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 宙に浮くのは、白い少女だった。
 真っ白な布を体に巻き付けて織りなす原始的な衣。膨らみを帯びて体を覆う白き衣は、胸深く巻かれた帯がなければ全て解けてしまいそうだ。
 そして、その体の周りを、更に透き通るような薄布が面紗(めんしゃ)のように彼女全体を柔らかく包み込んでいる。
 四年前はクロエの民族衣装に似ていると感じたその衣も、改めて見てみれば、明らかにクロエのとは異なる。もっと洗練された何か、衣をまとう意味が根本的に違うと感じられる何かがあった。
 純白の衣に守られし少女。衣にも負けないほど白い柔肌が衣の間、そこかしこから見え隠れしていた。
 その白き姿はまるで遙か地平線に見える『白の塔』に瓜二つ。
 『白き塔』と違うところといえば、彼女の双眸(そうぼう)が青く輝いて、白一色でないことだ。

「私の名を覚えていてくださったのですね。光栄です」
 澄み切った楽器の音色を思わせる声が、砂漠の侘びしさを打ち消すさえずりを奏でる。
 まるで歌声にも聞こえるその声こそ、キャロルという名を持つ彼女の全てのようにさえ感じられる。
 その透き通る青き瞳が、オーディ達三人を見下ろしていた。
 皆、その白き娘に見とれてしまった。それほど、その少女は神秘的な雰囲気を放っていた。
「浮いちょる……」
 コルッシュが唸るように言う。
 驚きという感情は、時として都合のいいものだ。思考が混乱し何も出来ないでいる。そんな驚かされる瞬間とは往々にして、何もしないことが正解であることが多い。
「オーディ……。この者と面識があるのですか?」
「ええ、四年前に一度」
 オーディが自分を覚えていたのが嬉しいのか、満面の笑みをたたえ、彼女はゆっくりと空から降りてきた。
 ふわりと浮いていた衣は、彼女が砂の地面に足が着いた途端、忘れていたかのように地に引き寄せられる。
 白き少女が完全に着地したとき、衣は今にも地に引きずらんばかりになっていた。
 明らかに服が大き過ぎて、完全に体に合っていない。
 いや、どちらかといえば、少女の体の方が小さいのだ。キャロルの容姿はまだ未成熟な幼い娘にも見える。
「魔法使い!」
 叫ぶような声と共に、弓を絞る音が聞こえる。
 我に返ったコルッシュが弓を番(つが)え、少女を射ろうとしていた。
 少女の姿に呆気にとられていたが、宙に浮くなど人の所行ではない。そんなことが出来るのは魔法使いだけだ。
 『魔法使い』それは人には為せぬはずの異様の法を使い、戦場に出れば一騎当千と呼ばれるほどの圧倒的な戦力として破壊の限りを尽くす。
 それは死を振りまく魔性の存在。敵として出会えば真っ先に殺すべき相手。そうしなければ死ぬのは自分の方である。
 狙いを付ける間さえ惜しむ速射の構え。
 相手が少女の姿をしていようがコルッシュに躊躇う様子がない。
 そもそも相手が本当に魔法使いであれば、真っ向から勝負して弓矢が何の役に立とう。魔法使いを前にした弓使いに残された生きる道は奇襲しかない。
 無論、敵味方の判別を前にした攻撃に是非を問う声はあるだろう。しかし、コルッシュの判断は傭兵としては非常に合理的であった。
 たった数歩の距離。コルッシュに外す理由はない。
 しかし、コルッシュの指は弦から離れることはなかった。

「オーディ……」
 コルッシュの目の前に黒き肌の少年が立っていた。
 誤ってコルッシュが指を滑らせれば、オーディの胸に矢が食い込むであろう。そんな心配を余所にオーディは黙ったまま立ち塞がる。
「コルッシュ! 自重せよ! 何の為にこんな砂漠の果てに来たのだと思っているのです」
 横からケルケも制止の声を上げた。ケルケにしては強い口調、いや、明らかに怒りを露わにしていた。
「じゃけん、アレは明らかに」
「コルッシュ!」
 今度は完全に威圧する為にケルケは声を張り上げた。その表情は鬼気迫るものがあった。
「どうかなさいましたか? 何か問題でも?」
 当の本人である白き少女キャロルが不思議そうに首を傾げていた。
 少女のあまりに無防備な様子に、コルッシュは唖然とし、弓を降ろして息を吐いた。
「コルッシュ、わかっていますね」
「わかっちょる。もうせんけん。アレの相手はおまんらがしい」
 そう言うと、コルッシュは肩をすくめてオーディ達から数歩離れていった。
 そして砂地の地面に腰を下ろすと、矢こそ番(つが)えないが弓を持ったまま、弦の張り具合を調整し始める。
 それに一安心したのか、「彼女のことは任せます」との視線をオーディに送り、ケルケも一歩身を引いた。
 どうやら全権を任されたオーディは、キャロルという名の少女に歩み寄った。
「いきなりすまない。仲間が早まった」
「私は別段構いませんが、それでオー・ディ様、今日はどのような御用向きで?」
 用向きと聞かれたが、何と答えたらいいものだろうか。表向きはケルケが地神ディフェスの神殿を調査に来たということだろう。しかし、それをキャロルに言うのは正しくないように思えた。
「君に会いに来たんだ、キャロル」
 一瞬、何を言われたのかわからなかったのだろう。今度はキャロルが呆けた顔をして固まった。
「……そ、それは、本当ですか?」
「ああ。そうだよ。君と話がしたくて」
 少しの苦笑いを含んでオーディは言う。
 それは嘘ではなかった。オーディは不思議な力を持つ彼女が何者なのか。彼女こそが地神ディフェスなのか。それを調べに来たのだ。
「ど、ど、ど、ど……」
 今までにこやかな笑みを浮かべていたキャロルが、突然、真剣な顔をする。
 そして何やら言おうとするのだが同じ言葉を繰り返し続けた。
「キャロル、どうかしたのかい?」
「ど、ど、どうしましょう! え、あ、どうしましょう! どうすればいいんですか? 私なんかに会いに来てくださったなんて。あ、あ、あ、まず、お持てなしをしないと、私ったらなんて失礼な。こんな所に折角の訪ねて来て頂いた方を放っておいて。少々お待ちください!」
 少女の身に似合わぬ大声でまくし立てると、キャロルは右手を天高く振り上げた。するとその指先がほんのりと薄緑の光を帯びた。
「な、何を?」
 キャロルの行動の意味がわからず、オーディが戸惑いの声を上げる。
 ただならぬ雰囲気に、座り込んでいたコルッシュも立ち上がり身構えた。
「ご心配には及びません。喚んだだけです」
「喚ぶ?」
 少女の言うことをオーディは理解出来ずにいた。
 いや、その後に起こったことを目の当たりにしてもなお、理解出来ようはずがない。
 いち早く気付いたのはケルケ・カナトだった。もしかすると、彼は元々そういう可能性があることを知っていたのかも知れない。
「あれを! 塔が光っています!」
 ケルケの言葉に、『白き塔』があるはずの方角を見れば、地平線から僅かに顔を出した塔がはっきりと見えた。
 朝日に白んだ空に溶け込んで姿が希薄となった塔が、妙に鮮明な光の輪郭を得て目に映る。
 その『白の塔』が発する光はキャロルの指先の輝きと全く同じ薄緑の色をしていた。
 地平線の上で暁(あかつき)に浮かび上がる白い塔。東雲(しののめ)に溶け込んで、新たな月にでもなってしまいそうなほど美しい輝き、それは不知火(しらぬい)とでも言うべきであろうか。
 仄かに、幻想的に、その淡い緑色の輝きが徐々に強くなっている。いや、次第に光が大きくなっていた。
「嘘じゃろ……」
 コルッシュのこぼした一言が、オーディ達の感情を全て物語っていた。
 地平線の彼方に光る塔。それが少しずつだが、はっきりと見えるようになってきている。
 動いている。『白の塔』がこちらに向かい、近付いて来ているのだ。
 太陽の輝きとも、夜天に光る星々とも異なる淡い光が塔の輪郭を照らし出す。澄んだ朝空に映る塔は皺の入った三角帽のような印象を受ける。
 遙か地平線の向こうにあったと思っていた塔が、次第に全貌をオーディ達の前にさらけ出していく。
 それでも塔の根元は白い霧に包まれてまったく見ることは出来ない。耳を澄ませば、遠くで地響きのような低い轟音が鳴っていた。
「塔が……、動いている……?」
 オーディの独り言が聞こえる距離にいるにもかかわらず、キャロルは腕を振り上げたまま目を瞑り、一心に祈りを捧げているようであった。
 その頃には、こちらに向かって来ているのは疑いようがないほど塔が大きく見えていた。
 始めは小指の先ほどにしか見えていなかった『白き塔』が見上げるまでになっていた。
 塔のあまりの大きさに、どの程度近くまで来ているのかすらわからない。
 もう普通の建築物としては充分な大きさ見えるのに、なぜか遠い。
 それは圧倒的であった。雲にも届かんという高さを持つ塔が近付いてくる。それも鳥が飛ぶよりも遙かに速い。
 そんな非常識な光景を前に、オーディ達はどうすることも出来ない。ただ立ち尽くしてその様子を見ているしかなかった。だがしかし、次第に言いしれぬ不安感に襲われる。
「お、おい。まずいんじゃーなが?」
 コルッシュも気が付いたようだ。塔の根元に白い霧のように見えていたものが何なのか。
 それはこっちに向かってくる塔に押し除けられる砂漠の白い砂だ。それが高波のようにうねりを上げて巻上がっている。
 雪のように細かい砂が、それこそ吹雪のような砂嵐となって塔の下部にまとわりついていた。白き砂嵐は塔ごと雪崩の如く滑り、津波の如く迫って来る。
「……逃げた方がよさそうですね」
 こんな事態に陥ろうとも、ケルケの声は冷静だった。いや、こんなときだからこそ、冷静になろうと努めていた。
 だが逃げた方がいいと言った割に、足は一歩も動いていない。あまりの光景に飲まれ、体がいうことを聞いてくれないのだ。
 眼前の事象を引き起こしているらしいキャロルに声をかけるが全く反応がないばかりか、いつの間にか、振り上げていた指先をまるで音楽団の指揮者のように華麗に宙を舞わし、無邪気にはしゃぐ子供のような純真の笑みを浮かべ踊っていた。
 それは平時なら見とれるぐらいに幻想的な舞踏なのだが、今ばかりはそんな場合ではない。遂に、地響きが地震のように実際に地面を揺り動かすようになる。
 目の前には『白の塔』の前進によって作られた砂の波。逃げようにも砂漠に逃げ場なんてどこにもない。
 既に砂の波は町一つ飲み込んでしまうほどの大きさに達していた。
 高が人の身ではもうどうしようもない。砂の流れに巻き込まれ圧死するか、その波の後ろを突き進んで来る塔の外壁に激突死する。そんな未来しか想像出来はしない。
 無論、死を覚悟して『白の砂漠』に入った三人だが、まさかこんな死に方をするなどとは夢にも思わなかった。
 『白の塔』が動くとか、砂の大波に襲われるとか、常軌を逸しているにも程がある。
「キャロル!」
 もう一度、少女の名前を強く呼んだ。すると、今まで踊りに夢中だった彼女がぴたりと止まる。そして小さな少女の体が見る見るうちに宙へと浮かび上がった。
 鬼火のようにゆらゆらと宙に浮いた少女は、迫り来る砂の波から庇うように三人の前に降り立った。
 キャロルが少し移動しようが、『白き塔』もそれによって作られた砂の波も、なんら変わらずにオーディ達に向かって来る。その白き大波が口を大きく開けた魔物に見えた。
 目の前まで砂の壁が押し寄せ、オーディの頭上で砂の波頭が砕ける音がした。
 四年前には砂漠で死にかけた。義姉に戦技を仕込まれ、幾多の戦場を戦い抜いた。そんな命の危険を味わってきたオーディだ。多少のことが起こって慌てることはない。
 しかしだ。いくらなんでも砂の大波に飲み込まれるのは度が過ぎている。オーディは咄嗟に目を瞑ってしまった。
 直ぐ後ろでコルッシュが騒ぎ立てる声がするが、一度目を瞑れば妙に落ち着いてしまうもので、オーディは心静かに砂の到来を待った。
 しかし、なかなか砂に飲み込まれる感触がない。音は直ぐそこに聞こえている。砂の擦れる流砂の濁音が大音響で鳴っている。それなのにまだ砂は体に降りかからない。
 首もとにくすぐったい感触を感じ、オーディは目を開けた。
 足下で砂が荒れ狂う。怒号のような白き砂の流れ、それが蜷局(とぐろ)を巻いてオーディの脇をすり抜けていた。
 あと一歩立つ場所が違えば、オーディの体は砂の雪崩の直撃を受けていただろう。
 運がよかったのか。そんな疑惑を抱いて顔を上げれば、目の前に流砂の壁があった。
 それは動く砂で出来た壁。身の丈よりも高く押し寄せる流砂の流れはオーディの体だけを避け、砂の雪崩が目の前で割れていた。
 その割れ目の中にいるからこそオーディは未だに死んでいないのだ。あまりにも不可解な砂の動き。
 よく見れば、オーディの体が、キャロルの指と同じ色の淡い光を放っていた。そして体の周りには粉雪のように舞う砂が浮いている。
「これはキャロルがやっているのか?」
 砂雪崩の割れ目の中でオーディが声を張り上げるが、砂の立てる轟音でその声はかき消された。
 しかしながら砂の流れを割るなんて出来るとすれば、この事象を起こしている本人らしいキャロルしかいないだろう。それは答えを聞くまでもない。
 次第に砂の流量は少なくなってくる。鳴っていた轟音も姿を消し、静かな砂漠が戻りつつあった。
 砂の雪崩で舞い上がった白き砂が細氷のように降り注ぐ。
 朝日を浴びてきらきらと光る砂粒の中に、変わらぬ少女の後ろ姿を見付けた。背後にはケルケとコルッシュの気配もする。どうやら二人もキャロルによって守られたようだ。

「これが『白の塔』……」
 ケルケが唸った。キャロルが立つ更に向こう側に白い壁がある。
 どんな壁かと聞かれれば、白い壁としか言いようがないほどに絶対無比な壁が左右にも上にも伸びて視界を覆い尽くしている。
 塔の全貌を知ろうと見上げれば、首が痛くなるほど上を向いてもその尖端も見えやしない。
 更にその塔の太さも脅威のもの。外周を測ればクロセリカの町がすっぽりと収まるかもしれない。周りを一周するだけで、散歩には充分過ぎるだろう。
 巨大な塔にあまりに近過ぎて、天を貫く壁にしか見えない。
「はは、洒落にならんぜよ」
 腰を抜かしたコルッシュが呟いた。その壁はオーディ達から百歩ほどの所まで来ていた。
 まだ僅かに動いてオーディの方に向かって来ている。あれほど巨大な物体だ。急には止まれず徐々に止まろうとしているのだ。
 塔が完全に止まったのは、キャロルが「喚ぶ」と言ってから四半刻は経っていただろう。それでもまだ、巻き上がった砂は収まりきらず、宙を舞っている。
 それは今さっき起こった現象がただならぬものという証。
 少女は降りしきる砂の雪の中、そこに舞う妖精のようにふわりと振り返る。
「ようこそ、おいでくださいました。私のお客様」
 恭しく頭を下げる少女は、場違いに明るかった。

  



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