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砂漠の砂に直接寝転がった感触が柔らかくて気持ち良かった。
昼の暑さにやられた体が未だに火照(ほて)っている。
幾度となく息を吐き捨てて、その体を冷まそうとしても、なかなか思い通りにはいかず、夜が更けるのを待たなければ、そのまとわりついた熱気はどうしようもなかった。
昼間も歩いたのは無謀だったかな。こんなで明日、歩けるかな。
心の中でそう問うて、泣きそうになる。
行くも帰るも砂漠、歩かなければ砂漠で野垂れ死ぬだけ。命を繋ぐ水ももう無くなった。
そろそろ諦め時かな。その言葉は心中何度も吐いて来た。それでも体は歩むことを止めはしなかった。
往生際が悪いのは一体誰に似たんだろう。その問いの答えを教えてくれる者はいなかった。
親の顔を知らないのを嘆いたことはない。けれども、寂しさを感じなかったこともない。
どこに向かえばいいのだろうか。こんな砂漠の真ん中で最も考えてはいけない問いが頭を駆け巡る。
行く先も知らず砂漠に出た者の末路は、死んで砂漠の砂になるしかないのに。
夜空を見上げれば満天の星空。
幾多の流星が流れる空は、どこにいても同じように人々を見下ろしている。
こんなことなら星詠みを習っておけばよかった。けれど、妹が習ったばかりの星詠みを自慢げに披露するのを見るだけで充分だった。そう思っていた。妹が自らの下から消え去るなんて考えたことすらなかった。
心をじりじりと焦がす感情。普段ならとっくに泣いている。でも、視界が涙でにじむことはない。もう瞳に集める水分さえ、この体に残ってないのだ。
既に首を動かす気力すら費えていた。夜空を無力に見つめながら、この空に降る流星の数を数え続ける。その数が千を超えたとき、もう諦めがついた。
このまま死のう。
このまま横たわったまま白き砂に埋もれ、幾年月の後、砂に返ればいい。
それがクロエの民らしい最期だろう。
そして息が止まる。
砂漠の夜風。冷たかった。
荒涼の砂音。喧(やかま)しかった。
星空の輝き。眩しかった。
純白の水鳥。綺麗だった。
思考が止まった。
白い鳥? 頭がとんでもないことを言い出した。
こんな砂漠の真ん中で、こんな星降る夜空に、真っ白な鳥の姿が見えたというのだ。全く笑えてくる。
あり得ない場所にあり得ない幻を視る。
幻といえば、昼間も白い塔が見えたっけ。そんな曖昧な記憶が走馬燈のように廻る。
遂に頭もおかしくなったか。一週間以上砂漠を彷徨い歩けば無理もない。
どんなに頭が熱に侵されようと、もう死ぬのだから関係ない。そう言い聞かせて瞼を閉じる。
「こんばんは」
声が聞こえた。
最期を覚悟し瞑目(めいもく)したのに、何を期待しているのかと我が耳を疑うしかない。
いや、幻聴まで始まったのだから、死ぬときが来たということだろう。
「こんなところで寝ていると凍えますよ?」
幻聴は妙にはっきりと、言葉として聞こえてきた。生まれて初めて聞く幻聴に戸惑いを隠せない。
「あの? もしもし? 起きてらっしゃいますよね?」
あまりに生々しい幻聴にそっと目を開いた。
その視界を占めたのは人の顔。
顔を間近に寄せた少女の顔。
それも幻だ。そう思ったとき、少女がそっと微笑んだ。
自分より少し年上の少女。どことなく妹に似ている。
それは真っ白な姿をした不思議で素敵な娘だった。
「あぁ……」
かすれた声しか出なかった。乾ききった喉には、もう一滴の唾液もない。
「どうかなさいましたか?」
いつかどこかで会ったような気にさせる優しい笑みを湛えた少女。幻なんかじゃない。
「み、みず……」
「お水? ああ、水不足なんですね。少々お待ちください」
少女はじっと空を見上げた。
星でも詠むのかと、その美しき横顔に見とれてしまう。
しかし、彼女が星を詠むことはなかった。
彼女の視線の先に星はない。満天の星空だったはずの夜天の空から流れる星々が消えていた。
「く、も……?」
そう呟いたとき、顔に冷たい何かが触れた。
それがまた一つ、また一つと、体全身に触れていく。
これは雨。そうわかったときには、耳に地鳴りが聞こえるほどの大雨が降り注いできた。
自分の見ているもの、聞いているもの、触れているもの、全てを疑った。
この砂漠に生まれ育って、乾期のこの時期にこんな大雨が降るなんて信じられるはずがない。第一、今は干ばつの真っ最中だ。
そんな思いとは別に、体は水を求めていた。口を精一杯に広げ、降り注ぐ水を飲み干した。手を大きく広げ火照った体に雨を塗りたくる。
乾いていた体は見る見る潤沢に満ちていく。天に向けたままの口が突然閉まる。喉に水が入り咳き込んだ。しかし、それは嫌な感触ではなかった。
どのぐらいの間、雨が降っていたのだろうか。小降りになったかと思えば、雨雲は幻のように消え、再び流星降りしきる夜空へと戻っていた。
今し方の大雨は何だったのか。一瞬の白昼夢を見たのではないか。そんな思いを否定するように、砂漠の砂は確かに湿り気を帯びていた。
「どうですか? だいぶ水を集めたつもりですが?」
少女はにっこりと微笑んだ。その笑顔に見とれてしまい、思わず頬が赤らんだ。
しかし、あまりのことに我に返る。少女も、そのまとう白き布も全く濡れていない。湿り気すら帯びていない。そもそも、砂漠に突然の雨という異常な事態が未だに理解出来ないでいた。
「どうして雨が? 空は晴れてたのに……」
「あの程度の量でしたら空気から取り出せますので」
「空気から取り出す? 何を言っているの? ……君は一体?」
「私ですか? 名はキャロルと申します。『喜びの歌(キャロル)』という名を頂きました。ありとあらゆる人に祝福を与える存在になれ、という意味が込められているそうで、この名は私の誇りです」
そう言って彼女は満面の優しい微笑みを浮かべた。
その姿、やはり妹の面影が垣間見える。服装もクロエの民族衣装に似ているので、クロエの一族の者かとも思った。
しかし、いくら思考を巡らしてもこの少女に会った記憶はない。第一、この少女は肌までも白い。クロエの者でここまで白い肌なぞあり得ないことはよく知っていた。
「あなたのお名前は?」
白い少女の柔らかい声に聞き惚れた。そして彼女はにっこりと頭を傾げた。それが返答を待つ姿だと気付いて、慌てて自身の名を告げた。
「変わったお名前ですね。失礼ですが、あなたはどうしてここにいらっしゃるのですか?」
「……妹を、妹を探しに」
「妹さん? もしや迷子なのですか?」
「迷子……、とは言わないと思うけど、いなくなってしまったんだ」
「それは大変です。……しかしながら、この辺りにはおられないようですね」
「いない? どうしてそれがわかるの?」
「はい。徒歩数日の範囲に、あなた以外の気配を感じません。もしや、探す方向を間違われたのでは?」
方向を間違った。その言葉が心に突き刺さる。
何の為にこの死の砂漠に入ったのか。妹を捜す為、妹の命を留める為。それなのに、ここまで来た行為が全くの徒労だと言われたのだ。動揺しない方がおかしい。しかし、まだ本当に方向を違えたと決まったわけではない。
「……気配って? そんなことがわかるの?」
「はい。割と正確に」
彼女には気配だけで広大な範囲の人の有無が知れるという。あまりに突拍子もないことだったが、目の前の少女にはそれを納得させるだけの不思議な雰囲気があった。
「そう……、ありがとう。でも、もう少し探すよ」
いないと言われても、それをすんなり聞き届ける気にはなれなかった。妹はこの『白の砂漠』に投げ出されたはずなのだ。
『白の砂漠』は生命の住めぬ場所。魔獣すら寄りつかぬ不毛の土地。そんな場所で妹が無事生きていてくれたなら。そう願うしか術はなかった。
「キャロル……。君はどうしてこんな場所にいるの?」
自身がされた問いをそのまま返した。『白の砂漠』に少女一人が現れるなど考えられないことだった。
「あなたがいらっしゃったので様子を見に」
「僕が来たから?」
「はい。人にお会いすることなんて、長らくありませんでしたので、どういう服装でお会いすればいいか苦慮致しました。この服は変ではないですか?」
キャロルはその場で回って見せた。白い布地を折り重ねた服が、ふわりと膨らみ舞う。
やはりクロエ族の女が着る古い民族衣装に似ていた。しかし、クロエの衣装よりも荘厳(そうごん)な雰囲気をまとっている。
「……よく似合ってる、と思う」
年上の女性にそういうことを言うのは気恥ずかしかったけれど、本当によく似合っている。そう思えたから素直に口に出た。
「ありがとうございます」
と、彼女は破顔の笑みで答えてくれた。それが余計に恥ずかしくて赤面してしまう。
「君はクロエの民なの?」
クロエの民族衣装に似た服を着ているとはいえ、クロファリ村で彼女を見たことはない。彼女のような可憐な女性を見れば忘れるはずがないのに。
「クロエ? とは何でしょう?」
クロエ族を知らない。それは少女がエルト地方の集落出身者ではないことを示す。
しかし、ここはエルトの砂漠。それもその最深部といわれる『白の砂漠』の真っ直中だ。一体彼女はどこから来たというのだ。
「それじゃあ。どこの村の人? ここはどこかの村の近くなの?」
「……村ですか? この辺りに人の住む場所はないはずですが」
「知ってるよ。だから聞いているんだ」
「私は誰とも。人とは暮らしてはおりません。私は独りですから」
「独り……」
その寂しい言葉を、少女が気にする様子もなく答えたのが溜まらなく悔しいと思った。
「本当に独りで暮らしているの?」
「ええ」
白い少女は力強く首肯(しゅこう)した。
その態度が無性に腹立たしかった。そんなに独りが好きなのだろうか。
この数日、砂漠でずっと独りだった。
どんなにあの生まれ故郷の村に帰りたいと思ったか。
独りはこんなにも辛いのに彼女はそれを知らないとでもいうのだろうか。
彼女の白い姿は、何物にも染まらぬ純潔を思わせる。
それは、何者とも交わらぬ孤独その物なのかもしれない。
「ねぇ……。だったら、一緒に来ないかい?」
*
「オーディ起きい、そろそろ時間じゃきに?」
コルッシュの声が掛かり、オーディはゆっくりと目を開けた。
別に寝ていたわけではない。目を瞑り、四年前のことを思い出していた。
白い不思議な少女と会ったときのことを。幾度思い返しても夢か幻を見ていたとしか考えられない出会い。
あれが現実に起こった出来事だと、誰が胸を張って言えよう。
オーディが体を起こすと、ケルケとミルミーアが天幕を畳み始めていた。
空は漆黒に変わっていた。大きな赤月も昇り、辺りの砂が月光を反射する。
砂漠のあちこちに生える輝薔薇(きばら)も、ほんのりした明かりを見せていた。
絶好の夜行日和だった。オーディは一つ伸びをして立ち上がった。そしてウーパに荷物を載せて皆に声をかけた。
「今夜、歩き続ければ、夜明けまでには見えてくると思います」
「クロファリの村か?」
ミルミーアが子供らしい明るい声で言う。そろそろ砂漠の旅路にも飽きていたのだろう。村が近いと知って、気が逸っているようだった。
「ええ、俺の生まれたところです……」
何を思っているのか読みとれない顔。今はまだ地平線しか見えない夜の砂漠を、オーディはじっと見つめていた。
そしてエルトの砂漠は、いつも通り夜を演じ始める。