第四章 「六ノ二は眠らない」
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ドタドタと忙しなく動き回る足音が、うっすら溜まった埃(ほこり)を舞上げていた。
そこは法円坂の官庁街を北に少し抜けた雑居ビルの建ち並ぶ界隈にある、比較的新しいビルの二階だった。
テナントとして貸し出された当初の広々とした空間は、書類の山と生活ゴミで作られた谷が尾根をかたどり、見るも無惨な巣窟へと変化していた。
「どうして、私が一週間休んだだけでこうなるんです」
喜田川知恵留(きたがわ・ちえる)の上げた声は問いなどではなく単なる愚痴で、その非難の声も言われている本人は歯牙にもかけないことを承知していた。
「ちょっとは自分で片付けようとは思わないんですか」
彼女は口からは恨み言をこぼしながらも、手際よく書類を避難させて、床に散乱したゴミを袋詰めしていく。
ついでに、せっせと動いている人の目の前で、ソファーに寝転がっている事務所を散らかした当人も、ゴミとして一緒に放り出してやろう、そんな思いにかられしまう。
本当に実行してみるのもいいか、なんて喜田川は本気で考えてみた。
そのゴミならぬ、部屋の隅に置かれたソファーで、ご丁寧にアイマスクまで着けて寝たふりをしている男性は阿須賀圭(あすか・けい)。
まことに遺憾ながら、この阿須賀リサーチ事務所の所長であり、喜田川の雇い主である。
だらしない服装でソファーに転がっている彼の様子は、事務所所長という肩書きの威厳の欠片も見えなかった。
リサーチ事務所と聞けば、普通は探偵社を思い起こすだろうが、この阿須賀リサーチ事務所は少し毛色が異なる。
この事務所が調査する対象は科学的不確定事項。
今までに請け負ったのは心霊写真の真贋に始まり、健康食品の効果や、不具合製品の不良箇所など多岐に渡る。
特にテレビ局関係からは情報系番組制作に重宝されているようで、そんな所からはなかなか実入りのよい依頼が来るらしい。
しかしながらあまり需要が多いといえる職種ではないので、いつもそうそう仕事があるわけでもなく、
今のようにソファーに陣取って日がな一日、横になっている日も珍しくない。
それを見る度に、アシスタントとして雇われている喜田川は、今月の給料が本当に出るのかと不安になるのだ。
しかし、そんなときは喜田川自身が無理矢理にでも依頼を取って来て、科学的に浮気調査でもなんでもさせるのは余談である。
やっとのことで、目に付く大きなゴミをまとめた喜田川は、ゴミ袋を山のように積み重ねて一息ついた。
「ちょっとは手伝う気ないんですか?」
喜田川の言葉はまたもや無視される。
普通なら返事をしない阿須賀は寝ているのだと思うだろうが、毎日のように顔を付き合わせている喜田川は、阿須賀が面倒だから返事をしないのを知っていた。
阿須賀が事務所のソファーで横になっているときは『仮眠』と称してサボっているときだ。
重要な用件で声をかければいつでも返事が返ってくるし、どうでもいい用件ならそのまま狸寝入りする。
ただ確かに阿須賀はよく『仮眠』しているが、逆に熟睡しているところを喜田川は見たことがない。
どんなに依頼がなくて暇だったとしても、阿須賀は『仮眠』止まりなのだ。
そして希に依頼が重なって目の回る忙しさの時は、昼夜構わず精力的に働き続ける。
一体、阿須賀がいつ寝ているのか疑いたくなるようなライフスタイルだった。
普段はあまり役に立たない阿須賀だったが、その能力は喜田川も認めている。
以前は某有名大学の名高い研究室で研究職に就いていたそうだが、独立してこのリサーチ事務所を開設した。
大学の偉い所とそりが合わずに追い出されたとか、諸説噂は色々あるが、実際の退職理由は本人が黙して語らず、喜田川も知らなかった。
しかし、その理由が実力不足という不名誉な事柄ではないのは、喜田川にも察することが出来た。
そもそも、阿須賀でなければこの事務所はやっていけないだろう。
所長の阿須賀と女性アシスタントの喜田川の二名しかいない事務所。
アシスタントといっても、喜田川は事務のようなもので、多少手伝いはするものの、科学的調査は阿須賀一人でこなしているのが実情だ。
昔の伝(つて)か、阿須賀はあちこちの科学研究所に顔が利くらしく、自らの手に負えないと判断すれば、コネのフルに使って依頼を解決する。
自力でなくても依頼を解決してしまうのだから、その手腕は認めざるを得ないのである。
「どうやったらこんなに散らかるのだか……」
喜田川は小声で呟く。
愚痴も言いたくなる。彼女がこの事務所に来なかったのは一週間ばかり。
友人と関東に遊びに行ったりと、長い休日を満喫して来たのだが、一週間ぶりに出勤してみれば、事務所の中が生活ゴミのむせぶる空気が漂い、酷い有様だった。
処理中の案件がなかったのだから休暇を取ったわけで、この一週間で依頼が大量に舞い込んで来たとも考えにくい。
つまり散乱している資料の類は阿須賀がどこからともなく引っ張り出して片付けていないだけの代物だ。
そしてこの一週間、家に帰らず事務所で寝泊まりしただろう生活ゴミが見るも無惨だった。
片付けるのは自分しかいないと諦めて、喜田川は書類の山に手をかける。
阿須賀が手伝わないのは経験上知っているし、逆に手伝われたら整理した資料をひっくり返しかねない。
一人でやった方が効率がいいし、喜田川も手慣れたものだった。
小一時間も掃除すれば、一週間前に喜田川が退社した元の事務所が返ってくる。
資料は一カ所にまとめられ、スッキリと片づいた清々しさに喜田川は満足した。
彼女はにじむ汗を拭って腰を数回叩く。
肉体的に疲れたと言うほどでもなかったが、今日はこれ以外の仕事をしないと決めた。
後はキングファイルの棚にリサーチ資料を戻せば本日終了。
阿須賀に散々文句を言って帰ってやる。
喜田川はストレス解消の算段を立ててほくそ笑む。
計画が立てば早いもので、見る見るうちに資料の山が棚へと消えていく。
そんな中、ふと一冊のファイルに目が留まり、喜田川のきびきびとした動きが止まった。
「阿須賀さん、これどこに置くファイルなんですか? 分類はちゃんと表記してくれないとわからないですって」
やはり仮眠だったのだろう。やる気のない動きで阿須賀はのっそりとアイマスクをずらした。
資料の分類表記だけは阿須賀もしっかりしているはずだった。
そうでなければ喜田川に片付けてもらえないからだ。
それなのに分類表記がないということは、特殊な資料なのだろう。
そうして喜田川と目が合った阿須賀は、しばしの間、止まってしまう。
普段やる気の見えない阿須賀だったが、さすがに一事務所を切り盛りする所長だけあって、頭の回転は異常に速い。
仮に寝惚けた頭であっても、喜田川の質問に答えるのに時間を要するなどあり得ないはずだった。
「阿須賀さん。起きてます?」
阿須賀の様子を勘ぐって喜田川が声をかけた。
事務所で本当に寝惚けるようになってはお仕舞いだ。
喜田川も早々に転職を考えないといけない。
「あ〜……。それはその辺に置いといてください」
阿須賀が部屋のどこともつかない宙を指差して、再びアイマスクを降ろす。
その阿須賀からはいつも以上にやる気が感じられなかった。
「その辺じゃわかりませんって。なんなんですかこのファイル。依頼のリサーチ資料じゃないんですか?
資料棚に新規で入れときますからね」
「いえ……、私の机の引き出しに……」
寝転がったまま、阿須賀が力無い声で言う。あまりにも無気力な声に、喜田川が不審に思う。
らしくない阿須賀の様子は、この資料が相当に特別なものであると示していた。
「机って、これ私物なんですか? 事務所にスペースないんですから、私物だったら持って帰ってくださいよ」
「……それですかぁ。それは依頼を受けて調べたけど、色々あってね。依頼人死んじゃったし」
阿須賀はアイマスクをしたまま、適当に答えた。
「死んだ? じゃあ、要らないんですかこの資料?」
「折角調べたレポートを要らないっていうの寂しいよね?」
「ゴミはゴミ箱に、ブタはブタ箱に、でしょ?」
「……これは手厳しいね」
喜田川は手に持ったファイルを開く。最初のページにある定型テンプレートの依頼書に目を通す。
依頼を受けた日付は四年も前になっている。
喜田川がこの事務所に勤め始めるよりも前、事務所を開設した当初のものだった。
「依頼人は義田、秋仁……さん? この人の遺族にリサーチ結果やら資料やら、全部渡したらどうですか?
そうやって整理していかないと、この事務所、紙資料で埋まっちゃいますよ。
こんな資料を全部紙に印刷している事務所、今時ウチぐらいじゃないですか?
どこもパソコンでデータ管理してますって」
喜田川の言いように、阿須賀がむっと口元をとがらせる。
「電子媒体と紙媒体のメリットデメリットを解って言ってます?
紙媒体には紙媒体の良さってものがあるんです」
「そういう台詞は資料をちゃんと整理整頓してから言ってください」
「その為に喜田川さんを雇っているんです」
無神経な阿須賀の言葉が喜田川の逆鱗に触れる。
確かに事務仕事は喜田川の仕事だが、雑用と下に見られるのは我慢ならないのだ。
そんな怒りの心境を押し込めて、彼女はにこやかに嘘の笑みをしてみせる。
アイマスクをした阿須賀に見せられないのが勿体ないぐらいに満面の笑みだった。
さてどうやって仕返ししてやろう。
忘れた頃にネチネチとやり返す方が面白い。
資料分類をしながら喜田川はそんな考えを巡らす。
彼女の心中を知ってか知らずか、阿須賀はソファーで寝返りを打った。
「……義田秋仁かぁ」
阿須賀が思い出したように呟く。無意味に意味深な呟き。
どうやら阿須賀は事情を聞いて欲しいようだ。
喜田川はさっそく仕返しとばかりに無視するのもありかと考えたが、喜田川自身も少しばかり興味が湧いた。
「依頼人の人、リサーチが終わる前に死んじゃったんですか?」
資料の詰まったキングファイルを分類する手を止めずに喜田川が聞く。
その手早さには目を見張るものがあった。
「聞きたい? このリサーチのこと?」
「誰も聞きたいだなんて言ってません。阿須賀さんが話したいだけでしょ。
作業がてらに聞き流してあげますから、どうぞご自由に」
やはり本人が話したかったのだろう。直したはずのアイマスクをおもむろに取り去り、阿須賀はソファーを飛び降りた。
そして芳ばしい香を上げるコーヒーメーカーから、たっぷりと黒い液体の入ったサーバーを取り外すと、マグカップ二つを手にとって自分のデスクに陣取った。
今まで仮眠を貪(むさぼ)っていた人間とは思えない俊敏な動き。
どこからどう見ても話したくて仕方がないように見える。
二つのマグカップからほのかに湯気が上がる頃には喜田川も観念し、阿須賀のデスクに隣接して設置してある自らの席に着いた。
その目前に、すっとコーヒーが差し出される。
「あれは四年前の十一月二十日頃だったかな。
ああ、詳しい日付はその資料に書いてある通りなんだけど。
……そう、あれはみぞれ交じりの鬱陶しい日でした」
阿須賀の大げさなでお決まりな前振りを、喜田川知恵留は暖かいコーヒーをすすって聞き流した。