第一章「六ノ二は集まらない」
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週末の繁華街は平日のそれとは異質の空間といえる。
無論、大阪のキタといえば、西日本を代表する盛り場である。
一体どこから集まったのかと思えるヒトの群れが流動的にうねり続ける。
ある者は人待ちに立ち止まり、ある者は満員電車に詰め込まれる。
そんな数多の人混みの一欠片として、西家数雄(にしいえ・かずお)は急ぎ足で暖簾をくぐった。
居酒屋特有のざわつきに、なんとなく安心感を覚える。
「いらっしゃいませ。一人様ですか?」
マニュアル対応の出迎えを、西家は丁重に断った。
既に飲み会の連れは、中で始めているはずだ。
阪急東通商店街の外れにあるこの店は、西家が行き付けとしている飲み屋であった。
店員のほとんどは西家の顔を覚えているほどだ。
さっき出迎えてくれた店員は恐らく新人のアルバイトだろう。
そういえば初めて見る顔である。結構可愛い娘だった。
どうせ連れの誰かが、既に彼女に声をかけた後だろう。
西家はそんな安易な予想をする。
それは予言と言っていいほどに当たる、仲間内の常識であった。
可愛い女性を見ると絡みたくなる。
今日のメンバーは、そんなどこにでもいる男共の集まりだ。
「お〜い。P、こっちこっち」
店の奥からけたたましい声が聞こえる。
西家を待たずして乾杯の練習でもやっていたのだろう。
赤い顔をして、連れが声を張り上げていた。
西家は苦笑する。
『P』とは、また懐かしい。西家自身、なぜそう呼ばれ始めたのかも覚えていない。
そんな小学生時代のあだ名が『P』だった。
西家をそう呼ぶ者など、今日の飲み会のメンバーぐらいしかいない。
それほど、今日集まったメンバーは親密であり、掛け替えのない友達だった。
「わりぃ、遅れた」
西家はそそくさと連れのいる座敷に上がった。
人の出入りが激しい大衆向けの居酒屋ではあるが、その座敷だけは高い仕切襖に囲まれていて、妙に静かな、落ち着きのある空間を演出していた。
それでも中で飲み始めれば、場が静かであるはずがない。
その座席は常連となった今日のメンバー『6-2』御用達の席である。
他にも座敷はいくつかあるが、特に店側に要求しているわけでもないのに、彼らが来たときは、なぜかしらこの一番奥の座敷にあたるのだった。
「とりあえず、ビールでいいよな? ネーチャン、生二つ」
西家の肯定を待たずして、連れの一人が店員を呼んだ。
ちゃっかり自らの分も合わせて注文したのは、浦谷太郎(うらや・たろう)という男だった。
「士井ちゃん、おひさ。一年ぶりかな?」
西家が声をかけたのは士井治(さむらい・おさむ)。
普段は海外に単身赴任の身で、久しぶりに帰国した本日の主賓である。
そしてその横で注文を聞きに来た女性店員に、下心全開で話しかけて軽く無視されている義田秋仁(よしだ・あきひと)を含め、この四人が今日の飲み会の参加者だった。
「Pちゃん。仕事、忙しいの?」
コートを備え付けのハンガーに掛けていた西家に士井が話題を振る。
久しぶりに会ったというのに、そんなブランクを感じさせないフランクな口ぶりは、さすがに小学校からの仲は一朝一夕ではないことを感じさせるものだった。
この一年ほど日本にいなかった士井は、先ほどまで西家が脱サラをしたことを知らなかったが、既に他の二人から大体の近況は聞いていた。
転職という人生の転換点の話題に士井も興味津々であった。
「いやぁ、ぼちぼちでんな〜」
「Pちゃん、それ儲かってる奴が言うセリフやん」
西家のわざとらしい、はぐらかした答えに義田が合いの手を入れた。
『ははははは』
一同に笑いが漏れた。
久しぶりの集まりだというのに、四人の間には遠慮や緊張は皆無だった。
小学校からの腐れ縁という関係だからこその、砕けた空気がそこにはあった。
それがどんなに掛け替えのない大切なものなのか、皆、身をもって知っている。
彼らのこの集まりは『6-2』と名付けられている。
小学校で『六年二組』だった同級生、という安易なネーミングだった。
その名称は、彼らが中心となって作ったフットサルクラブ『FC6-2』に受け継がれたが、現在でも『6-2』といえば、彼らの集まりを指す言葉だった。
「実際問題、なかなか資金繰りが大変なんだ」
と前置きして、西家は近況報告がてらに今の仕事の話を赤裸々に話した。
『6-2』において嘘や隠し事なんて意味がない。そういう親密な関係なのだ。
脱サラして西家が始めたのは、輸入代理店である。
海外から物を仕入れて小売店に納めるのが主な業務であった。
その商売は、特に運転資金のやり繰りと在庫管理が物を言う。
金が止まれば物も止まる。物が止まれば金も止まる。
一度停滞を起こせば次の仕入れが出来ないというぎりぎりの自転車操業。
それまでのサラリーマン生活では全く縁のない、スリリングでやりがいのある仕事だった。
「海外のマイナースポーツブランドに特化するっていうアイディアはいいと思うよ」
「そうそう、死ぬ気で頑張れば、いけるって」
士井と義田は西家を励ます。
頑張っている人間に『頑張れ』という言葉が、どれだけの意味を持つのか。
言う側も言われた側も社交辞令になってしまうのはわかっていたが、そう言ってもらえる相手がいること自体が励ましになるのを知っていた。
そうこうしている間に、店員によって生ビールが運ばれて来た。
外は秋の終わりを告げる風が吹く季節だというのに、冷え切ったビールジョッキには結露が垂れ落ちる。
今日の幹事である浦谷が皆を制し、短い口上を始める。
「Pが来るの遅かったので、入念に練習は済んでるけど、まぁ細かいことは抜きにして。『6-2』五人の更なる活躍を願って」
『乾杯!』
「四人だろ……」
西家は自分の呟きに後悔した。反射的に出た一言だった。
たとえ、乾杯の音頭をとった浦谷の言い間違いであっても、反応せずに聞き流すのが正しい対応だったと、西家は歯がゆく思う。
その場にいる四人全員が西家の言葉の意味も、浦谷がどうして言い間違ったのかも、重々に理解出来ていた。
だから乾杯の席だというのに、誰も口を開かず沈黙が流れた。
「……飲もう」
当人たる浦谷の一言で、四人は何事もなかったかのようにグラスを打ち鳴らした。
その後、始めは西家の失言に沈んでいた四人も、飲み会特有のたわいもない話題に花が咲いた。
それが古来より人間が愛飲する酒という物の魔力であり魅力ある。
それでも西家は、どんなに明るく振る舞っていても、自分の失言が頭を離れなかった。
もしかすると他の三人も表面上は忘れたように見えて、西家と同様に気にしていない振りをしていただけなのかもしれない。
西家たちが作ったフットサルクラブ『FC6-2』の所属メンバーは年を重ねるごとに増え、今では三十名にまで至ろうとしていた。
一試合のスターティングメンバーが五人というフットサルの観点から考えると、約三十人という数字は大所帯であった。
その『FC6-2』の前身となった『6-2』は現在四人。そう、過去には四人ではなかったのだ。
同級生の集まりである『6-2』から一人いなくなった。
仲違いし、脱退したわけではない。既に一人、この世にはいないのだ。
「柳沢……」
西家は他の三人に聞こえないように、小声でその名を呟いた。他界した五人目の名前だった。
柳沢禎埜(やなぎさわ・よしの)。
フットサルでは、よくシュートを外す無器用な奴だった。
無口で何を考えているのか分からない変人。
横にいても、いるか、いないか、分からない存在感のない奴。
それでも、西家たちの友人だった。
彼奴のことは『ヤナ』とか『ヘナ』とか呼んでたっけ。
中でも浦谷と柳沢は仲がよかった。
だから今日も五人と間違ったのか……。
西家は妙に納得した。
「P。何黙ってるんだよ。これのことでも考えてるんちゃうん?」
義田は見え隠れするように小指を立てる。
「これのことばっか考えてるのは、お前だろ!」
西家は義田の動きを真似て小指を立て返す。その様子に一同から苦笑が漏れた。
「そっち方面、最近どうよ?」
「そういう浦谷はどうなんだよ。最近、行ってるのかよ?」
西家の問いに浦谷は頭(かぶり)を振る。
「金がないから全くご無沙汰です」
女の話題で、四人のテンションも、無意味に上がり出す。
やはり飲み会はこうでないと。西家は三人の様子に安心した。
それ以降、西家の心配を余所に柳沢の話題は欠片も出ることもなく、士井の海外生活談を中心に四人は酒の席を楽しむことが出来た。
しかし、楽しい場というのは長続きしないのが世の常で、終電の時間が近付くのに気付き、西家は帰る旨を三人に伝えた。
「え〜、二次会行こうよ〜」
主賓である士井の誘いも、西家は明日も仕事があるからと断った。
学生時代なら無理も出来たが、社会人となった今、仕事というしがらみはそうそう無視出来ない代物である。
「俺たちと仕事と、どっちが大事なんだぁ」
そんな浦谷の冗談めいた言葉を背に、西家は一人帰途についた。
大阪の街をぐるりと取り囲む大阪環状線は、終電近くだというのに人影が途切れることはない。
むしろ日中よりも乗客は多いのだろう。闇夜を照らす光と人を運び、車内は本日最後の賑わいを見せる。
乗客の人数の割に、皆が俯(うつむ)いて下車駅を待つ情景は、見慣れているはずなのに不可思議な印象を受ける。
薄汚れた橙色の電車に揺られ、西家も夢見心地に瞼(まぶた)を閉じていた。
西家は考える。
今日はどうしてあんな失言をしたのだろう。
いや、そもそもの原因は浦谷の失言にあるのは確かだったが、それを聞き流す配慮が出来なかった自分自身の失態が信じられなかった。
「疲れてるのかな、俺」
そんな言葉が漏れるのは、モチベーションが低下している証拠。
そんな個人の事情に関係なく、明日は仕事がある。
そう考えると、余計に疲れが押し寄せる。
リズミカルに揺れる電車の中で、西家はいつの間にか寝入っていた。