気付いた嬢ちゃんが見当違いのことを言いやがる。
 この女、あれだけ怪しい奴に背後を取られながら、この期に及んで気付いていやがらねぇ。

「嬢ちゃん、ちょっと待て。後ろ」

 オレは嬢ちゃんの背後を指差してやる。

「そんな手には乗らないって言ったでしょ」

 悠木有紗はオレの言葉を信じやがらねぇ。
 まぁ、それもこれもオレの日頃の行いって奴が原因だ。

 オレに気づかれたことを覚った黒ずくめの男は、懐から警棒のようなものを取り出して、オレたちに向かって来やがった。
 明らかに臨戦態勢。ありゃオレたちの敵だなこりゃ。

 角度的に黒ずくめが最初に狙うのは悠木の嬢ちゃんだ。背後を取っているんだから当然。
 もう二回もオレが注意を促してやったのに気付かねぇ嬢ちゃんが悪ぃんだよ。オレは知らねぇぜ。

「えっ?」

 やっとこさ、黒ずくめの男に気付いた嬢ちゃんが腕を力任せに薙ぎ払う。
 無理な体勢から放った手打ちの一撃なのに、野球選手のフルスイングのような音を鳴らしやがる。
 こえーこえー。

「なっ!」

 再び悠木有紗は驚きの声をあげる。

 彼女の腕の横薙ぎは黒ずくめの男に片手で受け止められていた。
 オレだったら避けるしかない。あんなのオレだったら両手で受け止めても耐えきれずに仰け反るな。
 それぐらいに嬢ちゃんのパワーはやべぇんだよ

 しかし、なんだあの黒ずくめは?
 明らかに普通とは違う。オレたちの前に現れたのだ。単なるストリートファイターってことはないはずだ。

 悠木の嬢ちゃんの動きを止めた黒ずくめは、すかさず手に持った警棒を振り下ろす。
 いや、振り下ろしたはずだ。オレにはほとんど見えない速さで黒ずくめの腕は振り終わっていた。

 さすがの嬢ちゃんも、これではやられたかと思ったが、やはりあの嬢ちゃんも化け物でやんの。
 黒ずくめの警棒は根本から折れてやがる。

 自らの得物が折られたのを覚って、黒ずくめの男は嬢ちゃんとの間合いを開けた。

 改めて黒ずくめの男を見れば、思ったより歳は若い。
 オレと同じかそれ以上。三十代ってことはねぇな。
 一重瞼の印象薄い顔立ちで体格も普通。街のどこにでもいそうなタイプでやんの。
 まったく、そんな奴が悠木の嬢ちゃんとまともにやり合って生きてるってのが信じられねぇな。

「……アンタ何者? どうして……。どうしてそんな!」

 嬢ちゃんが困惑の声を上げる。
 黒ずくめはその声に答えず黒ずくめが折られた警棒を投げ捨てた。そしてファイティングポーズを取る。
 問答無用ってことか。

 音を立てて路地に転がる警棒のなれの果てを見れば電気部品が見え隠れ、っておい。スタン警棒かよ! まったく危なねぇな。

「ちょっと郁斗! こいつなんなのよ!」

「オレに聞くなや」

 嬢ちゃんの舌打ちが聞こえてくる。

 にじみ寄る黒ずくめの男を前に悠木の嬢ちゃんはサイドステップで揺さぶりをかける。
 間合いに変化が現れたのを皮切りに、嬢ちゃんと黒ずくめの男は超高速の攻防を繰り広げる。
 俺もそれに参加したい衝動に駆られるが、オレのスピードでは、ちょっとばかしついていけそうにない。

 二人の格闘はほぼ互角、いや、少し悠木の嬢ちゃんが押され気味だ。
 あの黒ずくめ、嬢ちゃんの超高速の動きに追いていきやがる。
 そのくせ、パワーは嬢ちゃんより上じゃねぇの?
 あの馬鹿力の嬢ちゃんが力負けかよ。そんな馬鹿な。

 にわかに信じがたいが、それでも目の前で起こっていることは現実に決まってる。
 オレの中でわなわなと黒ずくめをぶちのめしたい衝動が湧いてくる。
 より強大な力があればそれに刃向かいたくなる。それがオレって奴だ。

「はっはっはっ。面白れいじゃねぇか」

 オレは何の勝算もなく。二人の間に飛び込んだ。

「ちょっと、あんた!」

 嬢ちゃんが抗議の声を上げる。

 はは、嬢ちゃんの都合なんてオレには関係ないってんだ。
 オレを無視して話を進めようってのが気にくわねぇんだよ!

 オレが横から割って入ったことで悠木の嬢ちゃんは動きを鈍らした。
 対する黒ずくめは間髪入れずにオレに殴りかかってくる。確かに速いが!

 オレは左手に握り込んでいた物を投げつける。
 さっきのチンピラの耳から引きちぎってやったピアス。
 地面に投げ捨ててあったものを、さっき嬢ちゃんに蹴り倒されたときに拾っておいた。
 こんなもんでも目潰しぐらいには!

 予想通りに黒ずくめは難なくそれを受け止める。
 そこにオレは渾身(こんしん)の力を込めた拳を叩き込む。

 黒ずくめの男の呻きを期待していたオレは空を切った拳に苛立ちを覚える。
 それと同時に黒ずくめの拳が逆にオレの顔にめり込んだ。

 なんとか身を反らしてダメージを減らしたが、それでも意識を保つのが精一杯だった。
 こいつ、人間の反射スピードじゃねぇ。やっぱり、嬢ちゃんと同類か!

「引いて! アンタじゃ相手にならないわ!」

 嬢ちゃんのうるさい声。ホントにオレの神経を逆撫でする奴だ。
 オレが引くだって? そんなことあるわけねぇだろ。そんなことはオレの存在意義が許さねぇんだよ。

 それでもオレは腰砕けに膝をつく。
 黒ずくめを見上げれば、オレにとどめを刺そうと更に拳を振り上げている。

 いいね。いいね。その容赦なさ、オレの好みだぜ。
 けどな。オレはボコるのは好きだが、ボコられるのは趣味じゃねぇんだよ。
 オレの考えなんて関係なしに、オレの顔に向け拳が振り下ろされる。

 重い衝突音。まったく痛々しい音だ。

「くぅ」

 黒ずくめのパンチをもらうことを覚悟していたオレの前に悠木有紗がいた。

「オレをかばうなんて、嬢ちゃんも物好きだねぇ」

「アンタは黙って下がってなさい」

 そう言う嬢ちゃんの声はひしゃ枯れるていた。
 両手で受け止めたはずの黒ずくめのパンチが押し込まれるのを耐えるのがやっと。

 あの嬢ちゃんが力負けする日が来るとはオレも思ってみたこともねぇ。
 嬢ちゃんと黒ずくめの均衡。路地裏には二人が吐く息吹が鳴り響く。

 刹那、乾いた音が背後から聞こえた。それと同時にオレの背中に衝撃が走る。
 その音が何を示すのか、オレは直ぐに見当がついた。

 おいおい。まったく洒落になんねぇぜ。飛び道具は卑怯でないの?

「そのまま女を抑えてろ。殺すなよ、大事な被検体だ」

 銃声のした方から男の声がした。
 聞き覚えのある声。どこかで聞いたことのある声。忘れてはいけないはずの声。

 振り向けば、オレたちに襲いかかってきた男と同じような黒ずくめの姿をした小柄の男がいた。

「なんだ貴様!」

 オレは、記憶にあるはずなのに思い出せない不快感と、本能が告げる敵対心を吐き捨てた。

「なんだ。私の顔を忘れたか?」

「お前……黒川か!」

 オレは叫んでいた。
 絶対に許せない男。黒川将人。

 約十年ぶりの再開。
 その年月が黒川の容姿を変えたのだろう、見た目からでは本当に黒川かどうかオレには判断が付かない。
 ただ、オレのかすれた記憶の中にコイツとダブる何かが存在した。
 それはコイツがアノ場所にいたことを示している。

 オレの本能が、オレの理性が、オレの全てが逆立っている。
 黒川、絶対に殺す!

「なっ! 本当に黒川なの?」

 悠木の嬢ちゃんは黒ずくめの男と力比べの真っ最中で、黒川の方に目をやる暇がない。

「……安達郁斗か、本当に久しいな」

 オレを知っている。奴が本当に黒川であるというなによりの証拠だ。

「へっへっへっ。やっと会えたな黒川。お前をぶっ殺せる日をどんなに待ち望んだことか!」

 オレは地に着いていた片膝を持ち上げて、ふらつきながらも立ち上がる。

 そうか、やっとわかった。オレは銃で撃たれたはずなのに痛みを感じていない。
 オレは元々痛みに対して鈍化な性質を持っているのは自覚しているが、銃で撃たれて平気なはずがねぇよな。

 視界が揺れる。意識が揺れる。
 クソ! 麻酔銃を撃ちやがったな!

「黒川、貴様ぁ!」

「まだ声が出せるのか? ゾウも一瞬で眠らす麻酔がなかなか効かんとは、鈍感にもほどがあるな」

 黒川の言葉が聞こえても、オレは悪態すら吐けずに地面に倒れ込む。

「黒川ぁ」

 恨みを込めてそう口にしてみたものの、既にオレの体はピクリとも動きやがらねぇ。

「ちょっと何してるの? 麻酔? あんた早く逃げなさい!」

 悠木の嬢ちゃんの懇願する声が遙か遠くに聞こえる。

 バカヤロウ。麻酔なんか使われて逃げられるか、よ……。

 そうしてオレ、安達郁斗の意識は遠のいていく。
 薄れゆく景色の中で、悠木有紗のうるさい声だけが耳に残っていた。



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