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 その男の名をコルッシュ・ムジカという。
 顔にはうっすらと無精髭を生やし、薄汚れた帷子(かたびら)に裾がすり切れた羽織(はおり)を着流す弓使い。
 流れの傭兵にしても、その垢抜けた姿はニ十六という歳を聞けば、意外な若さに驚いてしまうだろう。
 そのコルッシュは何気なく遠方を見つめていることが多い。それが弓使いとしての性(さが)なのか、それとも何か思うところがあるのか、彼は語ろうとしない。
 黙したまま、どこともつかぬ遙か先をただ見つめている。そんな不思議な男だった。

「よ、少年」
 そんなコルッシュが珍しく用もなく声をかけてきた。
 彼は黙っていることが多いが、別に何も喋らぬ無口ではない。実際に口を開くと、東方の訛りがある口調の軽い男だ。ただ、オーディと必要以上に関わりを持とうとしていないのは明らかだった。
 それなのに、見張り番で一人のときを狙ったかのように突然声をかけてきたので、オーディは怪訝な顔をした。

 既にクロセリカの町を出て十二日が経っていた。
 アーリッシュ川沿いに北上していた頃はよかったが、その川も砂漠の中心に向かうにつれ、熱気で干上がり、涸れ川となってしまった。
 そうなってくると、昼に砂漠を進むなど命知らずのすること。
 一行は夜に進み、昼は天幕を張って日陰を作り、体を休めていた。それでもなお、昼の熱気と夜の冷気に体が軋む。それに加え砂漠の乾きだ。無理な行程を進む一行の体力は徐々に、そして確実に削られていく。
 昼の休息にと張った天幕から見る太陽が、砂漠の海に沈もうとしている。天が赤く染まる中、オーディは一人見張りについていた。
 コルッシュに話しかけられても、取り立てて反応する気にもなれず、視線だけを近付いて来た男に送った。
 そうしてしばらく何か物思いにふけ、ようやくにして口を開いた。
「名前……」
「ん? どげんした?」
 オーディの呟きにコルッシュが脳天気な声を上げる。その反応を見て、オーディは深い息を吐く。
「……俺のこと、名前で呼ばないんですね」
「おお? 名前? なんね、俺っちにも気さくに名前で呼んで欲しいんか。案外寂しがり屋なんね?」
「別にそんなんじゃないですよ……。名前は特別なものだから……」
 そういうとオーディはまた黙り込んでしまった。
 あまりにも在り来りな反応に今度はコルッシュの方が溜息を吐いた。
 砂漠に入って一行は魔獣と幾戦か交え、オーディの十四とは思えない戦技を目の当たりにしたが、やはり精神的には子供の域を出ていないと感じられた。
「特別ねぇ……。確かに、名いうのは、どげんしても拘ってしまうけん。わからんでもない」
 そうコルッシュに同意されても、オーディは返事をしなかった。
 コルッシュも顔を上げ、オーディが眺めている砂漠の景色に顔を向ける。
 そのオーディの視線は単に野営の見張りというだけではない。それ以外の何かを砂漠に見ているように思えた。
 昼と夜の間隙。砂漠の夜が始まろうとしていた。
 夕焼けの空気が重く、時が止まったような感覚が脳裏にまとわり付く。
「……オーディ・クロファリ」
 しばらく太陽が沈みゆく様を見ていたコルッシュが呟きの声を上げる。それはオーディの姓名だった。
「やっぱり……、知ってたんですね」
「ケルケのとっつぁんが話しとるの、聞きよったけんね。やっぱしクロファリちゅう姓(かばね)はおまんにとっても特別け? クロエ族の直系しか名乗れんと聞いたきに」
「どうなんでしょうね……。ただ、あの村で生まれたってだけですよ……」
 オーディの無理矢理の苦笑が見ていて痛々しかった。
「今は姓を名乗っとらんらしいねぇ」
「……えぇ」
「村を出たからけ?」
「そうですね。……いえ。村に捨てて来たんです。何もかも……」
「妹さんの話け?」
 キルビから聞かされていたのか、それともオーディ達の会話を聞いていたのか、コルッシュもオーディの妹の件を知っていた。
 言及されたことに怒りは覚えなかったが、語る言葉も見付からず、オーディは再び押し黙った。
「まぁ、人には言いたくないことぐらいあるけん。そういうのを大事にするちゅのは悪いことやないきに」
 そう言うとコルッシュは首から下げた黒ずんだ金属の首飾りを手に取った。それを器用に指で弾き上げると再びオーディに向き直った。
「おまん、俺っちに似ちょる」
「……似てる? どこがですか? 顔も性格も、全然違うと思いますけど」
「そうやね……。えらいガキなところ……かね」
「コルッシュさんは立派な大人じゃないですか」
「俺っちはそんな立派じゃないきに。俺っちが言うてるのは、ガキなのに背伸びしてガキをしたがらん何もわかっちょらんガキやってこと」
 オーディはコルッシュの言葉に反感は覚えなかった。むしろ、自身はその通りなんだろうと半ば認めていた。
 しかし自分はともかく、数日の付き合いとはいえ、黙々と傭兵業をこなしているコルッシュがそんな人間であるとは思えなかった。
「コルッシュさんもそんなガキだったんですか?」
「昔な……、いや、今もじゃきに」
 夕焼けの砂漠を見つめるコルッシュの目も、遙か遠い何かを見つめていた。
「……コルッシュさんはずっとケルケさんの護衛を?」
「いや、別件でルゴーラに行っとった。けんど、帰るに帰れんなって」
「ルゴーラ?」
 知らない地名だった。とはいっても、オーディは生まれてこの方、エルト地方と旧イルルガ領ぐらいにしか行ったことはない。流れの傭兵をしているコルッシュに比べれば、完全な田舎者だ。
「ムルトエ王国の南部にある街やきに。ムルトエ王国は入出国が厳しい国じゃけん。まぁ仕事柄、仕方がなく密入国したぁはよかったんけど、帰りの計画が崩れてしもて。それでケルケのとっつぁんに拾われて、こうしてムルトエを出たけんね」
「ムルトエ王国ですか……。あんまり知らない国ですが、そいうのを聞くと、普通じゃなさそうですね」
「そうけんね。たぶん、このエルトに隣接する国の中で一番やっかいな国なんは確かじゃきに」
 エルトに隣接するといっても、広大な砂漠の反対側では全く交流がない。
 オーディの実感するエルトという地は、クロセリカを中心とする砂漠地帯の南部だけに過ぎない。
「やっかいって、西征を行っているアレクドニアよりですか? あそこは未だにタゴン国を攻め続けているそうじゃないですか」
「そりゃあ、攻められる国にとっちゃアレクドニア帝国は怖ぇ国じゃけん。俺っちの国もあそこに滅ぼされてしもた。いや、別に気にしとらんよ。昔の話しじゃけん。じゃきい、ムルトエっちゅうのは何するかわからん怖さってのがあるけんね」
「何をするかわからない? 一体、どういうことですか?」
「や、そのうちわかる」
 そう言うとコルッシュは砂の柔らかい地面に座り込んでしまった。
 先程まで日向だったその地面は熱く熱されていて、そのままではとても座れたものではないはずだが、少し身を固くして見せただけで、コルッシュは何も言わずそのまま座り続けた。
「コルッシュさん。ちゃんと休んでください。まだ気温が下がるまで少し間があります。見張りは一人で大丈夫ですから」
「いや、なんね。俺っちも傭兵長いから、なんとなし、落ち着かんて」
「はあ……、何がですか? 野宿は慣れてるんじゃ?」
 傭兵稼業であるコルッシュ・ムジカが野営に慣れていないはずがない。一度旅立てば、整えられた寝床などは言うに及ばず、毛布なしに寝ることだって日常茶飯事のはずだ。
「いや、なん言うか、こうね、遮る物のない場所の野宿は怖いけん」
 そう言うと、コルッシュはすらりと人差し指を天に向けた。その指の先には何もない。そう、本当に何もない空があるだけだ。
「そういうことですか。確かに普通はこんな開けた場所で野営しませんからね」
 通常の野営といえば、魔獣や敵に対応する為、陣を張る場所を慎重に決める。敵の発見を優先して高台に陣を構える時もあれば、身を潜めるように窪地にする場合もある。
 しかし、このエルトは広大な砂漠。しかもその真っ直中を行く一行が今いる場所は、地平線まで真っ直ぐに見渡せる荒野の大地。もう少し北の砂丘地帯まで行けば別だが、この辺りには隠れる場所もなければ押さえるべき高台もない。
 ただただ広がる砂地の大地と雲一つない空に挟まれて息が詰まりそうな感覚を覚える。
「そげんね、辺り一面から見られるいうか、昼は暑ぅて陽炎で視界歪むし、夜は夜で輝薔薇(きばら)があちこちで光るきに。そこら中に灯りがあんのも、なん言うか、首筋がムズムズする言うか。慣んきに」
 コルッシュは手で後頭部をさする。その仕草が妙に滑稽だった。
「それに……、何んね。空が……」
 少し間を置く様な途切れ途切れの声を出し、コルッシュは上を向く。つられてオーディも天を見上げた。
 半分に割れ始めた空。日が沈む西の空は赤紫に色を変えていた。そして残った半分を深い紺が包んで、白く輝く筋が幾多に流れる夜空が現れ始めていた。
 もうすぐ流星が舞いしきる夜天が視界一面に現れる。この広い砂漠よりも更に広く広がる空。あの日となんらかわらない、あの夜空が現れるだろう。
「空が落ちてきそう、ですか?」
 オーディがコルッシュの言葉の先を言う。
「……そげんね、星も闇も、全部が全部。空が降って来そうで、正直怖いけんね」
 空が降る。そんなのはあり得ない話だ。だが砂漠に浮かぶ圧倒的に広い空を目の当たりにすれば、そんな妄想を抱く気持ちもわからないではない。
「……コルッシュさん。御神の神話、知ってますか?」
「御神? ……もしかいね、八つ神の?」
「そうです。八柱目の神。いえ、零番目の原初の神と言った方が正確かもしれません。よく神話で語られる七つ神と違い、御神は七つ神が誕生する創世の神話ぐらいでしか話に聞かないですから」
 だからこそ、この世界は七つ世と呼ばれている。原初たる御神はこの世界には関係がない。そう言う者までいる始末だ。
「その御神様がどげんしたとね?」
「クロファリ村に伝承される神歌には、その御神がよく出てくるんですよ」
「よく出る? へ〜 俺っちは全然聞いたことないがやな」
「たぶん、それだけクロファリの伝承が古いってことだと思います。その神歌の中に……話せば長くなるんですが、結論だけを言ってしまえば、天で生まれた八つ神は御神を残して、皆、天から地上に降りて来たらしいです。そして天に残った御神が一人で空を、星を、全てを落ちて来ないように支えているそうです」
「空を支える? この空を?」
 コルッシュは今一度、空を見上げた。さっきよりも僅かにだが紺が増していた。
「御神が支えているから空は落ちて来ないそうですよ」
「その神歌、おまん信じとるんか?」
「……よく、わかりません。神がいるのか、いないのか……」
 オーディは言葉を濁す。
 神とは一体何なのか。そんなこと考えたくなかった。いや、そんな疑問を抱く者がいるなんてこと自体が常識外れだ。
 人は皆、神の加護の下に生きている。それを疑うものなぞ聞いたことすらない。
 それなのにケルケ・カナトは「神はいない」と言った。何の根拠があって神がいないなんて言うのだろう。その真意は定かではない。
「おまん、疲れとるんじゃないけんね?」
 コルッシュにはオーディが無理をしているように見えた。ただでさえ砂漠の真ん中を縦断する過酷な行程である。それ以上にオーディは気を張っているように思えて仕方がなかった。
「疲れて……いません、と言ったら嘘になるんでしょうね。今回の旅路は俺にとってやっぱり特別な物ですから……」
 妹を失って村を出た少年が、その生まれ故郷に帰るのだ。楽しい里帰りではないことは明白だった。
「なら、見張り交代するきに。おまんが休め」
「いえ、そうもいきません。砂漠に慣れてない皆さんでは」
「俺っちも傭兵長いけん。砂漠には慣れとらんでも見張りぐらいやるっちゃ。な、オーディ?」
 自然に名前を呼んでもらえたことを、オーディは素直に嬉しいと感じた。
 このコルッシュ・ムジカという男は不思議な人だ。懐が深いというのだろうか、もし彼が『砂漠の雁』の団員になったのなら、猪突猛進が信条であり、それ以外の選択肢を持たない団長の良い補佐になるだろう。そんな楽しげな想像をしてしまう。
「……わかりました。少し休ませてもらいます。気温が下がったら出発ですのでお願いします」
 そう言うと、オーディは天幕で作った日陰へと移動した。
「まったく、融通が利かんいうは、ガキの特徴じゃけんね」
 コルッシュの吐いた言葉は、日の入りを告げた赤い空に消えていった。 



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